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#5 誰かの2番目
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フロアの片隅にある化粧室へと足を向け、鏡の前に立つ。
しばらく無言で立ち尽くし、薄く赤みがさした自分の顔を見つめた。
田上さんの「約束ね」と口にしたときのほんの一瞬見えた無防備な笑顔。
それを思い返している自分に気づき、内心、苦笑する。
線を引いたつもりなのに、気持ちは簡単に越境してしまいそうになる。
そのとき、背後でドアが開いた。
靴音と香水の香りに……鏡越しに見なくてもわかる。磯崎美優だ。
水音がひとしきり流れたあと、唐突に声が落ちる。
「田上さんを狙ってるんですかぁ?」
磯崎美優は表情を変えないまま、唇に淡い色を重ねていた。
戸惑いと警戒が同時にこみ上げ、私は手を止めた。
返事をするつもりなんて無い。
ただ無言で消え掛かった眉を書き直す。
磯崎美優は気に留めた様子を見せず、続けた。
「やめた方がいいと思いますよ。遊んでそうだし。彼女、いるって言ってましたよ。」
彼女の毒を含ませた甘い声が、敵意を隠しもせずに私を動揺させて楽しんでいるのがわかる。
彼女を見返す気にはなれなくて、目も合わせずに出口に向かう。
「花田さんって、ほんとに変わらないですよね」
リップのキャップを閉じる音が、乾いた音を立てた。
「いつも、誰かの"2番目"が好きみたい。」
あの頃と同じ……口元に勝ち誇った笑みを浮かべ、嘲笑う磯崎美優にうんざりする。
——誰かの“2番目”。
そんな言葉、今さら痛くもないはずだったのに。
妙に喉の奥がつまるような感覚がして、押し込むように唾を飲み込んだ。
自席に戻り、そっと椅子に腰を下ろす。
画面には、さっきまで開いていた資料がそのまま残っていた。
数字や図表の羅列。普段なら迷いなく処理できるはずの内容……なのに、思考がどこかから戻ってこない。
「約束ね」——。
あのときの声の柔らかさと、目の奥にあった静かな熱が、不意に脳裏を掠める。
その情景を頭から追い出すように資料に視線を落とせば、今度は磯崎美優が嘲笑した姿が脳裏に浮かぶ。
"いつも、誰かの"2番目"が好きみたい。"
私はゆっくりとまぶたを閉じ、深く息を吸って吐いた。
(仕事中……集中しなきゃ)
そう言い聞かせながら、指先でキーボードを叩き始める。
黙々と数字を入力し、資料をひとつずつ片づけていく。
作業に没頭していれば、感情は少しだけ後ろに下がってくれる。
やがて、ふと手元の時計に目をやる。
定時まで、残り十五分。
(今日の業務はほぼ終わってるし、あとは明日の確認をすれば帰れる)
そう思って、画面にスケジュール表を開いたそのとき——
「花田、ちょっといいか。」
背後から課長の声がした。
呼ばれた瞬間、両肩に重りを乗せられたような感覚がした。
嫌な予感というものは、不思議と外れない。
立ち上がって課長のもとへ向かうと、分厚いファイルを手渡された。
「磯崎が体調不良で、先に帰らせたんだ。かわりに残業、頼むよ」
そう言って差し出された書類には、見慣れた筆跡で書かれたメモが丁寧に留められていた。
その文字を見るだけで、磯崎美優の勝ち誇ったような顔が自然と浮かぶ。
「……はい。」
短く答え、資料を抱えて席に戻る。
また、誰かの代わり。
何度も繰り返してきたことなのに、今日はなぜか少し堪えた。
モニターの前に座り直し、手元のスマートフォンを取る。
To:田上 智
本文:
すみません、急に残業になりました。
また、改めて。
花田
送信を終えると、スマホを伏せた。
画面にうっすら映り込んだ自分の表情は、思ったよりも沈んで見えた。
静かに仕事を片づけ、今日が終わっていくのを……私はただ、受け入れるしかなかった。
しばらく無言で立ち尽くし、薄く赤みがさした自分の顔を見つめた。
田上さんの「約束ね」と口にしたときのほんの一瞬見えた無防備な笑顔。
それを思い返している自分に気づき、内心、苦笑する。
線を引いたつもりなのに、気持ちは簡単に越境してしまいそうになる。
そのとき、背後でドアが開いた。
靴音と香水の香りに……鏡越しに見なくてもわかる。磯崎美優だ。
水音がひとしきり流れたあと、唐突に声が落ちる。
「田上さんを狙ってるんですかぁ?」
磯崎美優は表情を変えないまま、唇に淡い色を重ねていた。
戸惑いと警戒が同時にこみ上げ、私は手を止めた。
返事をするつもりなんて無い。
ただ無言で消え掛かった眉を書き直す。
磯崎美優は気に留めた様子を見せず、続けた。
「やめた方がいいと思いますよ。遊んでそうだし。彼女、いるって言ってましたよ。」
彼女の毒を含ませた甘い声が、敵意を隠しもせずに私を動揺させて楽しんでいるのがわかる。
彼女を見返す気にはなれなくて、目も合わせずに出口に向かう。
「花田さんって、ほんとに変わらないですよね」
リップのキャップを閉じる音が、乾いた音を立てた。
「いつも、誰かの"2番目"が好きみたい。」
あの頃と同じ……口元に勝ち誇った笑みを浮かべ、嘲笑う磯崎美優にうんざりする。
——誰かの“2番目”。
そんな言葉、今さら痛くもないはずだったのに。
妙に喉の奥がつまるような感覚がして、押し込むように唾を飲み込んだ。
自席に戻り、そっと椅子に腰を下ろす。
画面には、さっきまで開いていた資料がそのまま残っていた。
数字や図表の羅列。普段なら迷いなく処理できるはずの内容……なのに、思考がどこかから戻ってこない。
「約束ね」——。
あのときの声の柔らかさと、目の奥にあった静かな熱が、不意に脳裏を掠める。
その情景を頭から追い出すように資料に視線を落とせば、今度は磯崎美優が嘲笑した姿が脳裏に浮かぶ。
"いつも、誰かの"2番目"が好きみたい。"
私はゆっくりとまぶたを閉じ、深く息を吸って吐いた。
(仕事中……集中しなきゃ)
そう言い聞かせながら、指先でキーボードを叩き始める。
黙々と数字を入力し、資料をひとつずつ片づけていく。
作業に没頭していれば、感情は少しだけ後ろに下がってくれる。
やがて、ふと手元の時計に目をやる。
定時まで、残り十五分。
(今日の業務はほぼ終わってるし、あとは明日の確認をすれば帰れる)
そう思って、画面にスケジュール表を開いたそのとき——
「花田、ちょっといいか。」
背後から課長の声がした。
呼ばれた瞬間、両肩に重りを乗せられたような感覚がした。
嫌な予感というものは、不思議と外れない。
立ち上がって課長のもとへ向かうと、分厚いファイルを手渡された。
「磯崎が体調不良で、先に帰らせたんだ。かわりに残業、頼むよ」
そう言って差し出された書類には、見慣れた筆跡で書かれたメモが丁寧に留められていた。
その文字を見るだけで、磯崎美優の勝ち誇ったような顔が自然と浮かぶ。
「……はい。」
短く答え、資料を抱えて席に戻る。
また、誰かの代わり。
何度も繰り返してきたことなのに、今日はなぜか少し堪えた。
モニターの前に座り直し、手元のスマートフォンを取る。
To:田上 智
本文:
すみません、急に残業になりました。
また、改めて。
花田
送信を終えると、スマホを伏せた。
画面にうっすら映り込んだ自分の表情は、思ったよりも沈んで見えた。
静かに仕事を片づけ、今日が終わっていくのを……私はただ、受け入れるしかなかった。
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