死の餞ヲ、君ニ

弋慎司

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第2部

#49 もう一人の自分

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「クロノス、要件ってなんだ?」
「来てくれたんだね。まずはありがとう」
 彼女の──クロノスの部屋は閑散としている。
 それは綺麗という状態よりも、必要最低限のものしか置いていないからこその物静けさだった。
 古びた建物独特の臭いがする。それはどの部屋でも同じで、俺の部屋も例外ではないけれど。
「飲み物が欲しいのか? それとも読書?」
 クロノスは魔力を使わない間、寝たきりを強いられている。魔力は有限だ。したがって、日常生活をする為に魔力を消費するのは、避けて然るべきなのだ。
 結局、一通りの世話は俺が担当することになった。彼女は男に世話をされることを快く受け入れた。
「いいや……もっと近くに来てくれないか」
 彼女の希望通り、ベッドに近づく。
 基本的にクロノスはベッドの上にいる。今も紺色の髪を扇のように広げて、茨姫のように眠っていたところだろう。
「ん……? 本当にどうした、具合でも悪いのか──」
「──つかまえた」
 クロノスの顔を覗き込むと、彼女は口の端を尖らせて笑った。背後から迫るものの正体に、気づくのが遅れる。
「っ……!?」
 金属が擦れ合う音と同時に、鎖が俺の体を目に見えない速度で縛り上げる。
 背中で曲げられた腕が、重なって固定される。足首を床から突き出た鎖に捉えられ、足の付根まで拘束された。
 鎖は二重、三重に交差して巻き付くと、鉄でできた首輪の先端で束になっていった。
「ふっ、かわいい人。これでもう逃げられない」
 磔にされた俺を、クロノスは目で弄んだ。するとベッドから起き上がり、側に近づいてくる。
 逃げようにも、強固な鎖が捕らえた獲物を離さんと、体中を蝕んでいる。
「うっ……駄目だ、クロノス。魔力を無意味に消費するのは……」
「おや、こんな状態でもまだ私に説教を? 鎖に縛られた君は、言わば私の掌の上──だ。魔力を使えばこんなことだって……できる」
「うっ……ああ……」
 クロノスが指を鳴らす。次第に全身の力が、意思を持ったかの如く逃げ出した。
 抵抗力はもちろんの事、自力で立つことすらままならなくなった俺は、鎖に支えられ、辛うじて直立した姿勢を保っている。
「鎖による力の吸収、および略奪──といったところか。ふふっ、熟れた体、美味しそう……食べてもいい?」
「な、何を言って……」
 後手に拘束されたせいで、体は腹部を突き出すようにして止まっている。目の前には四足で顔を乗り出す少女が、頬を上気させていた。
 体と、クロノスの顔の距離が近すぎて、顔が熱くなっていく。思わず目を逸らした。
「んっ……ねえ、本当に覚えてないの? 私はこんなに求めているのに……ねえ」
 恐れていた現実が忽然と姿を現す。
 クロノスが脇目もふらずに、俺自身にかぶりついてきた。脳裏に電流が走ったような気がした。
「っ、あ……んっ……! クロノ、スだめだ、こんな……」
 目蓋を開けているのに閉じているような明暗が、高速に入れ替わる。
 なにより──怖い。はじめて見る顔、はじめて聞く口調の彼女が、怖い。逃げたいけれど、体に力が入らない。
 しかし俺のことなどお構いなしに、クロノスは食み続けた。腰までの長さの横髪を、耳にかけるしぐさがいかにも女性らしい。
「ふふ、勃ってるね……いい感じ……」
 服の上から嬲られたそれは、自分の意志に反して屹立していた。耐え切れず声を上げる。
「や、やめろ、やめてくれ!! 何がしたいんだ、君は誰だ……」
「これが本来の私だよ。ねえ、私がいくつに見える?」
 少女はシャツのボタンを、上から順番に外し始めた。
「……っ。子ども、幼子にしか見えない。少なくとも大人には……見えない」
「そう。残念ね、私はこんな見た目だけど、年齢は君とたいして変わらない。ねえ、さっきの質問、答えは……? 
 彼女の語る事実を、鵜呑みにしていいものなのだろうか。言葉だけは受け取れたが、考える余裕までは与えられなかった。
 クロノスは指先で、下腹部の真下にある膨らみを小突く。それからズボンのチャックに、両手を伸ばし始めた。
「知らない! 覚えてなんかない、人違いだ。知らないんだよ本当だ。たのむ、やめてくれ……クロノス……」
「……嘘を言っているようには見えない。それはそうか。なら──もう一人の君を呼んでよ。話がしたいの」
 クロノスの鋭い視線が、少しだけ和らいだように感じた。
──もう一人の俺。確かに心当たりはあった。だが、俺にとってはその程度だ。これを正直に話さなければ、命を落としかねないと思った俺は、言葉の綱渡りをするように口を開いた。
「……もう、ひとり……。君の言う通り、いることは知っている。でもわからないんだ、それが誰なのか、どうやったら姿を現すのか……」
「それは困る。あの人は、他の悪魔たちの前に現れることはあっても、私の前では一度もなかった。どうして、見た目は瓜二つなのに、なんで私のことを覚えていないの……」
「…………」
 クロノスは怒りをぶつけるように、けれど寂しさに曇った瞳でつぶやいた。
「試しに呼んでみてよ。もしかしたら……が、あるかもしれない」
「……呼んだことなんて一度もないから、わからないけど。それでも──」
「──構わない」
 少女の指示通りに目を閉じて、内側にいるもう一人の自分を意識する。
 そして、祈るように呼びかける。出てきてほしい、と願った。
 しかし、何も変わらない。呼びかけに失敗してしまったのだろうか。
「……やっぱり無理だ、俺には……っ……あ──」
 諦めかけた刹那、意識は混濁し、視界は何重にも景色が揺れ動いて見えた。
 目の前が黒一色に染まると、気を失ったように眠りについた。

──やはり、そうか。
 次に目を開けた時、俺はベッドの上にいた。
 外は明るいとは言えない、けれど暗いともとれない灰色の空で覆われていた。朝と呼ぶには少し早い時間だった。
「…………」
 比較的大きなサイズのベッドだ。隣ではクロノスが、寝息を立てて横たわっている。俺も彼女も、服を着ていなかった。ベッドの周り、あるいは椅子の背に乱暴に投げられた衣服だけが、この状況を物語っている。
 なんとなく、クロノスの行動から察していた。
──居る。
 きっと俺ではない、もう一人の自分という人が、彼女を抱いたのだろう。
 それならば、以前ルドルフを抱いたのも──。
「う、ううん……」
「…………」
 俺はベッドから起き上がると、心なしか微笑んで眠る少女を起こすことのないように、自分の衣服をかき集めて着直した。
 そして俺は、シャワーを浴びるために部屋を出た。

 ***

 大浴場は床も壁も、天井さえも黒タイルでできている。
 おかげで常に暗く、明かりといえば窓代わりのステンドグラスと、バスタブの底から照らし出されたライト。それから、仕切られたシャワールームのそれぞれに設置された明かりだけだ。
 どちらかというと、風呂としての機能よりも雰囲気作りを優先した──といった所だろう。
「ん……?」
 五つに分けられたシャワールームのうち、一つに明かりが灯っていた。誰かがシャワーを浴びている。
 その人は俺が浴場に来たことにも気づかず、体の汚れを洗い落としていた。床に滴る雫は、赤く濁っている。
 俺が近づいていくと、愛する人はシャワーでくもりを落とした鏡を見て、ほんの少し驚いたような表情をしていた。
「こんな時間にどうしたの、ルドルフ」
 ルドルフの首に優しく腕を絡め、囁くように問う。この瞬間、さっきまで考えていたことが嘘のように晴れ、ただ──この子をどう甘やかしてやろうか、という事しか頭に残らなかった。
「あ……。先程、不死鳥様にお飲み物をかけられて……貴方こそ」
 ルドルフは手を伸ばしてシャワーを止めた。ただでさえ静かな空間が、より一層の静謐に包まれる。
「気づいたら、クロノスの部屋で眠ってしまっていたみたいで。朝騒がしくしてもいけないだろうから、今のうちにと思ってね」
──半分は本当。残りの半分は、自分でもどう説明していいかわからなかった。
 鏡の向こうに立っている彼を覗く。
 普段はスーツで隠している魅力的な体躯を、余すことなく露出していた。マシュマロのような白い肌は、触れると溶けてしまいそうなほど柔らかい。髪は濡れて肌に張り付いている。細い毛先から雫が流れ落ちていった。
 こんなに無防備な男を見てしまったら、例えどんな手段を使ってでも食べてしまいたい、と誰もが思うに違いない。エデンの園にいたアダムとエバのようには、きっと戻れないだろう。
「ん……う……」
 顔を振り向かせて、齧り付くように唇を合わせる。舌を突き出すと、いとも簡単に絡み合った。舌を這わせながら胸や腰を弄ぶと、淫らな吐息が溢れ出る。
「ルドルフ……んっ、愛してるよ……」
「は、ギル、ティさ……ん……」
 名残惜しそうに唇を離す。蕩けたように恍惚とした表情を浮かべる彼は、困ったように眉を寄せた。
 時々、どうしようもなく奪ってしまいたくなる。
 ここにいる悪魔たちからだろうか、彼の想い人からだろうか。心も体も、すべてを欲してしまうほどに、嫉妬の炎が踊り狂う感覚を何度も味わった。
──はやく、俺のものになってしまえばいいのにな。
「……ごめん、用事を思い出した。俺はすぐに出るから、君はゆっくりしていて」
「ふふ、困ってしまいます。あまりからかわないでください……」
 もう一度ごめんと謝ると、彼の頬に口づけをして、その場を後にした。

 ***

 自室に一人。俺は鏡の間で立ち尽くしていた。
 かつては鏡を避けて生活をしていた。極力意識をせずに、決してもう一人の自分など見ないように。
 けれど今は違う。俺は知らなければならないのだ。でなければ──。
「…………」
 唾を飲む。覚悟を決めて、深呼吸をした。
 会えるのかどうかなんて、実際にやってみなければ分からない。出会った後、するべきこともわからない。
 俺はもう一人の自分というものに、殺されてしまうのかもしれない──。
 そんな事を考えながら、第一声を発した。
「もし、俺の声が聞こえているのなら、姿を見せてほしい」
 そもそも、本当の俺は今ここにいる俺ではなく、向こう側の俺なのかもしれない。俺が俺であると証明できるものなどないのだから。
「嫌だと言うなら、それでもいい。今まで見て見ぬ振りをしていたのは、俺の方なんだから」
 自分にとって都合のいいことばかりを並べて、相手を呼んでいる。
「あなたの事を知りたい。いいや、知らなくてはならない。どうか俺に教えてくれ、ええと……名前、は──」
──鈴の音が聞こえた。
 透明なガラスの中で、小石が外に出たいと左右に揺れ動くように。透き通るような音だった。
「…………」
「あなた……が」
 その人はただの一言も発することなく、鏡の向こうから俺のことを見ていた。
 赤髪で天鵞絨の軍服を着ている。血のように染まった赤いマントを羽織り、その人は堂々と立っていた。──見た目だけは、俺とほとんど同じなのだ。
 けれどその表情は冷酷だ。瞳は爛々と光る緑の蛍光色で、両頬には、大きく縦に開いた傷口を縫い止めた跡がはっきりとしていた。
「…………」
「──まって、待ってくれ!」
 鏡の縁の外へと消えてしまった、その人を追いかける。手を伸ばすと、体は真っ直ぐに鏡の中へと溶けていった。
 別な世界へと入り込んでしまった俺は、夢のような現実に息を呑んだ。
「は……ここは……」
「俺は最期までお前と会うことはないと思っていたよ、ギルティ」
 俺の名前を呼ぶその声は、決して俺のものではなかった。
 どうやらここは、教会のようだ。ワインレッドの絨毯が、祭壇に向かって一直線に伸びていた。
「……っ、眩しい……」
 声のする先を見ようとも、ステンドグラスの窓から差し込む光はあまりにも眩くて、俺は目を細めながら右腕で目蓋の上を覆った。
 段差の上にある祭壇に、その人はいる。輪郭がぼやけてしまうほどの逆光を浴び、シルエットは歪んでいた。
 その人の傍らには──棺桶が置かれていた。棺桶の縁に腰掛けながら、その人は中にいる何かを見ていた。
「なにから話そうか。そうだな──」
 俺は赤黒い棺桶を見るやいなや、釘を打たれたような胸の痛みに冷や汗をかいていた。
 それは恐怖で、俺は棺桶から目を背けたくて堪らなくなる。
 どうしてここへ来てしまったのだろう。今すぐにでも逃げ出したい。しかし、知ることを望んだのは──俺だ。
「──そこに誰がいる?!」
「……ああ。お前は見ないほうが懸命だ。だが、中に誰がいるのかくらいは教えよう」
 逆光に照らされた男は、棺桶の中にいる何かを撫でるような動きになる。
 そして男は──口を開いた。
「わかりやすく言うなら、そうだな……。これは──死んだお前の心だよ」
「────」
 その瞬間、頭の中が真っ白になった。
──畏敬の念は、払拭されていた。
「悪魔の父──と呼んでやるのは可哀想だけど、悪魔たちは彼を本当の父親のように慕っている。が、当然本当の父親でないことくらいは分かっているんだろうな」
「それは……間違ってない」
「それならいい。父と契約したのはお前じゃない。俺の魂だ。よって、悪魔の力を得たのも──。いや、少し多めに貰ったのが俺だったというだけ、だな」
「…………」
「話は長くなる」

──お前は、ギルティという人は、体よりも先に精神を壊されていた。体の方は、傷だらけではあったが生きていた。
 俺はお前を見つけた時、既に死んでいたよ。
 お前の体に俺の魂が触れた時、いとも容易く溶け込んだ。同じ血が流れているからかな。
 そしてお前の心を、魂を見た。
 ひどい有様だった。生まれてこの方涙なんて流したこともなかったが、今度こそは目尻が熱くなったような気さえした。
 心が死んだら、復讐すら果たせない。けれど──お前の心を殺してもなお、のうのうと生きている奴らは死ぬべきだ。
 だから俺がお前の魂の代わりを務めることを誓って、体を借りたんだ。
 さんざん復讐をした。きっと復讐以外のこともした。客観的に見ても、俺はたくさんの人を殺したよ。
 そしていつからかこう呼ばれていた。──『戦場の女王クイーン』と。
 結局は戦いに明け暮れた兵器。満身創痍の体に、より多くの傷を受けて死んだ。
 死ぬ間際、地べたに斃れた俺の前に現れたのが──契約主となる父だ。
 父は言った。君はもうすぐ死ぬが、その魂を預かっても良いかと。俺はその契約に乗った。
 だがしかし、障害が多すぎた。もともと魂のみ地上を彷徨っていた俺には、体がない。父と契約するには体が必要だったんだ。
 父が試行錯誤してくれたおかげで、召喚の儀は無事成功に終わった。途中で発生した事故も含めて、大成功と言わざるを得ない。
 お前を蘇らせながら、俺の魂は付属品として共に目覚めた。大成功の意味は他でもない、お前の死んだ心だけが分離したんだ。それが事故だった。
 俺はお前の死んだ心を預かって、お前の受けた傷を自分のものにして、ここに置いておくことにした。
──また、お前の心が目を覚ます時まで。

「……俺は、確かに死んだはずだった……。あなたは、どうしてそこまで……」
 とめどない涙が溢れた。俺はこの人がいなければ、ここにいなかったかもしれない。
 だのに俺は、知ろうとしなかった。知ることを恐れて、知った先の世界を自ら閉ざしていたのだ。
「単に、面白そうだと思っただけだよ。それに、体のない俺と心のないお前は、凹凸がうまく噛み合っていた」
「たったそれだけで……」
 未だ逆光の輝きは失われていない。けれど、俺にはその口元の動きが読み取れた。
──その人は、笑っていた。
「しかし問題はその後だ。付属品であり姿を持たない俺は、お前に存在を知らせる術がなかった。俺が表立つことができる条件は二つ。お前の魔力が不安定な時、もしくはお前が俺を呼んだ時だ」
「ああ、だから度々意識を失っていたのか、俺は……」
「後者はそも、お前が俺に気づけなければ無理な話だ。そして魔力を受け取る器としての体さえ十分に持たないお前は、それを制御する力がない。ある程度決まった周期で、魔力に耐えきれなくなると俺が出てくる。そういう仕組みになっていた」
 その人は、棺桶の中にいる俺自身の心、という者の方へと振り返る。
 きっと手のあたりを握っているのだろう。その人は、ずっと手を離さずにいた。
「では、その……。あなたが表に出た時に、暴れていた──というのは? いや、これは皆が言っていたからそのように……」
「構わない。だってそれは、お前に気づいてもらう為にした事だ」
「それは、気づかなかった俺が……ううん、違う。薄々感じてたのに、逃げていた俺のせいだ」
──先程から謝ってばかりだな、と指摘されてしまう。申し訳ないという思いばかりが募り、無意識に口にしてしまっていたようだ。
「……今後は、お前に呼ばれた時にだけ現れるようにする。魔力が安定するように、こちらから制御させてもらおう。いざとなれば、女王と呼ばれただけの権能を使う」
「……ああ、それは助かるよ。ありがとう」
 窓から差し込む強烈な光が、力を増していく。別れの時が近づいてきたようだ。
「──忘れないでほしい。もう二度と、お前を傷つけたくないと、守ると誓った奴がいたことを」
 俺はもう、ほとんど何も見えていなかった。
 少しだけ、あともう少しだけ、一秒すら惜しい。
 声を上げなければ。次こそ、彼の名前を呼べるように──。
「名前を……あなたの名前を……!!」
「俺か。俺は────」
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