プルートーの胤裔

ゆさひろみ

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二本のロープ

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 霊安室の担当者らしいき男が、ステンレス製のロッカー型冷蔵庫から、一体の納体袋を引き出した。白手袋の手の平を合わせて、彼は深く合掌をした後、慣れた手つきで袋のチャックを下した。
「う」
 青白い江口の顔が露わになると、わたくしは天井に視線を移した。
「宗村さん」
 美咲の合掌をした姿を見て、わたくしも慌てて手を合わせた。片目だけ開けて遺体を見ると、江口は薄目を開けて、自分の爪先を見ているように見えた。
「外傷は首吊りしたロープの跡だけです」
 振り返ると、石動刑事は事務机の上に尻を乗せていた。それが如何にも遺体を見慣れている感じだった。
 我々が警察署に到着する頃、石動は正面玄関脇の喫煙所で一人煙草を吸っていた。わたくしと美咲の車から降りるのを見て、彼は左手を上げて煙草を消した後、我々から見て右の方角を指さした。
 三人は勝手口から署内に入り、すぐに地下階段を下りた。他に行き場のない霊安室の前で、後藤という初老の男が待っていた。彼は作業服の上着のポケットから、じゃらじゃらと鍵の束を取り出して、霊安室のドアを解錠して開けた。
 石動は手袋を嵌めないで、胸ポケットに突っ込んでいた。
「江口の首吊りの遺体が発見されて、リフト降り場で担ぎ下ろされるまでの間、せいぜい十分程度の短い時間でした。しかし、それにしては、随分と傷口が目立つと思いませんか?」
 石動にそう言われて、わたくしは遺体の首元を見た。首と顎の間が紫色に変色して、皮膚がぱっかりと裂けていた。
「ハングマン骨折までしている」
「ハングマン骨折?」
 わたくしは美咲から手渡された白手袋を嵌めた。
「全身を見ますか?」
 遺体の臍の辺りでチャックを止めて、後藤は上目使いをした。
「このままで結構です」
 美咲は白いハンカチを口に当てて、左手を前に出した。チャックは下腹部で止まって、そのまま手放された。
「これは」
 わたくしは思わず呻き声を漏らした。
「お気づきになりましたか? ご覧の通りです」
 江口の白い裸体には、大小様々な古傷が見られた。それは明らかに異常な光景だった。
「果たして敷島レナは、江口のこの有様を知っていて、あなた方に江口の遺体を見せてくれと頼んできたのか、そこは疑問ですが、江口の全身には、こういった奇妙な古傷が随所に見られます」
 石動は机から飛び降りて、わたくしたちの背後まで来た。
「まるで拷問でも受けたような、おぞましい古傷ですね」
 美咲は腰を屈めて、江口の上半身をくまなく見て回った。
「拷問。正しくそんな感じに見えます」
 石動が江口の頭の位置に立って、遺体を見下ろした。
「晦冥会では、そういった非人道的な習慣が、本当に存在するのでしょうか」
 美咲は白手袋の指を使って、皮膚がぼこっと盛り上がった傷痕をなぞった。不良学生が煙草の火でやる、根性焼きの傷痕を連想させた。
「宗村さん、大丈夫ですか?」
 今にも蹲りそうなわたくしを、美咲は心配して振り返った。わたくしは無言で首を振って、遺体から一歩退いた。美咲は構わず江口の裸体に顔を近づけた。
「石動刑事、木原正樹の遺体にも、このような傷痕はありましたか? 彼も晦冥会の関係者だったかと」
 美咲は遺体に顔を近付けたまま、目だけを上げた。
「なかったですよ。とにかく火傷がひどくて、真皮全層まで壊死した状態だったので、正確な所はわかりませんが、僕の見た限りでは、このような傷痕はなかった」
「あの、さっきハングマン骨折がどうのって」
 わたくしは美咲の背後で顔を上げた。
「ああ、首吊りによる脊椎骨の骨折です。日本の絞首刑のように、落下するエネルギーを用いて、死刑囚を死に至らしめる時に、よく見られる脊椎骨の骨折です」
「絞首刑、ですか」
 ガタンと足元の床が落ちて、数メートル下に落下した死刑囚が、ぶらぶらと首を吊って揺れている、そんなイメージがわたくしの頭に浮かんだ。
「一般的に、首吊り自殺の3分の2は、非定型の足のつく位置からの首吊りです。左右頸動脈と両椎骨動脈を圧塞し、脳貧血から脳死を起こして命を絶つ方法が、最も苦痛の少ない自殺の方法とされています。柔道の絞め技で意識を失うのと同じですね。
 しかし、今回の江口の場合は、彼の脊椎骨に瞬間的に相当な衝撃が加えられて、即死している。傷口を見ても分かる通り、普段お目にかかる事の少ない首吊りの跡です」
 石動は腕を組んで江口の顔を見下ろした。
「えっと、つまり、どういう事でしょうか?」
 わたくしは手袋を外しながら、石動の横顔を見つめた。彼が何かを言う前に、美咲が背筋を伸ばして振り返った。
「宗村さん、石動刑事は、遺体の損傷から見て、他殺の可能性が高いと言っているんです」
 わたくしは、美咲と石動の顔を交互に見た。
「他殺。自殺に見せかけた他殺。江口の遺体の状態からも、彼が誰かに殺されたと、そう考えられるんですね? それじゃあ、一体どうやって江口は」
「こうやってですよ」
 石動は突然わたくしの左脇腹を横からタックルして来た。完全に不意を突かれたわたくしは、よろめいて体勢を崩しながら、反対側の壁に激突した。
「な、何を⁉」
 石動は倒れかかるわたくしの腰に腕を回して、元の通り起き上がらせた。
「すいませんね、突然の事で大変驚かれたでしょう。しかし、こういう事だとは思いませんか? 江口はペアリフトの上で、突然何者かに掴みかかられた。そして、今の宗村さんのように、よろめき体勢を崩しなから、リフトの座席から転落した。この時の江口の首には、リフトの手すりと繋がれた首吊りロープが巻かれていて、落下した彼の脊椎骨は、掴みかかった犯人と本人との二人分の体重が加わって、彼はあっけなくハングマン骨折をした。こうなれば、もう即死ですよ」
 わたくしはむずむずするような首元を指でなぞり、リフトからぶら下がる江口の首吊り死体を想像した。
「何者かって、何者ですか?」
 石動はわたくしに手を貸しながら元の位置に戻った。美咲も手袋を外しながら振り返った。
「何者か。それは、江口を殺した真犯人です」
「真犯人? 江口がリフトに乗った時は一人だったと、係員がそう証言しているんじゃないですか?」
 わたくしはYシャツの襟を正した。
「そうです。だから、会見の席で県警は、江口サダユキの変死を自殺と発表した。一人でスキーリフトに乗った江口を殺せる人間など、この世に存在しない。それも、江口の首にロープを巻き付け、一緒に飛び降りて殺害できる人間など、やはりこの世には存在はしない。
 江口の他殺の可能性が、幾ら報道番組で取り扱われたとしても、不可能な犯行は不可能。これが県警のお偉いさんが下した結論です。会議室の誰もが、全く反論できなかった。状況証拠から導き出された模範的な回答ですからね」
「でも、石動刑事はそうは考えていないんですよね?」
 美咲は白手袋を外した後、後藤に言って納体袋を閉じさせた。
「椎名さん、問題は、どうやって一人で乗った江口のリフトに、後から犯人が乗り込めたか。ここが分からなければ、結局江口の死因は自殺となります」
 石動はスチール製の棚に置いてある、ナイロンツイルのボストンバッグに手を掛けた。
「?」
 わたくしたちの見守る中、石動は事務机の上にボストンバックを置いて、中から白い太いロープを取り出した。
「それは」
 わたくしは思わず机に近づいていた。
「首吊りロープ?」
「そうです。江口は、この市販の合繊ロープを使って、リフトから首吊り自殺をしました」
 再びボストンバッグに手を差し入れて、今度は違うもう一本のロープを取り出した。その様子を見ていた美咲の目が、ひときわ大きくなった。
「あれ? ロープって、二本あるんですか?」
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