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お笑い芸人『江口サダユキ』
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「忘れて下さい?」
一人残されたわたくしは、胸ポケットから煙草を一本抜き出して手早く火を着けた。手元に灰皿がなかったので、背中のテーブルに手を伸ばした。
見れば美咲はトングを上げて焼き立ての生クリームとつぶあんのサボージュをトレイに並べていた。
美咲は昨夜、寝る寸前に自分を覚えていないのかと質問してきた。わたくしは美咲と初対面だったから、その質問には答えられなかった。すると彼女は涙ぐんでバカといって向こうを向いた。次の日になって美咲は、これを忘れろと言った。
「全く意味が分からないじゃないか」
わたくしは腕を組んで煙草の煙を吐いた。どこかで二人は会っていて、そして再会したわたくしが美咲の事を覚えてなかったというのならば、そのままわたくしを非難すれば良い。ただそれだけの事ではないだろうか? それをなぜわたくしが美咲の事を覚えていないのかと質問された事自体をわたくしは忘れなければならないのか? 煙草を消して灰皿を元のテーブルへ戻した。
美咲が山盛りの焼き立てパンをトレイに載せて戻る頃、食堂内でちょっとしたハプニングが発生した。
「なんやコラ、放せや!」
「やめてよ太一」
南欧調の暖炉近くの席で、若いカップルと一人の男が口論を始めた。
わたくしは斜め上に首を伸ばしたが、美咲は目を閉じて椅子を引いた。
「ちょっと売れたからって、調子に乗っとるんとちゃうか!」
「やめてったら」
カップルの男の方は、座っている男の胸倉に掴みかかる勢いだった。その右腕を恋人が抱きかかえていた。
「宗村さん」
「ん」
美咲は静かにパンをちぎった。
「気づいていましたか?」
「?」
わたくしは美咲の次の言葉を待った。
「江口サダユキです」
「え」
騒動を聞きつけた岸本が白いコックコート姿で厨房から出て来た。
「江口サダユキって、あの、お笑い芸人の?」
「そうです」
わたくしはまた首を伸ばした。ダークグリーンのチロリアンハットに白黒の迷彩柄テーラードジャケットを着て、八の字眉で相手の顔を睨みつけていた。
「何だか、テレビで観るのと雰囲気が違うなあ」
「口論の原因は、そこにあるかも知れません」
江口サダユキと言えば、情報ワイド・バラエティ番組のレギュラーを持っているお笑い芸人で、わたくしも缶ビールを片手に彼の安定感のあるネタを見て声を出して笑った記憶がある。
「天狗になるなよ、この一発屋芸人!」
大声を上げた男は恋人の腕を振りほどき、岸本の横を通って退室して行った。
「サインでも断られたのかな」
わたくしは座り直してガルニチュールにフォークを刺した。しばらくすると高田が牛ロースをオーバルプレートに載せて運んで来た。朝から肉料理とは神戸式のモーニングステーキのようだった。
「びっくりしたあ。江口サダユキが宿泊しているのは知っていましたけど、テレビではチャーミングで親しみやすいキャラが、プライベートではあんなに怖い人だったなんて」
プレートを置くスペースを作りながら、美咲は顔を上げた。
「有名人が宿泊するのはよくある事なんですか?」
「いいえ、めったにありません。だからあたし今朝来る時にコンビニに寄って色紙とマジックペンを買って来たんですけど、これじゃあねえ」
高田は二重顎を掴んで、江口の不機嫌そうに携帯電話を操作する姿を横目に見た。
美咲はフォークに刺した牛ロースを口に入れて、もぐもぐと噛んだ。
「あっ、それに昨夜、江口サダユキに妙な事を聞かれたんでした。この事をいの一番に宗村さんに伝えようと思っていたんですけど、美人の恋人と宿泊中ってオーナーから聞いてつい忘れていました」
「妙な事?」
わたくしも牛ロースにフォークを刺した。
「ええ、昨夜宗村さんと天道さんについてお話した後、急いで帰宅しようと談話室を通ったら、江口サダユキがソファーで雑誌を見ていて、あたしの姿を見るなり立ち上がって天道さんについてあれこれ聞いてきたんです。まるで待ち伏せでもされたような気分でした」
わたくしと美咲は思わず目を合わせた。
「一体どんな事を聞かれたんですか?」
わたくしは牛ロースをグレイビーソースに浸して口に運んだ。赤ワインと肉汁の香りが口の中いっぱいに広がった。
「どんなって、宗村さんに聞かれたそのような質問でした。警察の取り調べ方とか、心中当時の天道さんの様子とか」
美咲はナイフとフォークをプレートに置いて顔を上げた。
「それで、高田さんは何て答えたんですか?」
「何てって、答えようがなかったですよ。すでに宗村さんとお話しして帰りが遅れている所を、早く車の除雪をして帰らなければ旦那に怒鳴られてしまうんです。ですから適当にその場を誤魔化して帰っちゃいました。だって人気お笑い芸能人とは言え、初対面でいきなり天道さんの自殺について聞かれたって、答えられる訳ないじゃないですか。宗村さんみたいにオーナーの古くからの友人であれば、話は別ですけど」
高田は銀のトレンチで口を隠した。
「それに、宗村さんは探偵をやっているからこういう情報が必要かと思って言いますけど、江口サダユキは昨夜の様子だと、天道さんの交際相手だった木原正樹と面識があるような口ぶりでした。『あいつ』とか『トチったな』とか怖い顔をして独り言を言ってましたから」
一人残されたわたくしは、胸ポケットから煙草を一本抜き出して手早く火を着けた。手元に灰皿がなかったので、背中のテーブルに手を伸ばした。
見れば美咲はトングを上げて焼き立ての生クリームとつぶあんのサボージュをトレイに並べていた。
美咲は昨夜、寝る寸前に自分を覚えていないのかと質問してきた。わたくしは美咲と初対面だったから、その質問には答えられなかった。すると彼女は涙ぐんでバカといって向こうを向いた。次の日になって美咲は、これを忘れろと言った。
「全く意味が分からないじゃないか」
わたくしは腕を組んで煙草の煙を吐いた。どこかで二人は会っていて、そして再会したわたくしが美咲の事を覚えてなかったというのならば、そのままわたくしを非難すれば良い。ただそれだけの事ではないだろうか? それをなぜわたくしが美咲の事を覚えていないのかと質問された事自体をわたくしは忘れなければならないのか? 煙草を消して灰皿を元のテーブルへ戻した。
美咲が山盛りの焼き立てパンをトレイに載せて戻る頃、食堂内でちょっとしたハプニングが発生した。
「なんやコラ、放せや!」
「やめてよ太一」
南欧調の暖炉近くの席で、若いカップルと一人の男が口論を始めた。
わたくしは斜め上に首を伸ばしたが、美咲は目を閉じて椅子を引いた。
「ちょっと売れたからって、調子に乗っとるんとちゃうか!」
「やめてったら」
カップルの男の方は、座っている男の胸倉に掴みかかる勢いだった。その右腕を恋人が抱きかかえていた。
「宗村さん」
「ん」
美咲は静かにパンをちぎった。
「気づいていましたか?」
「?」
わたくしは美咲の次の言葉を待った。
「江口サダユキです」
「え」
騒動を聞きつけた岸本が白いコックコート姿で厨房から出て来た。
「江口サダユキって、あの、お笑い芸人の?」
「そうです」
わたくしはまた首を伸ばした。ダークグリーンのチロリアンハットに白黒の迷彩柄テーラードジャケットを着て、八の字眉で相手の顔を睨みつけていた。
「何だか、テレビで観るのと雰囲気が違うなあ」
「口論の原因は、そこにあるかも知れません」
江口サダユキと言えば、情報ワイド・バラエティ番組のレギュラーを持っているお笑い芸人で、わたくしも缶ビールを片手に彼の安定感のあるネタを見て声を出して笑った記憶がある。
「天狗になるなよ、この一発屋芸人!」
大声を上げた男は恋人の腕を振りほどき、岸本の横を通って退室して行った。
「サインでも断られたのかな」
わたくしは座り直してガルニチュールにフォークを刺した。しばらくすると高田が牛ロースをオーバルプレートに載せて運んで来た。朝から肉料理とは神戸式のモーニングステーキのようだった。
「びっくりしたあ。江口サダユキが宿泊しているのは知っていましたけど、テレビではチャーミングで親しみやすいキャラが、プライベートではあんなに怖い人だったなんて」
プレートを置くスペースを作りながら、美咲は顔を上げた。
「有名人が宿泊するのはよくある事なんですか?」
「いいえ、めったにありません。だからあたし今朝来る時にコンビニに寄って色紙とマジックペンを買って来たんですけど、これじゃあねえ」
高田は二重顎を掴んで、江口の不機嫌そうに携帯電話を操作する姿を横目に見た。
美咲はフォークに刺した牛ロースを口に入れて、もぐもぐと噛んだ。
「あっ、それに昨夜、江口サダユキに妙な事を聞かれたんでした。この事をいの一番に宗村さんに伝えようと思っていたんですけど、美人の恋人と宿泊中ってオーナーから聞いてつい忘れていました」
「妙な事?」
わたくしも牛ロースにフォークを刺した。
「ええ、昨夜宗村さんと天道さんについてお話した後、急いで帰宅しようと談話室を通ったら、江口サダユキがソファーで雑誌を見ていて、あたしの姿を見るなり立ち上がって天道さんについてあれこれ聞いてきたんです。まるで待ち伏せでもされたような気分でした」
わたくしと美咲は思わず目を合わせた。
「一体どんな事を聞かれたんですか?」
わたくしは牛ロースをグレイビーソースに浸して口に運んだ。赤ワインと肉汁の香りが口の中いっぱいに広がった。
「どんなって、宗村さんに聞かれたそのような質問でした。警察の取り調べ方とか、心中当時の天道さんの様子とか」
美咲はナイフとフォークをプレートに置いて顔を上げた。
「それで、高田さんは何て答えたんですか?」
「何てって、答えようがなかったですよ。すでに宗村さんとお話しして帰りが遅れている所を、早く車の除雪をして帰らなければ旦那に怒鳴られてしまうんです。ですから適当にその場を誤魔化して帰っちゃいました。だって人気お笑い芸能人とは言え、初対面でいきなり天道さんの自殺について聞かれたって、答えられる訳ないじゃないですか。宗村さんみたいにオーナーの古くからの友人であれば、話は別ですけど」
高田は銀のトレンチで口を隠した。
「それに、宗村さんは探偵をやっているからこういう情報が必要かと思って言いますけど、江口サダユキは昨夜の様子だと、天道さんの交際相手だった木原正樹と面識があるような口ぶりでした。『あいつ』とか『トチったな』とか怖い顔をして独り言を言ってましたから」
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