プルートーの胤裔

くぼう無学

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プロビデンスの目

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 岸本は、お前の言うような透明人間は、このペンションのどこにも見た事がない、そうきっぱりと断言した。不自由な透明人間というのは、その姿が我々の目に映りはするが、しかし誰からも気が付かれない存在、つまり今回の犯人の特徴を比喩的に表現したものだが、岸本には、この両者に共通した特徴に気が付かないばかりか、わたくしの話に興味さえ示さなかった。
「早く顔を洗えよ。お前の朝食は、後で特別に用意してやるから」
 笑顔で手を振るあずさの腕を掴んで、岸本はさっさと廊下に出た。その彼の仏頂面を、わたくしはまじまじと拝見していた。と言うのも、岸本が不自由な透明人間ではない、そうきっぱりとわたくしは断言できなかったからだ。その姿は今目の前にあっても、しかし誰からも気が付かれない存在、つまり今回の犯人は岸本ではないと、一体誰が言い切れるだろうか。天道葵の心中事件をいち早く騒ぎ立てた張本人、ペンションのオーナー、岸本。
「なんだ」
 彼はわたくしの視線に気が付いた。
「いや、なんでもない」
 岸本は無言でドアを閉めた。
 自室に一人きりになったわたくしは、肌着の中に手を入れて、ぼりぼりと脇腹を掻いた。そして、鏡台に並んだ美咲の化粧品に顔を向けて、ぼんやりとそれらを眺めた。
「美咲のやつ、こんな朝早くから一体何をやっているんだ?」
 わたくしはクローゼットの中に腕を入れて、昨夜のトレンチコートのポケットから、煙草とライターを掴み出した。部屋置きの灰皿を目探ししながら、もう既に煙草に火を点けていた。しばらく振りに味わう煙草のうまさに、わたくしは夢中で煙草を灰にした。サイドテーブルの二段目の引出に、お目当てのメラミン樹脂の丸灰皿はあった。それをそのまま窓台に置いて、二本目の煙草に火を点けた。そして、窓に広がる曇天の雪山へと目を上げた。
「ひょっとしたら、美咲は今思いっきりスノーボードを楽しんでいるんじゃないか?」
 吹雪は大分収まっているように見えた。
「俺のスノーボードが予想以上に下手なもんで、昨日は満足に滑れていなかっただろう。それで今日になって、地元の友人や昨日の救護室の看護師なんかと、早朝から連絡を取り合って」
 窓の下はペンションの裏手の駐車場、目線の高さに黒々とした針葉樹林、その向こうに雲のぐるぐる巻付いた北信五岳が見えた。窓の外は風が強いらしく、雪を肩に乗せたオオソラビソの群生が、互い違いに頭を振っていた。雲が千切れて見えた遠い山腹に、日本唯一の藩営温泉だったという温泉街の、民宿や山荘、老舗旅館や高級リゾートホテルの大小様々な屋根が、一箇所に固まって見えた。と思ったら、ぶ厚い雲がすさまじい速さで通過して来て、すぐにまた元の通り見えなくなった。
「あ、違う違う。美咲は昨日、謎のスノーボーダーと衝突事故を起こして、パトロール隊に救護される程の大怪我を負ったんだった。さすがに次の日は、スノーボードどころの話ではないだろう」
 考えてみれば至極尤もな話だ。昨夜の痛みを堪えながらの美咲の入浴シーンを思い出して、わたくしは自分の記憶力の乏しさに頭を抱えた。
 という事は、誰もいない早朝のスキー場に、美咲は手ぶらで到着している事になる。無論、今回の事件の調査、江口殺害の方法を考えての行動とみて間違いはないだろうが、だったら、なぜこのわたくしを誘わなかったのだろうか。
「ん?」
 一人考え事をしていると、窓の下の駐車場に動きが見られた。一台の黒塗りの高級セダンが、周囲に睨みを利かせながら、ゆっくりとペンションの駐車場へ乗り入れて来たのだ。車体のフロントには、スリー・ポインテッド・スターのエンブレムが、ぎらぎらと輝いている。
「何だ何だ? こんな閑古鳥が鳴くような家族経営のペンションに、全く不釣り合いな高級車が入って来た。まさか新しい宿泊者の到着、って訳ないよな」
 額髪をガラスに押し付けて、わたくしは、除雪ドーザで雪を積み上げて作っただけの、どん詰まりの狭い駐車場を見下ろした。黒ベンツは、やはり睨みを利かせたスピードで、駐車場をぐるりと一周して、既に駐車した車のスペースなどお構いなしに、横柄な位置に車を停車させた。エンジンがアイドリングの状態で、後部座席のドアが一枚開くと、黒いコートを羽織った黒髪の長い女性が、レザーのロングブーツのヒールを雪の中に埋めた。
「誰だ? 見るからに官公庁のお偉いさんか、大企業の重役といった止ん事無き雰囲気だ。これが一般人とはとても思えない」
 女性は五〇代くらいの婦人で、イタリアブランドのサングラスをかけ、高そうな黒革の手袋を使って、強風に靡く黒髪を押さえた。高級車の運転席には、当然それ相応の運転手がいるらしいが、ガラスが偏光仕様のフルスモークになっており、ここからでは車内の様子は知る事はできない。
「大物俳優か、日本三大財閥の末裔か、とにかくブルジョワには違いない」
 女性はこちらへ左肩を向けて、雪の上に一つ二つブーツの足跡を付けると、雪の上に何かを見つけたように顔を俯け、そっとサングラスに右手を掛けた。
 彼女が雑誌やテレビなどで紹介される著名人であれば、わたくしは一目で誰だか言い当てる自信があった。政治家の類は余り詳しくはないが、芸術家や作家ならば、わたくしは結構顔を知っている方だ。それもあってわたくしは、この謎の女性の素顔を一目拝見したく、そして、その素性を成るべく明らかにしたい欲求に駆られ、物見高い見物客のように、両手の手の平をガラスに押し付けた。
「もしかしたら、映画かドラマのロケーション撮影が、この近くであるのかも知れない」
 女性がサングラスを外し、その横顔が明らかになったかと思うと、彼女は突然左肩をこちらへ引いて、わたくしの部屋の窓へ顔を上げた。
「!」
 わたくしと女性の視線は音が出そうな程激しくぶつかった。瞳孔は黒く、その周りの虹彩は青紫色で、異色の二つの鋭い眼光が、好奇の目をもって駐車場を見下ろしているこちらの姿を完全に捉えた。わたくしは腰が抜けたように、そのまま窓辺の床に尻もちを突いた。胸に右手を当てると、心臓がばくばく言っていた。
「見ているのがバレていた? まさか、な。たまたまペンションの方を見上げただけだ。見上げただけ、だとしても、たまたま一目で俺を見たというのか?」
 わたくしは膝に手をついて、中腰の姿勢を取った。
「別に何も怖がる必要はないじゃないか。俺はただ、人目を引くように駐車場へ入って来た高級車を、何かと思って部屋の窓から見下ろしていただけだ。他の部屋から誰かが見ていれば、俺と同じようにそうしていただろう。それがたまたま乗って来た女性と目が合ってしまっただけの事で」
 たまたま合ったその女性の目が、キリスト教で用いられるプロビデンスの目を強く連想させた。神の全能の目、そんな厳めしい視線をわたくしは真面に受けてしまった。彼女は只者ではない、そうわたくしの静まる事のない心臓の鼓動が訴えていた。
 しばらくはそのまま胡坐をかいて、煙草を吸うなどして心を落ち着けてから、恐る恐る窓に顔を出した。
「あれ?」
 そのまま窓に額を打ち付けた。
「いない」
 先程のプロビデンスの目の女性と、怪しい黒塗りの高級車は、目下の駐車場から忽然と姿を消していた。
「はて、さっきのは一体何だったんだ? ただの通りすがりか、ひょっとしたら、宿泊先を間違えて、ここの駐車場をUターンに使っただけだとか」
 わたくしは、今見た女性の特徴を岸本に言って、彼女に当て嵌まる人物に心当たりがないか、また、本日の宿泊者の名簿に、そのような大物俳優はいないかどうか、どうしても彼に確かめずにはいられなくなっていた。
「彼女が今晩の宿泊者の一人だったら、さすがに岸本だって把握しているはずだ」
 わたくしは洗面所で顔を洗って、顔中をフェイスタオルで拭く中、「あ」と声を漏らした。先程の女性の青紫色の目の色を、はてどこかで見たような気がして、鏡に向かって小首を傾げた。
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