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第2部
#61 奪還
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──あと二秒。動くのが遅ければ、僕は死んでいただろう。
まるで黒色の塗料のような波が、森の一本道を躊躇うことなく飲み込んだ。レイセン君とアイネも、無事この波を避けられていただろうか。彼らとは反対側に逃げた僕には、まだ知る由もない。
黒い波に飲まれた者が一人。満身創痍の悪魔だ。全身を覆い尽くした波が引いてゆくまで、僕はギルティであった者の行く末を追わずにはいられなかった。
「……生きてる──っ?!」
油断をして呆気にとられていると、波が僕の足元まで広がってきているではないか。得体のしれないこの波が、その実触れただけで人を殺めることのできる災害だとすれば、僕はいずれ命を蝕まれていただろう。
『無事かな? アクア』
僕は瞑りかけた目蓋を開けた。目前では半円状の外壁に堰き止められたような黒い波が、僕ともう一人を避けるかの如く、円を描いて流れ出している。
「ギルティ……??」
もう一人の人物──軍服を着た好青年が僕に笑いかけた。彼も僕と同じようにスノードームの中で立っているが、その姿は半透明であった。ギルティを貫いて、向こうの景色までも見渡すことができる。
『少し訳ありでね、でも君に説明している時間がない。君は悪魔である……俺の義父を斃した。だから君の勝ちだよ、これで悪魔は全員──』
「ちょっと待ってよ、それは……まあ、わかった。けどこの変な黒い波は何なの? 悪魔の仕業?」
『ああそうさ。ここに居る誰かを追って来た、というあたりだろうね。……見てご覧』
ギルティが見つめる方向に顔を向けると、空漠たる恐怖を煽るものが歩いていた。
鴉の濡羽色をしたドレスを身に纏ったそれは、青年──ルドルフの顔をしている。しかし、なぜだか全くの幻覚であるように思えた。
驚くべきは彼の左右に黒い円状の壁が二つ現れて、その壁から生えてきた牛と羊の頭部が浮いていることだろう。他にも、ドレスのスカート部分が太腿のラインに沿って前後に開いているその隙間から覗く脚は、付け根がヒト、爪先に向かっていくにつれて鵝鳥の脚をしていた。蛇の尻尾がそこだけ別の生き物のように蠢いている。手には軍旗と槍を握り、穴の空いた両目の奥底で眼光を赤く光らせた。
それは最早ルドルフではない。ルドルフの顔を持った別の化物だ。
黒い波は彼方から訪れたものであるように見えるが、ルドルフ似の怪物の足元だけは避けるように泳いでいた。おそらく彼が引き連れて来たものの一つだろうと僕は思った。
『折角悪魔と戦って生き延びたんだから、こんな所で死にたくないだろう? 俺が手を貸すよ』
「手を貸すって言ったって……うわっ、なに!?」
ギルティはいきなり僕を抱えて宙に浮いた。あまりにも軽々と足が浮く。半透明な彼には実態があるのかないのか──。そんなことは些細な現象である。後からいくらでも考えればいいと、僕はここで考えることを止めにした。
『さて、君の仲間は……。いた、あそこだ。彼らと合流したら、なるべく早めに転移術でここを去ってくれ、ここから離れていればどこでも構わない』
「どうして僕の魔術を知って……」
ギルティは僕が答えを聞く前に、黒の海から逃れようと森中を駆け回る剣士と、剣士に担がれた神父を見つけ出して地に降りた。
「ご無事で何よりです、ご主人様。……何故、あなたまで……」
『俺は無事ではないんだけどね。別れ際に顔が見られて光栄だよ、綺麗な人』
「……ご主人様、転移術ですぐにここを離れましょう」
主題の転換があまりに急だったため、最初は僕に話しかけられていると思わずに、時間差で返事をする。
『傭兵くん、君に聞きたいことが一つだけある。本当に、これが最後』
僕たちが踵を回らすと、ギルティに引き止められる。傭兵という単語が尤もらしいレイセン君が振り返った。
「……何でしょう」
『君はルドルフの愛を受け止めるつもりがないんだよね? なら、俺が貰っても構わないことになるけど、君は後悔しない?』
この男は、愛という不可視のものに重きを置いているんだ、ということに気付かされる。ギルティの物言いは無節操に聞こえるが、彼の目には真摯そのものが宿っていた。
「……別に。私はご主人様の道具で、飾りで、消耗品ですから」
「……!」
『ありがとう、これで俺の邪魔は一人もいないということが証明されたようなものだ。君はそのほかに覚悟を決めているんだね、わかったよ。ならあの人は俺が貰うから、そうと決まればすぐ助けに行かなくちゃ』
さあ早く行った、と言わんばかりに、ギルティは手を振って僕たちを見送った。僕はレイセン君が片腕にしっかりとアイネを抱え込んだことを確認する。そして余った方の手を握り、思い描いた先には──理由はこれといってないのだが──アイネのいた教会があったので、中でも印象強く残るチャペルに入ることに決めた。
***
啜り泣く声だけが木霊して響く。深々とした暗い海の底のような場所だ。じめじめとしていて、濡れた土の臭いがする。足は土の皮相を踏むが、時折加減を見誤って泥濘に沈む。
「……! ……!!」
どうやら俺が探しているものは、俺と同じように動いているらしい。どこからか吹いてくる呻き声のような風に怯える声がすると、探しているものは俺から遠ざかっていくように感じた。
俺は心の中で舌打ちをすると、棒の先に吊るされたランタンに火を灯した。全ては彼をこのような真っ暗闇に突き落とした悪魔のせいだ。
「誰かー!! 誰かいないか、おーい!!」
声を張り上げるも、返事をしたのは呼んでもいない禍々しさの塊──気流だった。俺がこうして、洞窟のような泉の底を彷徨っている無駄な時間が惜しい。何故この泉は迷宮のような作りになっているのだろう。一刻も早く彼を見つけ出してやりたいが、慌てたところで良いこともないので焦りは禁物だ。
ランタンで照らした洞穴の輪郭を辿ると、十分も経たないうちに尋ね人との距離が近くなっていることがわかる。それ程遠くへは行っていないようだ。
しかし、僅かな風の音でさえも怖がる様子を聞くに、俺が荒々しく地面に靴底を擦りつけて響いた音にも恐怖を示す可能性がある。足音は立てず、人がいるとわかってもらえるように声を張り上げた。
「……いた。……ルド、ル……フ?」
先を照らしていた黄色い光りの中に、一つだけ黒い窪みができた。栗色の髪に黒のスーツ、例え彼が俯いて蹲っていたとしても、見間違えるはずがないという自信が俺にはあった。
俺と同じように死んでいることは確かなのだが、何にせよ様子がおかしいことは言うも愚かだ。足音にも、声にも反応する気配が感じられないのだ。
けれど、ルドルフは何かに気づいて僅かに顔を動かした。
「……あ、明るい……ひかり、が……」
明るい光を感じ取ったルドルフが、身体の向きをおもむろに変えた。俺は彼に近づけば近づくほど、現実を受け入れる覚悟が減衰していく気がした。
「──っ!?」
ランタンの光に引きつけられ見上げたルドルフの顔に、あろうことか俺の気が動転してしまいそうになる。俺は情けなくなって、驚異を覚えた少し前の自分を殴りつけてやりたくなった。
ルドルフの両目はくり抜かれ、眼窩から血の海が溢れて頬を伝っていた。冷静になって目を瞬かせると、髪や肌には乾いた土が付着していて、スーツは所々破けてしまっている。白かったワイシャツは泥にはねられて元の色をしていない。何度も横転してしまったのだろう。
どんなに自身を奮い立たせても、言葉として出てくるものの一切合切を彼の目に奪われていった。
「これで……出られ……あ──」
「ルドルフ──!?」
四つ脚で動き出そうとした彼は、先に出した右腕が虚に触れたことで、脇のより一層暗い淵に体を傾けた。
俺はランタンを足元に落とし、まだ届く左手首を懸命に掴んで離さなかった。
──軽い。本来ならばもっと体重があって然るべきだろう。
「や……た、すけ……て……」
「ああ、勿論。今引き上げる!」
俺はすぐさまルドルフの左腕を両手で掴んだ。難なく引き上げ、辛うじて灯りだけは消えずに残るランタンの側に体を寄せた。
「う……あ……こわ、怖かった……!」
涙声で肩を震わせるルドルフを胸に抱き寄せて、乾いた土まみれの髪を撫でた。
「迎えが遅くなってごめん。こんな場所に一人では、怖かっただろう」
俺は青年の顔を見下ろした。辛うじて姿勢を保った蝋燭の火が全身をよく見せ──ここでようやく、ルドルフの両脚が無いとわかった。
悟られないように息を呑む。惨憺たる情人に驚愕する俺の事よりも、今し方暗闇から暗闇へと滑り落ちる恐怖を感じたはずのルドルフを慰めたい。
「もう大丈夫だから、安心して、マイ・ディア」
俺の軍服を両手で鷲掴みにしたルドルフは、小刻みに肩を震わせて吃音を漏らした。
「た……助けて、ください……。ここは……さむくて、くらくて、こわい」
これは後から判明したことだ。
ルドルフは俺たち悪魔と過ごした時間の全てを忘れてしまっていた。あの洞穴に幽閉されていた彼の魂は、なぜ自分がそこにいるのかさえも思い出せずに彷徨っていたのかと思うと胸が熱くなり、喉から憤慨が込み上げてきそうになる。
更に魂が持つ記憶は悪魔によって破壊されたため、覚えているのは生前のごく一部の記憶──それも全てではなく、途切れていたり順序が出鱈目になっているもの──ばかりだ。ガラス瓶が割れてしまうと元通りにならないのと同じく、ルドルフの記憶が元通りになる可能性は限りなくゼロに近い。
しかし、それらの要因が、俺の愛を隔てることはまずない。あるとすれば、それは俺の死のみなのだから。死を乗り越えた先にいる俺にとって、際限ない時間と重力に縛られない身体は寧ろ好都合であった。
愛人の世話など、日常生活の一部として組み込んでしまえばいいのだ。俺にはひと一人を養う程度の腕だけはあると自負している。
料理、掃除、洗濯。彼が毎日やっていたことを思い出しては見様見真似でやろう。二人分をこなすことは、彼が毎日十人分の家事をすべて卒なくしていたことに比べれば豪儀なことではないはずだ。
愛人のケアをする、と聞いて真っ先に思い描く情景は、俺の手が君の口元に食べ物の乗ったスプーンを近づけるというものだ。
こういった理想を現実にするためには、まずやらなければならないことがある。それは、ルドルフに辛い過去を思い出させないことだ。
俺が取り留めのない想像を膨らませていると、ベッドで静かに眠っていた愛人が薄く目蓋を開いた。
「おはよう、気分はどう?」
「あ……はい、前より頗る良くなりました。でも、どうして……」
「……?」
「どうして、井戸の底から出られたのでしょう。僕、目が悪くて何も見えないですし、足もないのに……」
「俺が助けに行ったんだ、人伝に、君が落ちてしまったと聞いたからね」
「そうだったんですか。ご迷惑をおかけしてごめんなさい。助けに来られたこともあまりよく覚えてなくて。……ところで、貴方のお名前は?」
「あ! そうだな、そういえばまだ言ってなかった。俺はブレット、君の名前は?」
***
『……す、……クロ……ノス……』
『……? ……!! あ、あな、た……あなた……!! そんな、姿に……』
『遅く、なった……』
『ううん、それより、こっちにきて……いつかみたいに……一緒に寝ましょう』
『…………』
『……ふふ、あなたといると、不思議と寒くない。あんなに……冷たかった、のに』
『……もう、いい。もう、終わったんだ』
『そう、ね……最期にあなたが、迎えに、きて、くれた……だけで……』
『……クロノス……好きだ』
『……!!』
『俺には心が、ない。そう言われたことも、あった。確かに、そう思う。だが……これだけはわかるんだ』
『わた、わたしも、私もよ……愛してる……レア』
『…………』
『…………』
まるで黒色の塗料のような波が、森の一本道を躊躇うことなく飲み込んだ。レイセン君とアイネも、無事この波を避けられていただろうか。彼らとは反対側に逃げた僕には、まだ知る由もない。
黒い波に飲まれた者が一人。満身創痍の悪魔だ。全身を覆い尽くした波が引いてゆくまで、僕はギルティであった者の行く末を追わずにはいられなかった。
「……生きてる──っ?!」
油断をして呆気にとられていると、波が僕の足元まで広がってきているではないか。得体のしれないこの波が、その実触れただけで人を殺めることのできる災害だとすれば、僕はいずれ命を蝕まれていただろう。
『無事かな? アクア』
僕は瞑りかけた目蓋を開けた。目前では半円状の外壁に堰き止められたような黒い波が、僕ともう一人を避けるかの如く、円を描いて流れ出している。
「ギルティ……??」
もう一人の人物──軍服を着た好青年が僕に笑いかけた。彼も僕と同じようにスノードームの中で立っているが、その姿は半透明であった。ギルティを貫いて、向こうの景色までも見渡すことができる。
『少し訳ありでね、でも君に説明している時間がない。君は悪魔である……俺の義父を斃した。だから君の勝ちだよ、これで悪魔は全員──』
「ちょっと待ってよ、それは……まあ、わかった。けどこの変な黒い波は何なの? 悪魔の仕業?」
『ああそうさ。ここに居る誰かを追って来た、というあたりだろうね。……見てご覧』
ギルティが見つめる方向に顔を向けると、空漠たる恐怖を煽るものが歩いていた。
鴉の濡羽色をしたドレスを身に纏ったそれは、青年──ルドルフの顔をしている。しかし、なぜだか全くの幻覚であるように思えた。
驚くべきは彼の左右に黒い円状の壁が二つ現れて、その壁から生えてきた牛と羊の頭部が浮いていることだろう。他にも、ドレスのスカート部分が太腿のラインに沿って前後に開いているその隙間から覗く脚は、付け根がヒト、爪先に向かっていくにつれて鵝鳥の脚をしていた。蛇の尻尾がそこだけ別の生き物のように蠢いている。手には軍旗と槍を握り、穴の空いた両目の奥底で眼光を赤く光らせた。
それは最早ルドルフではない。ルドルフの顔を持った別の化物だ。
黒い波は彼方から訪れたものであるように見えるが、ルドルフ似の怪物の足元だけは避けるように泳いでいた。おそらく彼が引き連れて来たものの一つだろうと僕は思った。
『折角悪魔と戦って生き延びたんだから、こんな所で死にたくないだろう? 俺が手を貸すよ』
「手を貸すって言ったって……うわっ、なに!?」
ギルティはいきなり僕を抱えて宙に浮いた。あまりにも軽々と足が浮く。半透明な彼には実態があるのかないのか──。そんなことは些細な現象である。後からいくらでも考えればいいと、僕はここで考えることを止めにした。
『さて、君の仲間は……。いた、あそこだ。彼らと合流したら、なるべく早めに転移術でここを去ってくれ、ここから離れていればどこでも構わない』
「どうして僕の魔術を知って……」
ギルティは僕が答えを聞く前に、黒の海から逃れようと森中を駆け回る剣士と、剣士に担がれた神父を見つけ出して地に降りた。
「ご無事で何よりです、ご主人様。……何故、あなたまで……」
『俺は無事ではないんだけどね。別れ際に顔が見られて光栄だよ、綺麗な人』
「……ご主人様、転移術ですぐにここを離れましょう」
主題の転換があまりに急だったため、最初は僕に話しかけられていると思わずに、時間差で返事をする。
『傭兵くん、君に聞きたいことが一つだけある。本当に、これが最後』
僕たちが踵を回らすと、ギルティに引き止められる。傭兵という単語が尤もらしいレイセン君が振り返った。
「……何でしょう」
『君はルドルフの愛を受け止めるつもりがないんだよね? なら、俺が貰っても構わないことになるけど、君は後悔しない?』
この男は、愛という不可視のものに重きを置いているんだ、ということに気付かされる。ギルティの物言いは無節操に聞こえるが、彼の目には真摯そのものが宿っていた。
「……別に。私はご主人様の道具で、飾りで、消耗品ですから」
「……!」
『ありがとう、これで俺の邪魔は一人もいないということが証明されたようなものだ。君はそのほかに覚悟を決めているんだね、わかったよ。ならあの人は俺が貰うから、そうと決まればすぐ助けに行かなくちゃ』
さあ早く行った、と言わんばかりに、ギルティは手を振って僕たちを見送った。僕はレイセン君が片腕にしっかりとアイネを抱え込んだことを確認する。そして余った方の手を握り、思い描いた先には──理由はこれといってないのだが──アイネのいた教会があったので、中でも印象強く残るチャペルに入ることに決めた。
***
啜り泣く声だけが木霊して響く。深々とした暗い海の底のような場所だ。じめじめとしていて、濡れた土の臭いがする。足は土の皮相を踏むが、時折加減を見誤って泥濘に沈む。
「……! ……!!」
どうやら俺が探しているものは、俺と同じように動いているらしい。どこからか吹いてくる呻き声のような風に怯える声がすると、探しているものは俺から遠ざかっていくように感じた。
俺は心の中で舌打ちをすると、棒の先に吊るされたランタンに火を灯した。全ては彼をこのような真っ暗闇に突き落とした悪魔のせいだ。
「誰かー!! 誰かいないか、おーい!!」
声を張り上げるも、返事をしたのは呼んでもいない禍々しさの塊──気流だった。俺がこうして、洞窟のような泉の底を彷徨っている無駄な時間が惜しい。何故この泉は迷宮のような作りになっているのだろう。一刻も早く彼を見つけ出してやりたいが、慌てたところで良いこともないので焦りは禁物だ。
ランタンで照らした洞穴の輪郭を辿ると、十分も経たないうちに尋ね人との距離が近くなっていることがわかる。それ程遠くへは行っていないようだ。
しかし、僅かな風の音でさえも怖がる様子を聞くに、俺が荒々しく地面に靴底を擦りつけて響いた音にも恐怖を示す可能性がある。足音は立てず、人がいるとわかってもらえるように声を張り上げた。
「……いた。……ルド、ル……フ?」
先を照らしていた黄色い光りの中に、一つだけ黒い窪みができた。栗色の髪に黒のスーツ、例え彼が俯いて蹲っていたとしても、見間違えるはずがないという自信が俺にはあった。
俺と同じように死んでいることは確かなのだが、何にせよ様子がおかしいことは言うも愚かだ。足音にも、声にも反応する気配が感じられないのだ。
けれど、ルドルフは何かに気づいて僅かに顔を動かした。
「……あ、明るい……ひかり、が……」
明るい光を感じ取ったルドルフが、身体の向きをおもむろに変えた。俺は彼に近づけば近づくほど、現実を受け入れる覚悟が減衰していく気がした。
「──っ!?」
ランタンの光に引きつけられ見上げたルドルフの顔に、あろうことか俺の気が動転してしまいそうになる。俺は情けなくなって、驚異を覚えた少し前の自分を殴りつけてやりたくなった。
ルドルフの両目はくり抜かれ、眼窩から血の海が溢れて頬を伝っていた。冷静になって目を瞬かせると、髪や肌には乾いた土が付着していて、スーツは所々破けてしまっている。白かったワイシャツは泥にはねられて元の色をしていない。何度も横転してしまったのだろう。
どんなに自身を奮い立たせても、言葉として出てくるものの一切合切を彼の目に奪われていった。
「これで……出られ……あ──」
「ルドルフ──!?」
四つ脚で動き出そうとした彼は、先に出した右腕が虚に触れたことで、脇のより一層暗い淵に体を傾けた。
俺はランタンを足元に落とし、まだ届く左手首を懸命に掴んで離さなかった。
──軽い。本来ならばもっと体重があって然るべきだろう。
「や……た、すけ……て……」
「ああ、勿論。今引き上げる!」
俺はすぐさまルドルフの左腕を両手で掴んだ。難なく引き上げ、辛うじて灯りだけは消えずに残るランタンの側に体を寄せた。
「う……あ……こわ、怖かった……!」
涙声で肩を震わせるルドルフを胸に抱き寄せて、乾いた土まみれの髪を撫でた。
「迎えが遅くなってごめん。こんな場所に一人では、怖かっただろう」
俺は青年の顔を見下ろした。辛うじて姿勢を保った蝋燭の火が全身をよく見せ──ここでようやく、ルドルフの両脚が無いとわかった。
悟られないように息を呑む。惨憺たる情人に驚愕する俺の事よりも、今し方暗闇から暗闇へと滑り落ちる恐怖を感じたはずのルドルフを慰めたい。
「もう大丈夫だから、安心して、マイ・ディア」
俺の軍服を両手で鷲掴みにしたルドルフは、小刻みに肩を震わせて吃音を漏らした。
「た……助けて、ください……。ここは……さむくて、くらくて、こわい」
これは後から判明したことだ。
ルドルフは俺たち悪魔と過ごした時間の全てを忘れてしまっていた。あの洞穴に幽閉されていた彼の魂は、なぜ自分がそこにいるのかさえも思い出せずに彷徨っていたのかと思うと胸が熱くなり、喉から憤慨が込み上げてきそうになる。
更に魂が持つ記憶は悪魔によって破壊されたため、覚えているのは生前のごく一部の記憶──それも全てではなく、途切れていたり順序が出鱈目になっているもの──ばかりだ。ガラス瓶が割れてしまうと元通りにならないのと同じく、ルドルフの記憶が元通りになる可能性は限りなくゼロに近い。
しかし、それらの要因が、俺の愛を隔てることはまずない。あるとすれば、それは俺の死のみなのだから。死を乗り越えた先にいる俺にとって、際限ない時間と重力に縛られない身体は寧ろ好都合であった。
愛人の世話など、日常生活の一部として組み込んでしまえばいいのだ。俺にはひと一人を養う程度の腕だけはあると自負している。
料理、掃除、洗濯。彼が毎日やっていたことを思い出しては見様見真似でやろう。二人分をこなすことは、彼が毎日十人分の家事をすべて卒なくしていたことに比べれば豪儀なことではないはずだ。
愛人のケアをする、と聞いて真っ先に思い描く情景は、俺の手が君の口元に食べ物の乗ったスプーンを近づけるというものだ。
こういった理想を現実にするためには、まずやらなければならないことがある。それは、ルドルフに辛い過去を思い出させないことだ。
俺が取り留めのない想像を膨らませていると、ベッドで静かに眠っていた愛人が薄く目蓋を開いた。
「おはよう、気分はどう?」
「あ……はい、前より頗る良くなりました。でも、どうして……」
「……?」
「どうして、井戸の底から出られたのでしょう。僕、目が悪くて何も見えないですし、足もないのに……」
「俺が助けに行ったんだ、人伝に、君が落ちてしまったと聞いたからね」
「そうだったんですか。ご迷惑をおかけしてごめんなさい。助けに来られたこともあまりよく覚えてなくて。……ところで、貴方のお名前は?」
「あ! そうだな、そういえばまだ言ってなかった。俺はブレット、君の名前は?」
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『……す、……クロ……ノス……』
『……? ……!! あ、あな、た……あなた……!! そんな、姿に……』
『遅く、なった……』
『ううん、それより、こっちにきて……いつかみたいに……一緒に寝ましょう』
『…………』
『……ふふ、あなたといると、不思議と寒くない。あんなに……冷たかった、のに』
『……もう、いい。もう、終わったんだ』
『そう、ね……最期にあなたが、迎えに、きて、くれた……だけで……』
『……クロノス……好きだ』
『……!!』
『俺には心が、ない。そう言われたことも、あった。確かに、そう思う。だが……これだけはわかるんだ』
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