プルートーの胤裔

ゆさひろみ

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心理テスト

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 深夜の食堂に入ると、非常口の誘導灯の明かりに照らされて、椅子やテーブルが緑一色に染まっていた。照明を落した食堂には、当然の事ながら誰の姿もなかった。我々の外出からの帰りを岸本に伝えようと、わたくしは厨房から漏れる明かりに手を伸ばした。
 岸本は寝間着姿にコックコートを被って、ステンレス製のラックシェルフの上に、大小様々な調理鍋を並べている所だった。
「おお宗村か。ちょうど良かった。もう少ししたら、玄関を施錠しようかと思っていた所だ」
 開放感のあるアイランドや、ムースを作るパコジェットなど、わたくしはさも珍しそうに手で撫でたりした。
「大変だな、朝食の仕込みや準備とかあって、朝は早いんだろう?」
 お互い酔いの覚めた顔を突き合わせた。
「朝は早いか。確かにお前から見れば実際俺は朝は早い。それこそ、若い頃の俺は、がちがちに肩に力が入っていて、平日だろうが何だろうが、一人でもお客さんがあれば、朝は三時起きだった」
 わたくしは目を丸めた。
「朝の三時だって? まだ夜中じゃないか」
「恐れ入ったか? 当時の俺は、フレンチの神様ジョエル・ロブションに憧れて、ひたすら厨房で料理の腕に磨きをかける職人生活を続けていた。いつこんな辺境の地にも、カップルを装ったミシュラン調査員が訪れて、俺の料理がミシュランガイドに掲載されてもいいように、とにかくあの頃の俺は、片時も包丁を手放さない生活を続けていた。
 だが、最近では朝も遅くさせてもらっている。むきになって朝食を仕込んだって、そのままお客さんの満足に値しない時も、まま見られるからな」
 コック帽の裏側を覗き込むように、岸本は語った。
「まあ、普通の一般的なスキー客に、フランス料理の匠の味は、そうそう理解できないだろうな。特に今日日の若いカップルなんぞ、美味い、美味くない程度の感想しか持たないだろう」
 岸本は口元に笑みを作って、わたくしに目を上げた。
「そうだな。そうなんだな。無神経なお客さんの言動に、時にはコックコートを投げ捨てる事もあった。しかし、最近になってやっと、ファミレスの味より劣ると言われたって、笑っていられるようになった。この歳になってやっと、かちこちの肩の力が抜けたんだな」
 昼下がりの厨房で、外倒し窓で煙草を吸っている岸本の後ろ姿を思い出した。
「客商売ってのは、色々と苦難があって、一筋縄ではいかないね」
 岸本の頭上には、大量の片手鍋が山と積まれていた。一流のフランス料理のシェフを目指すには、これほど沢山の鍋が必要なのだろうか。
「始めは好きでやっていて、無我夢中で我武者羅に働いて、しかしだんだん歳を取ってくると、体が勝手に動くようになってしまう。お前みたいに朝寝したいだなんて、俺はついに思わなくなるんだぜ。月並みな言葉だが、慣れってのは怖いもんだ」
「俺には一生分からない世界だな」
 鶏を捌いて余った部位をどんどん赤ワインの入った鍋に放り込んで、これもマリネだ、と岸本は笑った。
「そう言えば、ほんの十分前頃、米元君から電話があって、何かと思えば、お前に電話を代わって欲しいと言ってきた」
「俺に?」
 わたくしは自分の顔を指差した。
「ああ、出かけていると言ったら、また明日にすると言って電話を切った」
 ボールに入ったオリーブオイルに、ビネガーと塩胡椒を入れて、岸本は小指で味を見した。
「ふうん。なんだろうな」
「おいお前、まさか米元君に手を出しているんじゃないだろうな?」
 岸本は、食品用ラップの長い箱を、わたくしの顔の前に突き付けた。
「なんだと? 冗談も休み休み言え。何で俺があんな小娘に手を出すってんだ」
 わたくしはラップの箱を右手で退けた。
「そう言えば、江口さんの携帯電話が見つかった時だって、食堂でお前ら二人、何だか様子がおかしかったぞ」
 岸本は、空中でラップの箱を回転させて、器用にキャッチした。
「おかしいのはあの娘だ。君は雇い主として、もっとあの娘を管理監督しなくちゃいけない」
「どういう意味だ」
 岸本は腰に両手を当てた。
「あれは間違いを起こす典型的なタイプだ。宿泊客と子供を作ってしまったり」
「お前」
「例えばの話だ。とにかく彼女にはうんと仕事を押し付けて、余計な事を考える暇なんか与えないようにしてくれな」
 岸本はコック帽を取って、頭を一撫でして笑った。
「そんな事できるか。うちの家族、それに高田さんがいない今、このペンションにとって彼女は神様仏様だ。ああ見えて彼女、相当な手腕の持ち主なんだぞ? 俺が気が付かない細やかな所、例えばお客の履物の乾かしや、浴室の雫取りまで、俺でも気が付かない所までやって帰るんだからな。そのお蔭で俺は、こうやって本業の料理に専念できる」
 明日からあずさ以外のヘルプに変更して欲しいと頼もうと思っていたが、今の岸本の話ではそれも無理なようだった。わたくしは頭を掻いて苦笑いを見せた後、一人厨房を立ち去ろうとして、急にある事が頭に浮かんだ。
「あ、そうだ。突然変な事を聞いてすまないが、君は、中国人風の美人と聞いて、誰の顔を思い浮かべる?」
 バイフーの似顔絵で見た特徴を、一応岸本に聞いてみた。
「なんだそれは。心理テストか何かか?」
「まあ、そうとってもらっても構わない。なるべく予備知識無しで、誰かの顔を思い浮かべて欲しい。近所の住民でも、ここ最近の宿泊客でも構わない」
「芸能人は?」
「いやいや、君の身の回りの人達に限定してくれ」
 岸本はコックコートに大きく腕を組んで、
「ふん、お前がどういう意図でそんな妙な事を俺に聞いて来るのか、その理由を先ずは聞きたいと言った所だが、それを聞いて俺の頭に浮かぶ女性は、まあ一人しかいない」
「おお。誰だそれは?」
 岸本はあからさまに顔を背けて、深い溜め息を吐いた。
「俺は実際そういう風に思った事は少ない。しかし、うちの嫁はどういう訳だか、彼女の事を今お前が言ったような言い方をしていた。中国人風の美人、確かに今お前にそう言われてみて、俺の頭に瞬時に浮かんだのだから、きっとそうだったに違いない」
「誰だ?」
「天道葵だ」
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