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消防団長
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支柱に並んだゴム巻き滑車が、ぎゅるぎゅると音を立てた。風や雪で痛々しい樹形となった、オオソラビソの群生林が、ずるずると後ずさりを始めた。我々の乗車しているペアリフトは、約四十分間続いた緊急停止を終え、通常運転を再開した。
「おお、やっと動いた。原動機の修理が終わったんだきっと」
わたくしがグローブの手を叩くと、美咲は携帯電話と電磁波メーターを交互に確認した。
「そのようですね。極超短波の周波数も正常に戻っています。先程の位置が、たまたま基地局アンテナからの電波が複数干渉する場所だったのかも知れません」
その後の我々は特にこれと言ったトラブルもなく無事に無人のリフト降り場へと到着する事が叶った。そして、リフトを降りたなりわたくしだけそのまま新雪の傾斜を下って行って方向転換できないまま転ぶように止まった。一方の美咲は、降りたリフトをそのまま頭を下げて躱し、一人小脇にある詰め所の引き戸に手を掛けた。引手を引いて施錠を確認してから、ポケットに入ったピンタンブラーキーを取り出して、ガタガタと小屋の引き戸を開ける。ブーツで入口の雪を蹴って、簡易的な除雪を済ますと、入口にあるビジネスホンの受話器を手にした。わたくしはバインディングのレバーを起こして、ヒールカップからブーツを抜くと、そのまま板を起こして右脇に抱えた。
「ええ! 寝ていた⁉」
二畳程の狭い詰め所には、対流式の石油ストーブや電気用ヘルメット、雪カバー付ゴム長靴が所狭しと置かれていて、閉め切った室内に異臭が充満していた。美咲は合皮の剥げてスポンジの露出したスツールに座っていた。
「ええ、まあ、大丈夫は大丈夫でしたけど、寒くて、とても心配でした。そうなんです、携帯電話の電波もなくって。え? 原因は分からないんですか? ディスクブレーキの誤作動か電気系統のトラブル? 蹴ったら直った?」
美咲は、遅れて現れたわたくしへ呆れ顔を向けた。
「はい。鍵ですね、了解です。ええ、もう停めていいです。あっ、もしもし、もしもし」
大きな溜め息と共に受話器は置かれた。所々ニスの剥げた合板のテーブルに、切替スイッチや赤い押しボタンが並んだ操作盤が設置されていて、数人分の煙草とライター、飲みかけのマグカップなどが散乱していた。恐らくは、江口の遺体発見当時のそのままの状態なのだろう。
「四十分間、眠っていたの?」
金属とケーブルの恐ろしい力で軋む音によって、詰め所のガラス窓が振動した。振り返ると、折返装置の回転速度が減速していき、全ての座席が前後に揺れていた。
「はい、柵さんはずっと仮眠をしていたそうです。起きたら原動機が停止していて」
美咲は詰め所から出て、引き戸の召合わせ錠に鍵を掛けると、引手を動かして施錠を確認した。
「目覚める事ができた、と言う事は、少なくとも今回の一件は、バイフーの仕業ではなかったという事だね」
美咲はわたくしを振り返って、
「もしかしたらバイフーは、イビキをかいている柵さんを見て、呆れて放っておいた可能性もあります」
立ち入り禁止のロープを潜って、第二パノラマゲレンデへ合流する鼻先で、二人は雪の斜面に腰を下した。ブーツの靴底の雪を払って、よっこいしょとヒールカップに踵を入れると、ラチェットにベルトを差し込んだ。
「昨日の怪我、もう良いの?」
良いわけがないと知りながらもわたくしは、ブーツの紐を結び直す美咲を見た。
「アルプの温泉の一般適応症が効いたのか、今はだいぶ良いみたいです。スイッチダブルマックツイストでもやらない限りは、特に痛みはなさそうです」
美咲は下を向いてリーシュコードを巻いた。
「スイッチダブルマ……。まあ、とにかく、大事に至らないで良かったよ」
その時、山頂から見て左側のコース外から、パノラマゲレンデ一帯に向けて、大規模な地吹雪が発生した。我々も例外ではなく、早い遅いの差で、背後から吹雪に飲まれた。生まれて二回目に体験する視界ゼロの世界。グローブでニット帽を押さえているわたくしの背中を、誰かが思いっきり突き飛ばしたような風圧。左隣りの美咲が白く塗り潰される。そんな災害に近い状況は、昨日の美咲の衝突事故を連想させた。あの時、雪煙のすぐ向こうから、一人のスノーボーダーが飛び出して来たのだったが、まさかまたもや、視界ゼロの真っ白な世界から、猛スピードのスノーボーダーが飛び出して来るとは、この時のわたくしは想像すらしていなかった。
「危ないっ!」
すぐ隣りで美咲の短い悲鳴も聞こえた。突然現れたスノーボーダーは、我々との接触の寸での所を、ボードのトゥエッジに屈んで体重を乗せ、スネでブーツのタンを潰しながら、ぎりぎりの緊急停止を試みた。しかし、しっかりと屈む姿勢がとれずに、そのまま上体のバランスを崩して、雪煙の中へ消えて行った。
「美咲!」
わたくしは慌ててゴーグルに付着した雪を擦った。真っ白な世界が色を持ち始め、吹雪の背中が見えるようになった頃、わたくしのすぐ左隣りには、驚き横倒しになった美咲の姿と、見知らぬ女性スノーボーダーがうつ伏せに倒れていた。
「なんて事だ。昨日に引き続き今日までこんな。美咲、怪我はないか?」
わたくしの頭の中に一瞬、バイフーという言葉が浮かんだが、しかし、それは次に現れた男の存在によって、すぐに打ち消される事となった。
「典ちゃん! どこや!」
オレンジ色のウェアを着たもう一人のスノーボーダーが、ヒールエッジで雪を飛ばした。
「アホ! 吹雪の中を突っ込んで行く奴があるか! コース外へ突っ込んだらほんまに死ぬで! ああすんませんでしたな、怪我は無いですか?」
雪まみれの顔からゴーグルを上げて、男は切れ長の一重まぶたを見せた。年はわたくしよりも五歳くらい上の、四十そこそこと言った感じだったが、声が高くて見た目よりも若々しく思えた。はて、どこかで会ったような印象的な顔と声だと思った。彼は美咲の手を掴んで、背中の辺りに手を回すようにして、彼女の上半身を抱き起こした。妙に馴れ馴れしく女性に触る奴だ。
「ああ大丈夫です、もう、結構ですから。ちょっと驚いて倒れただけですので」
美咲は縮こまった格好から肘を使って、やんわりと男の手を振りほどいた。
「そうですか? ほんますんませんでしたなあ。おーい典ちゃん、生きてるか? 一人で起き上がられるか?」
突進して来た女性は、ボンボン付のニット帽を被り直して、ヒールカップからブーツを取り外した。
「ちょっと太一ぃ、あたしは起こしてくれないわけぇ? こっちの方がど派手に転んじゃってるんだけどぉ!」
「なに言うとんねん。無防備の状態から跳ね飛ばされた方が危険やねんから、こうやって怪我がないか確認してるんや。ほら、はよ起きい」
太一と呼ばれた男は、高速サイドスリップでゲレンデを下降した。この時、美咲がわたくしに体を近づけて、ゴーグルを上げた。
「宗村さん、羽田太一と大島典子です。わたしたちと同じペンションに宿泊しているカップルで、都内でアパレルを経営している」
「あ」
羽田は彼女の手を引っ張って、そのまま大きくゲレンデに転倒して、大笑いをした。
「昨日、江口と口論をしていた」
『ちょっと売れたからって、調子に乗っとるんとちゃうか!』
『やめてったら』
羽田は座っている男の胸倉に掴みかかる勢いだった。その右腕を恋人が抱きかかえていた。
「そうです。偶然と言うにはあまりにタイミングが良過ぎます。宗村さん、一応警戒はしておいて下さい」
「警戒?」
美咲はバインディングのレバーを倒してストラップを締めた。羽田は板を小脇に抱えて、こちらへ戻って来た。
「あれ? もしかして、同じペンションに宿泊している、宗村さんとちゃいますか?」
後ろから大島典子も登って来て、同じように驚いた顔を見せた。派手に転倒した割に、特に大きな怪我は無さそうだった。
「ああ、やっぱりそうや。どっかで見た事ある顔やなあと思うとったんですわ。典ちゃん覚えてる? 同じペンションに宿泊している宗村さんや宗村さん。食堂で一緒になったやろ」
ランダムレイヤーにした髪を大きく振って、大島はわたくしと美咲を交互に見た。強めのマスカラと頬からこめかみに塗られたチークが、都会的で繁華街的な若い女性の雰囲気を打ち出していた。年は美咲と同じくらいに見えた。この後で我々は、お互いの顔と名前を確認し合うような、簡単な挨拶が交わされた。
「しっかし、典ちゃんが吹雪の中を暴走した先に、同じペンションのお二人が座っていただなんて、全く奇遇ですなあ。こないな動かんリフト降り場の下で、一体何をしてはりました?」
男は気兼ねなくわたくしの前に腰を下した。接客業をしているだけあって、あるかなきかの面識だけで、驚くほど積極的で社交的だった。
「まあ、俺らどうせ明日にはチェックアウトする身やけど、これも何かの縁やゆうて、どうですか、ちょっと吹雪の止むまでお話でもしませんか?」
「話、ですか?」
わたくしは大島の同じように腰を下すのを見た。
「と言うのもやね、今回はとにかくペンションで妙な事ばかり起きているもんやから、ちょっとその事について誰かといっぺん話してみたいと思っとったんですわ」
「妙な事?」
わたくしは横目で美咲を見た。彼女は真っ直ぐに羽田の顔を見ていた。
「これが妙じゃのうて、何ですのん。人が二人も死んでますやんか。昨日は江口サダユキが不可解な自殺をして、今日になってみれば、昨日までペンションの従業員をしていた高田はんが、警察署で自殺したっちゅう話やから、こんなんちょっと異常やで」
赤い回転灯の明滅がゲレンデを移動して行った。この吹雪で傷病者でも発生したのだろうか。
「確かに、異常は異常ですね」
話ながらわたくしは、美咲の言う警戒という言葉が頭を掠めた。
「ほんでよくよく話を聞いてみれば、ほんのこないだにも、あそこの別の従業員が、宿泊客と心中自殺をやらかしているっちゅう話やから、あのペンション、えろう呪われてまんなあって話を、いま典ちゃんとしていた所なんですわ。なあ典ちゃん」
美咲の前に座った大島は、ニット帽から出した髪の毛を、くしゃくしゃっと手で梳いた。
「昨日の朝あんなに元気に怒っていた江口サダユキが、その昼には首を吊っちゃうなんて、あたし全然信じられないんです。椎名さんもそう思いません? あたしの前の職場で、同じく首吊っちゃった後輩がいましたけど、やっぱりそれって今思えば様子がおかしかったんです。日によって妙に明るかったり、急にどうでもいい事を一方的に話してきたりして。だから、江口サダユキの様子を見る限りでは、ああ、あたし初日に彼にナンパされていたんですよ、すごく女好きそうなちゃらい感じでした。明日一緒に滑ろうよとかって、それってこれから自殺する人には全く思えませんでした」
わたくしは大きく腕を組んで、深く唸った。
「なあ? こんな具合に典ちゃんも、江口の不可解な自殺を疑っていますねん。他にも、後から急に江口のケータイがひょっこり出てきたり、ここの地元の連中から変な噂を耳にしたりで」
「変な噂?」
美咲が顔を一つ前へ出した。
「ああ、典ちゃん、昨日の消防の彼の話、教えたってや」
大島は唇の乾燥を防ぐために、リップクリームを塗り始めた。
「太一ひとりで飛ばし過ぎ。いきなりそんな事言われたって、宗村さんたちが話について来れないじゃない」
「せやな。すまんすまん、いきさつはこうです、俺は根っからの大阪人やけど、典ちゃんはここ雪国が地元で、昨日、スキー場からちょっと下った所にある山小屋風のドライブインで、ニンニクたっぷりの味噌ラーメン啜ってたら、典ちゃんの同級生とばったり会うたんですわ。その同級生は背は小さいねんけど地元の消防団の団長を務めてるっちゅうけったいな奴で、そん時の話やな。そいつは典ちゃんの元カレやったっけ?」
大島は羽田に向かって雪を投げた。
「なにいい加減な事を言ってんのよ、あいつが昔あたしに付きまとっていたってだけで、それ以外には何もないって、昨日から言ってるじゃないの」
わたくしと美咲は目を見合わせた。
「ほうかほうか、何でもええよ、とにかく話したって」
大島はわたくしの顔をちらっと見て、前髪を少し整えた。
「もう。タカシとは本当に何もないんだから。まあいいわ。とにかく、昨日あいつにばったり会った時に聞いた話なんですけど、ちょっとあのペンションの事について、気を悪くするような事を言われたんです」
「気を悪く? どんな事を言われたんですか?」
美咲は座りながら、左の腰の辺りで手で摩った。長時間雪の上で座りっぱなしは傷に響くのかもしれない。
「はい。あたしも本当の所は詳しい話が分かっていないんですけど、あたしたちが泊まっているペンションの、アルプホルンって名前を聞いた途端、タカシの奴、急に人の目を気にするような小さい声を使って、あそこは呪われているから止めておけって、そう言ったんです」
「呪われている?」
わたくしはあからさまに眉を寄せた。
「せや、いきなりとんでもなく失礼な事を言うやっちゃろ?」
「どうしてその彼は、あのペンションが呪われているって言うんですか?」
羽田の言葉を遮るように、美咲は大島の次の言葉を促した。
「ええっと、タカシが言うには、あそこの従業員が四週間前に心中自殺をしたらしいんですけど、その時消防団の彼は、消防本部から車両火災の連絡を受けて、就寝中の自宅からすぐ近くの火災現場へ駆け付けたそうなんです。そして、えっと、消防水利の確保や現場周辺の住民の安全確保とか、とにかく消火活動に参加していたんですって。大雪の中の車両火災でしたから、消火活動よりも除雪の方が最優先で、人海戦術でスコップを動かしていると、間もなく救急車が到着して、黒焦げの車体から救出された被害者が、担架に乗せられる所を見たそうなんです」
雪質が霰に変わり、カサカサとウェアを打つ雪の音がうるさくなった。
「体の大きさから男性と思われる遺体は、手の施しようのない変わり果てた姿だったそうなんですけど、一方の女性の方は、奇跡的にほぼ無傷の状態で、微かに目を開けて意識が朦朧としている状態だったそうなんです」
「なんだって?」
わたくしは美咲と顔を合わせて、その後の言葉が出なかった。
「おお、やっと動いた。原動機の修理が終わったんだきっと」
わたくしがグローブの手を叩くと、美咲は携帯電話と電磁波メーターを交互に確認した。
「そのようですね。極超短波の周波数も正常に戻っています。先程の位置が、たまたま基地局アンテナからの電波が複数干渉する場所だったのかも知れません」
その後の我々は特にこれと言ったトラブルもなく無事に無人のリフト降り場へと到着する事が叶った。そして、リフトを降りたなりわたくしだけそのまま新雪の傾斜を下って行って方向転換できないまま転ぶように止まった。一方の美咲は、降りたリフトをそのまま頭を下げて躱し、一人小脇にある詰め所の引き戸に手を掛けた。引手を引いて施錠を確認してから、ポケットに入ったピンタンブラーキーを取り出して、ガタガタと小屋の引き戸を開ける。ブーツで入口の雪を蹴って、簡易的な除雪を済ますと、入口にあるビジネスホンの受話器を手にした。わたくしはバインディングのレバーを起こして、ヒールカップからブーツを抜くと、そのまま板を起こして右脇に抱えた。
「ええ! 寝ていた⁉」
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「ええ、まあ、大丈夫は大丈夫でしたけど、寒くて、とても心配でした。そうなんです、携帯電話の電波もなくって。え? 原因は分からないんですか? ディスクブレーキの誤作動か電気系統のトラブル? 蹴ったら直った?」
美咲は、遅れて現れたわたくしへ呆れ顔を向けた。
「はい。鍵ですね、了解です。ええ、もう停めていいです。あっ、もしもし、もしもし」
大きな溜め息と共に受話器は置かれた。所々ニスの剥げた合板のテーブルに、切替スイッチや赤い押しボタンが並んだ操作盤が設置されていて、数人分の煙草とライター、飲みかけのマグカップなどが散乱していた。恐らくは、江口の遺体発見当時のそのままの状態なのだろう。
「四十分間、眠っていたの?」
金属とケーブルの恐ろしい力で軋む音によって、詰め所のガラス窓が振動した。振り返ると、折返装置の回転速度が減速していき、全ての座席が前後に揺れていた。
「はい、柵さんはずっと仮眠をしていたそうです。起きたら原動機が停止していて」
美咲は詰め所から出て、引き戸の召合わせ錠に鍵を掛けると、引手を動かして施錠を確認した。
「目覚める事ができた、と言う事は、少なくとも今回の一件は、バイフーの仕業ではなかったという事だね」
美咲はわたくしを振り返って、
「もしかしたらバイフーは、イビキをかいている柵さんを見て、呆れて放っておいた可能性もあります」
立ち入り禁止のロープを潜って、第二パノラマゲレンデへ合流する鼻先で、二人は雪の斜面に腰を下した。ブーツの靴底の雪を払って、よっこいしょとヒールカップに踵を入れると、ラチェットにベルトを差し込んだ。
「昨日の怪我、もう良いの?」
良いわけがないと知りながらもわたくしは、ブーツの紐を結び直す美咲を見た。
「アルプの温泉の一般適応症が効いたのか、今はだいぶ良いみたいです。スイッチダブルマックツイストでもやらない限りは、特に痛みはなさそうです」
美咲は下を向いてリーシュコードを巻いた。
「スイッチダブルマ……。まあ、とにかく、大事に至らないで良かったよ」
その時、山頂から見て左側のコース外から、パノラマゲレンデ一帯に向けて、大規模な地吹雪が発生した。我々も例外ではなく、早い遅いの差で、背後から吹雪に飲まれた。生まれて二回目に体験する視界ゼロの世界。グローブでニット帽を押さえているわたくしの背中を、誰かが思いっきり突き飛ばしたような風圧。左隣りの美咲が白く塗り潰される。そんな災害に近い状況は、昨日の美咲の衝突事故を連想させた。あの時、雪煙のすぐ向こうから、一人のスノーボーダーが飛び出して来たのだったが、まさかまたもや、視界ゼロの真っ白な世界から、猛スピードのスノーボーダーが飛び出して来るとは、この時のわたくしは想像すらしていなかった。
「危ないっ!」
すぐ隣りで美咲の短い悲鳴も聞こえた。突然現れたスノーボーダーは、我々との接触の寸での所を、ボードのトゥエッジに屈んで体重を乗せ、スネでブーツのタンを潰しながら、ぎりぎりの緊急停止を試みた。しかし、しっかりと屈む姿勢がとれずに、そのまま上体のバランスを崩して、雪煙の中へ消えて行った。
「美咲!」
わたくしは慌ててゴーグルに付着した雪を擦った。真っ白な世界が色を持ち始め、吹雪の背中が見えるようになった頃、わたくしのすぐ左隣りには、驚き横倒しになった美咲の姿と、見知らぬ女性スノーボーダーがうつ伏せに倒れていた。
「なんて事だ。昨日に引き続き今日までこんな。美咲、怪我はないか?」
わたくしの頭の中に一瞬、バイフーという言葉が浮かんだが、しかし、それは次に現れた男の存在によって、すぐに打ち消される事となった。
「典ちゃん! どこや!」
オレンジ色のウェアを着たもう一人のスノーボーダーが、ヒールエッジで雪を飛ばした。
「アホ! 吹雪の中を突っ込んで行く奴があるか! コース外へ突っ込んだらほんまに死ぬで! ああすんませんでしたな、怪我は無いですか?」
雪まみれの顔からゴーグルを上げて、男は切れ長の一重まぶたを見せた。年はわたくしよりも五歳くらい上の、四十そこそこと言った感じだったが、声が高くて見た目よりも若々しく思えた。はて、どこかで会ったような印象的な顔と声だと思った。彼は美咲の手を掴んで、背中の辺りに手を回すようにして、彼女の上半身を抱き起こした。妙に馴れ馴れしく女性に触る奴だ。
「ああ大丈夫です、もう、結構ですから。ちょっと驚いて倒れただけですので」
美咲は縮こまった格好から肘を使って、やんわりと男の手を振りほどいた。
「そうですか? ほんますんませんでしたなあ。おーい典ちゃん、生きてるか? 一人で起き上がられるか?」
突進して来た女性は、ボンボン付のニット帽を被り直して、ヒールカップからブーツを取り外した。
「ちょっと太一ぃ、あたしは起こしてくれないわけぇ? こっちの方がど派手に転んじゃってるんだけどぉ!」
「なに言うとんねん。無防備の状態から跳ね飛ばされた方が危険やねんから、こうやって怪我がないか確認してるんや。ほら、はよ起きい」
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「宗村さん、羽田太一と大島典子です。わたしたちと同じペンションに宿泊しているカップルで、都内でアパレルを経営している」
「あ」
羽田は彼女の手を引っ張って、そのまま大きくゲレンデに転倒して、大笑いをした。
「昨日、江口と口論をしていた」
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「そうです。偶然と言うにはあまりにタイミングが良過ぎます。宗村さん、一応警戒はしておいて下さい」
「警戒?」
美咲はバインディングのレバーを倒してストラップを締めた。羽田は板を小脇に抱えて、こちらへ戻って来た。
「あれ? もしかして、同じペンションに宿泊している、宗村さんとちゃいますか?」
後ろから大島典子も登って来て、同じように驚いた顔を見せた。派手に転倒した割に、特に大きな怪我は無さそうだった。
「ああ、やっぱりそうや。どっかで見た事ある顔やなあと思うとったんですわ。典ちゃん覚えてる? 同じペンションに宿泊している宗村さんや宗村さん。食堂で一緒になったやろ」
ランダムレイヤーにした髪を大きく振って、大島はわたくしと美咲を交互に見た。強めのマスカラと頬からこめかみに塗られたチークが、都会的で繁華街的な若い女性の雰囲気を打ち出していた。年は美咲と同じくらいに見えた。この後で我々は、お互いの顔と名前を確認し合うような、簡単な挨拶が交わされた。
「しっかし、典ちゃんが吹雪の中を暴走した先に、同じペンションのお二人が座っていただなんて、全く奇遇ですなあ。こないな動かんリフト降り場の下で、一体何をしてはりました?」
男は気兼ねなくわたくしの前に腰を下した。接客業をしているだけあって、あるかなきかの面識だけで、驚くほど積極的で社交的だった。
「まあ、俺らどうせ明日にはチェックアウトする身やけど、これも何かの縁やゆうて、どうですか、ちょっと吹雪の止むまでお話でもしませんか?」
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「と言うのもやね、今回はとにかくペンションで妙な事ばかり起きているもんやから、ちょっとその事について誰かといっぺん話してみたいと思っとったんですわ」
「妙な事?」
わたくしは横目で美咲を見た。彼女は真っ直ぐに羽田の顔を見ていた。
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「確かに、異常は異常ですね」
話ながらわたくしは、美咲の言う警戒という言葉が頭を掠めた。
「ほんでよくよく話を聞いてみれば、ほんのこないだにも、あそこの別の従業員が、宿泊客と心中自殺をやらかしているっちゅう話やから、あのペンション、えろう呪われてまんなあって話を、いま典ちゃんとしていた所なんですわ。なあ典ちゃん」
美咲の前に座った大島は、ニット帽から出した髪の毛を、くしゃくしゃっと手で梳いた。
「昨日の朝あんなに元気に怒っていた江口サダユキが、その昼には首を吊っちゃうなんて、あたし全然信じられないんです。椎名さんもそう思いません? あたしの前の職場で、同じく首吊っちゃった後輩がいましたけど、やっぱりそれって今思えば様子がおかしかったんです。日によって妙に明るかったり、急にどうでもいい事を一方的に話してきたりして。だから、江口サダユキの様子を見る限りでは、ああ、あたし初日に彼にナンパされていたんですよ、すごく女好きそうなちゃらい感じでした。明日一緒に滑ろうよとかって、それってこれから自殺する人には全く思えませんでした」
わたくしは大きく腕を組んで、深く唸った。
「なあ? こんな具合に典ちゃんも、江口の不可解な自殺を疑っていますねん。他にも、後から急に江口のケータイがひょっこり出てきたり、ここの地元の連中から変な噂を耳にしたりで」
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「ああ、典ちゃん、昨日の消防の彼の話、教えたってや」
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大島は羽田に向かって雪を投げた。
「なにいい加減な事を言ってんのよ、あいつが昔あたしに付きまとっていたってだけで、それ以外には何もないって、昨日から言ってるじゃないの」
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大島はわたくしの顔をちらっと見て、前髪を少し整えた。
「もう。タカシとは本当に何もないんだから。まあいいわ。とにかく、昨日あいつにばったり会った時に聞いた話なんですけど、ちょっとあのペンションの事について、気を悪くするような事を言われたんです」
「気を悪く? どんな事を言われたんですか?」
美咲は座りながら、左の腰の辺りで手で摩った。長時間雪の上で座りっぱなしは傷に響くのかもしれない。
「はい。あたしも本当の所は詳しい話が分かっていないんですけど、あたしたちが泊まっているペンションの、アルプホルンって名前を聞いた途端、タカシの奴、急に人の目を気にするような小さい声を使って、あそこは呪われているから止めておけって、そう言ったんです」
「呪われている?」
わたくしはあからさまに眉を寄せた。
「せや、いきなりとんでもなく失礼な事を言うやっちゃろ?」
「どうしてその彼は、あのペンションが呪われているって言うんですか?」
羽田の言葉を遮るように、美咲は大島の次の言葉を促した。
「ええっと、タカシが言うには、あそこの従業員が四週間前に心中自殺をしたらしいんですけど、その時消防団の彼は、消防本部から車両火災の連絡を受けて、就寝中の自宅からすぐ近くの火災現場へ駆け付けたそうなんです。そして、えっと、消防水利の確保や現場周辺の住民の安全確保とか、とにかく消火活動に参加していたんですって。大雪の中の車両火災でしたから、消火活動よりも除雪の方が最優先で、人海戦術でスコップを動かしていると、間もなく救急車が到着して、黒焦げの車体から救出された被害者が、担架に乗せられる所を見たそうなんです」
雪質が霰に変わり、カサカサとウェアを打つ雪の音がうるさくなった。
「体の大きさから男性と思われる遺体は、手の施しようのない変わり果てた姿だったそうなんですけど、一方の女性の方は、奇跡的にほぼ無傷の状態で、微かに目を開けて意識が朦朧としている状態だったそうなんです」
「なんだって?」
わたくしは美咲と顔を合わせて、その後の言葉が出なかった。
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こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
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