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「どうも俺は勘違いをしていたようだ」
大きなくしゃみを一つして、わたくしは車の助手席で鼻を啜った。前方のワンボックス車が斜めになって、タイヤの一輪が空転、センターデフが動力を差分するかして、通称亀の子状態になった。
「勘違い?」
美咲は、珊瑚マイヤーのブランケットを広げて、それを膝の上に敷くと、左手で下半身を摩っていた。
「そう。きっと君も勘違いをしていたはずだ。昨日君と接触事故を起こしたスノーボーダーは、その衝突の反動で、自らの所持品をゲレンデにばら撒いた。そして、スノーボーダーがその所持品の拾い切れなかった中に、不知火忍の晦冥会のカードがあった。その晦冥会のエンボス付きのカードは、謎のスノーボーダーが天道葵を暗殺した際に、彼女の遺体から抜き取ったものと、俺たちは考えていた」
わたくしは缶珈琲で手の平を温めてから、それを一くち口にした。美咲は丸めたティッシュを鼻に当てて、小さく鼻を啜った。
「不知火忍の晦冥会のカードは、天道葵の遺体から抜き取られた、こう考えていたわたしたちが、そもそも間違っていたという事ですね」
「そう。君に衝突して来たスノーボーダーは、自分の晦冥会のカードをゲレンデに落として行ったんだ。だって、そのスノーボーダーの女が、現在の所、江口を殺害したバイフーとして有力な人物である事は、この事件を長年追い続けて来た石動刑事も、君の上司である敷島でさえ、目星をつけている所だ。
まあとにかく、君に衝突して来た謎のスノーボーダーの正体は、晦冥会の暗殺者であるバイフーであり、彼女は今回の暗殺対象である江口サダユキを、どうにかして犯行に使用するスキー場のリフトへ誘き出す必要があった」
美咲は右手でハンドルを操作しながら、静かにわたくしの話を聞いていた。
「その手段の方法の一つとして、バイフーは江口暗殺当日の朝食時に、彼の携帯電話に直接電話をかけて来た。これは羽田の話を聞いていて俺は思った事だが、つまり、これから江口を暗殺しようとするバイフーからの電話に、たまたま近くに居合わせて江口の携帯電話に出てしまったのが、バイフーも想定できなかった非常識な男、羽田太一だった。その電話に出た羽田は、わたしです、忍です、というバイフーの声と名前を聞いてしまった」
緩やかにカーブを描く雪道の真ん中に、黄色いダウンジャケットを来た女が、ぽつんと一人で歩いていた。そのあまりの危険さから、美咲はクラクションを鳴らしてみたが、その女はこちらを振り向きもせず、見るとフードを目深にかぶり、首からガムテープを貼った小型ラジオをぶら下げて、何かを大声で歌っていた。美咲はわたくしの顔を見て、小さく肩を上下させた。
「つまり、宗村さんの言うわたしたちの勘違いとは、晦冥会から脱走し、逃亡生活を続けていた元幹部の不知火忍は、晦冥会の暗殺者バイフーに見つかって、同じように脱走していた木原正樹もろとも、四週間前に心中自殺に見せかけて殺された。これがわたしたちの大いなる勘違いだった」
美咲はまだ寒いのか、ブーツの踵でフロアマットを軽く打っていた。
「その通り。心中自殺に見せかけて天道葵を暗殺したのは、晦冥会の暗殺者バイフーではなかった。なぜならバイフーの正体は不知火忍であり、同時に天道葵だった」
『今にして思えば、その時に手にした名簿とは、晦冥会を脱会した幹部の暗殺リストだったのではないか思います』
『それでも、唯一頭に残っていた二人の内一人の名前は、不知火忍と言う変わった名前の女でした』
美咲は晦冥会の秘密の部屋で、暗殺対象者のリストと思われる名簿を手にした。
『名簿に×印がなかった二人、この二人こそが、今から四週間前に発生した心中事件の、当事者だったのではないでしょうか』
四週間前に心中自殺をした天道葵と木原正樹は、全くの偽名を使っていた。そしてその二人は、晦冥会の元幹部であり、暗殺リストに二人の名前が載っていたのではないかと、美咲は以前から考えていた。とりわけその内の一人、一年半もの長い間、ペンション『アルプホルン』で住み込みのバイトをしていた天道葵が、不知火忍である可能性が非常に高かった。
わたくしは顎を上げて、一気に珈琲を飲み干した。
「言い換えれば、晦冥会の暗殺者バイフーと、晦冥会を脱走した不知火忍は、同一人物の可能性が高く、また、一年半前からペンション『アルプホルン』で働いていた天道葵と言う偽名の女と、不知火忍は、やはり同一人物と言う事になる」
「つまり、心中自殺した天道葵、晦冥会の暗殺者バイフー、晦冥会を脱走した不知火忍、これら三名は、同一人物という事ですね」
『そして今にして思えば、理穂はあの時、チェックインの対応をしてくれた天道さんを見て、何やら様子がおかしくなったようにも思えるんです」
『理穂は、自分を傷つけそうな人の目を、決して見ようとはしない傾向があるんです』
久慈篤の娘は、泊まりに来たペンションのバイトの女が、罪もない人間を次々と殺していく暗殺者だと直感して、天道葵を極端に避けていたのだろうか。
「しかし、君も既に気が付いていると思うけど、話はそう簡単なものではない。晦冥会のバイフーである不知火忍は、四週間前の心中事件で、既に死亡している事になっている。翌日の朝刊にもそう掲載されていたし、警察も死亡した二人の関係者を訪ねて、彼らの身辺調査を開始している」
わたくしは頭の後ろで指を組み合わせた。
「確かにこれは、簡単な話ではないようです。天道葵と木原正樹は、自分たちに灯油を撒いて焼身自殺をして死亡しました。つまり、不知火忍は既に死亡しているのです。少なくとも世間一般的には。
しかし、当時心中自殺の現場で消火活動に当たっていた消防団の人たちは、不知火忍の息のある状態を目撃していたと、大島典子は友人から聞いています。翌日の朝刊に掲載された心中事件の、二人の即死という情報が、何らかの事情により誤りがあったとすると、不知火忍は、現在もどこかで生存している可能性はあります」
「天道葵こと不知火忍は、四週間前に炎上した車内で、奇跡的に焼死を免れていた、か」
『犯人は今や自分が透明人間にでもなった気でいる。犯人として誰からも意識されない透明な状態なのだから、今や君たちの回りを自由に行動している』
『その姿を君がもし見えるようになってしまったら、どうだ? 君と犯人の目と目が合ってしまえば、どうだ? その結果は想像にやさしいだろう。犯人を刺激してはならない』
敷島は既にこの事実を把握していた? 天道葵の生存の可能性を知っていながら、我々の身の安全を第一に考え、敢えて情報を遮断していたと言う事なのか?
「あっ!」
わたくしは勢いよくシートから体を起こした。
「どうしました?」
美咲は胸に手を当てて、瞬きを繰り返した。
「そうだ、写真だよ写真! 天道葵の写真があれば、昨日君と衝突したバイフーと、天道葵が同一人物かどうか、俺は判断ができるじゃないか!」
わたくしは武者震いするように、上半身をひねって美咲の肩に手を置いた。しかし、振り返る美咲の表情は、驚くほど静かなものだった。
「その事ですか」
「その事ですかって。どうしたの? 天道葵とバイフーの関係を裏付ける、てっとり早い方法だと思うけど」
まだ日中の内だと言うのに、車の外が急に薄暗くなった。美咲は右手を伸ばして、キセノンタイプのヘッドライトを点灯させた。アーク放電による発光が始まり、ゆっくりと前方が明るく浮かび上がった。
「宗村さん、それは、無理なんです」
「どうして」
わたくしは眉間に二本の縦皺を寄せた。
「残念ですが、天道葵の姿を写す写真は、この世に一枚も存在していないんです」
車内はしんと静まり返った。
「そんな、馬鹿な。だって、一年半もペンションに住み込んでバイトをしていながら、その姿を写した写真が一枚も残っていないだなんて」
前方の雲の中で稲光が走り、わたくしの目の裏に白い枝状の残像が残った。フロントガラスにぱらぱらと霰が当たり始めた。
「宗村さんが天道葵の写真の重要性に気が付くもっと以前に、わたしは彼女の写真を探していたんです。それは敷島さんの宿題の一つでもありましたし、天道葵について聞き込みをする際には、その顔写真がとても重要になりますから、わたしは偶然を装って、ペンションの至る所を見て回りました。ところが、岸本さん家族とその友人の写真や、高田さんやあずさのアットホームな写真が、いくらでも出て来る中、天道葵の姿を写した写真は、どの抽斗を引いても見つからなかったのです。岸本さんに至っては、密かに箪笥の奥に隠し持っていたという、彼女との思い出の写真まで、今は行方が分からなくなってしまっているとの事でした」
突然降り出した霰は、ボンネットやルーフを激しく打ち始めた。続いて轟く雷鳴。
「それは、天道葵自らが、自分の写った写真を処分して回った?」
誰もいない部屋で一人、自分の写真に火を点けている天道の不気味な姿が、わたくしの脳裏に浮かんだ。
「恐らく、その可能性が高いかと」
「でも、どうして」
トレンチコートのポケットに両手を突っ込んで、わたくしは力無くシートに背中を預けた。
「それは恐らく、晦冥会の暗殺者である不知火忍が、天道葵という自分が作り上げた架空の人物を、この世から抹殺する為だったのではないでしょうか」
『これは平凡な男女の心中などではない、もっと趣旨の異なった目的と手段の一部に過ぎない』
四週間前に起きた心中事件は、天道葵をこの世から抹殺する目的があった。そして、その後で不知火忍が自由な存在となる為の手段でもあった。敷島は端から天道葵が怪しいと踏んでいたのだ。それなのに、俺には一言も。
ポケットに入れた右手の指先に、何か布切れがあるのに気がつき、わたくしは思わずそれを顔の前に上げた。
「何ですか、それ?」
美咲が隣でそれを見ていた。
「忘れていた。これは、心中事件のあった現場に落ちていた、特殊な生地だ」
「特殊な生地?」
わたくしは、カーキ色をしたリップストライプ構造の生地を色々な方向から眺めた。
「それが、心中自殺のあった廃業中の商店の前に落ちていたんですか?」
「そう。これ、ライターの火であぶっても、燃えないんだ。消防の消火活動と何か関係があるのかな?」
「すいません、ちょっと見せて下さい」と言って、美咲はわたくしから生地を受け取って、
「耐炎性があるんですね。色はカーキ色、このような色の生地は、消防士の活動服にあるでしょうか」
「そうだね。消防士の服の色は一般的にはオレンジ色、あれ? 確か、そう確か、石動刑事に連れられて、警察の管理下にある病室で見た、意識不明の女性の小脇に、これと同じ色のジャケットが畳まれていたっけ」
「なんですか、その話は」
美咲は鼻を生地に近づけて、くんくんと匂いを嗅いだ。
「ほら、昨日君にも話したじゃない、バイフーの被害者で奇跡的に一命を取り留めた女性の話、その床頭台に畳まれた服の中に、これと同じような生地を使用したジャケットが、混ざっているのを見たんだ」
美咲は鼻の辺りに人差し指を当てて、真剣に何かを考え始めた。
「宗村さん、その奇跡的に助かったというバイフーの被害者の女性は、きっと今も生存しているのでしょうか?」
「多分ね。だけどあの様子だと、今も意識不明の状態だと思うよ」
美咲のいつになく暗い表情を、突然の稲光が閃かせた。わたくしはその不穏な横顔から、いつまでも目が離せなかった。
「宗村さん、今回の一連の事件は、途轍もなく闇が深いようです。わたしたちが想像しているよりも遥かに深い。悔しいですけど、不知火忍はわたしたちよりも遥か上を行っているようです。数々の難事件を解決してきた名探偵敷島レナさんが、これ程までに慎重にならざるを得ない理由が、今わたし分かった気がします」
大きなくしゃみを一つして、わたくしは車の助手席で鼻を啜った。前方のワンボックス車が斜めになって、タイヤの一輪が空転、センターデフが動力を差分するかして、通称亀の子状態になった。
「勘違い?」
美咲は、珊瑚マイヤーのブランケットを広げて、それを膝の上に敷くと、左手で下半身を摩っていた。
「そう。きっと君も勘違いをしていたはずだ。昨日君と接触事故を起こしたスノーボーダーは、その衝突の反動で、自らの所持品をゲレンデにばら撒いた。そして、スノーボーダーがその所持品の拾い切れなかった中に、不知火忍の晦冥会のカードがあった。その晦冥会のエンボス付きのカードは、謎のスノーボーダーが天道葵を暗殺した際に、彼女の遺体から抜き取ったものと、俺たちは考えていた」
わたくしは缶珈琲で手の平を温めてから、それを一くち口にした。美咲は丸めたティッシュを鼻に当てて、小さく鼻を啜った。
「不知火忍の晦冥会のカードは、天道葵の遺体から抜き取られた、こう考えていたわたしたちが、そもそも間違っていたという事ですね」
「そう。君に衝突して来たスノーボーダーは、自分の晦冥会のカードをゲレンデに落として行ったんだ。だって、そのスノーボーダーの女が、現在の所、江口を殺害したバイフーとして有力な人物である事は、この事件を長年追い続けて来た石動刑事も、君の上司である敷島でさえ、目星をつけている所だ。
まあとにかく、君に衝突して来た謎のスノーボーダーの正体は、晦冥会の暗殺者であるバイフーであり、彼女は今回の暗殺対象である江口サダユキを、どうにかして犯行に使用するスキー場のリフトへ誘き出す必要があった」
美咲は右手でハンドルを操作しながら、静かにわたくしの話を聞いていた。
「その手段の方法の一つとして、バイフーは江口暗殺当日の朝食時に、彼の携帯電話に直接電話をかけて来た。これは羽田の話を聞いていて俺は思った事だが、つまり、これから江口を暗殺しようとするバイフーからの電話に、たまたま近くに居合わせて江口の携帯電話に出てしまったのが、バイフーも想定できなかった非常識な男、羽田太一だった。その電話に出た羽田は、わたしです、忍です、というバイフーの声と名前を聞いてしまった」
緩やかにカーブを描く雪道の真ん中に、黄色いダウンジャケットを来た女が、ぽつんと一人で歩いていた。そのあまりの危険さから、美咲はクラクションを鳴らしてみたが、その女はこちらを振り向きもせず、見るとフードを目深にかぶり、首からガムテープを貼った小型ラジオをぶら下げて、何かを大声で歌っていた。美咲はわたくしの顔を見て、小さく肩を上下させた。
「つまり、宗村さんの言うわたしたちの勘違いとは、晦冥会から脱走し、逃亡生活を続けていた元幹部の不知火忍は、晦冥会の暗殺者バイフーに見つかって、同じように脱走していた木原正樹もろとも、四週間前に心中自殺に見せかけて殺された。これがわたしたちの大いなる勘違いだった」
美咲はまだ寒いのか、ブーツの踵でフロアマットを軽く打っていた。
「その通り。心中自殺に見せかけて天道葵を暗殺したのは、晦冥会の暗殺者バイフーではなかった。なぜならバイフーの正体は不知火忍であり、同時に天道葵だった」
『今にして思えば、その時に手にした名簿とは、晦冥会を脱会した幹部の暗殺リストだったのではないか思います』
『それでも、唯一頭に残っていた二人の内一人の名前は、不知火忍と言う変わった名前の女でした』
美咲は晦冥会の秘密の部屋で、暗殺対象者のリストと思われる名簿を手にした。
『名簿に×印がなかった二人、この二人こそが、今から四週間前に発生した心中事件の、当事者だったのではないでしょうか』
四週間前に心中自殺をした天道葵と木原正樹は、全くの偽名を使っていた。そしてその二人は、晦冥会の元幹部であり、暗殺リストに二人の名前が載っていたのではないかと、美咲は以前から考えていた。とりわけその内の一人、一年半もの長い間、ペンション『アルプホルン』で住み込みのバイトをしていた天道葵が、不知火忍である可能性が非常に高かった。
わたくしは顎を上げて、一気に珈琲を飲み干した。
「言い換えれば、晦冥会の暗殺者バイフーと、晦冥会を脱走した不知火忍は、同一人物の可能性が高く、また、一年半前からペンション『アルプホルン』で働いていた天道葵と言う偽名の女と、不知火忍は、やはり同一人物と言う事になる」
「つまり、心中自殺した天道葵、晦冥会の暗殺者バイフー、晦冥会を脱走した不知火忍、これら三名は、同一人物という事ですね」
『そして今にして思えば、理穂はあの時、チェックインの対応をしてくれた天道さんを見て、何やら様子がおかしくなったようにも思えるんです」
『理穂は、自分を傷つけそうな人の目を、決して見ようとはしない傾向があるんです』
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「しかし、君も既に気が付いていると思うけど、話はそう簡単なものではない。晦冥会のバイフーである不知火忍は、四週間前の心中事件で、既に死亡している事になっている。翌日の朝刊にもそう掲載されていたし、警察も死亡した二人の関係者を訪ねて、彼らの身辺調査を開始している」
わたくしは頭の後ろで指を組み合わせた。
「確かにこれは、簡単な話ではないようです。天道葵と木原正樹は、自分たちに灯油を撒いて焼身自殺をして死亡しました。つまり、不知火忍は既に死亡しているのです。少なくとも世間一般的には。
しかし、当時心中自殺の現場で消火活動に当たっていた消防団の人たちは、不知火忍の息のある状態を目撃していたと、大島典子は友人から聞いています。翌日の朝刊に掲載された心中事件の、二人の即死という情報が、何らかの事情により誤りがあったとすると、不知火忍は、現在もどこかで生存している可能性はあります」
「天道葵こと不知火忍は、四週間前に炎上した車内で、奇跡的に焼死を免れていた、か」
『犯人は今や自分が透明人間にでもなった気でいる。犯人として誰からも意識されない透明な状態なのだから、今や君たちの回りを自由に行動している』
『その姿を君がもし見えるようになってしまったら、どうだ? 君と犯人の目と目が合ってしまえば、どうだ? その結果は想像にやさしいだろう。犯人を刺激してはならない』
敷島は既にこの事実を把握していた? 天道葵の生存の可能性を知っていながら、我々の身の安全を第一に考え、敢えて情報を遮断していたと言う事なのか?
「あっ!」
わたくしは勢いよくシートから体を起こした。
「どうしました?」
美咲は胸に手を当てて、瞬きを繰り返した。
「そうだ、写真だよ写真! 天道葵の写真があれば、昨日君と衝突したバイフーと、天道葵が同一人物かどうか、俺は判断ができるじゃないか!」
わたくしは武者震いするように、上半身をひねって美咲の肩に手を置いた。しかし、振り返る美咲の表情は、驚くほど静かなものだった。
「その事ですか」
「その事ですかって。どうしたの? 天道葵とバイフーの関係を裏付ける、てっとり早い方法だと思うけど」
まだ日中の内だと言うのに、車の外が急に薄暗くなった。美咲は右手を伸ばして、キセノンタイプのヘッドライトを点灯させた。アーク放電による発光が始まり、ゆっくりと前方が明るく浮かび上がった。
「宗村さん、それは、無理なんです」
「どうして」
わたくしは眉間に二本の縦皺を寄せた。
「残念ですが、天道葵の姿を写す写真は、この世に一枚も存在していないんです」
車内はしんと静まり返った。
「そんな、馬鹿な。だって、一年半もペンションに住み込んでバイトをしていながら、その姿を写した写真が一枚も残っていないだなんて」
前方の雲の中で稲光が走り、わたくしの目の裏に白い枝状の残像が残った。フロントガラスにぱらぱらと霰が当たり始めた。
「宗村さんが天道葵の写真の重要性に気が付くもっと以前に、わたしは彼女の写真を探していたんです。それは敷島さんの宿題の一つでもありましたし、天道葵について聞き込みをする際には、その顔写真がとても重要になりますから、わたしは偶然を装って、ペンションの至る所を見て回りました。ところが、岸本さん家族とその友人の写真や、高田さんやあずさのアットホームな写真が、いくらでも出て来る中、天道葵の姿を写した写真は、どの抽斗を引いても見つからなかったのです。岸本さんに至っては、密かに箪笥の奥に隠し持っていたという、彼女との思い出の写真まで、今は行方が分からなくなってしまっているとの事でした」
突然降り出した霰は、ボンネットやルーフを激しく打ち始めた。続いて轟く雷鳴。
「それは、天道葵自らが、自分の写った写真を処分して回った?」
誰もいない部屋で一人、自分の写真に火を点けている天道の不気味な姿が、わたくしの脳裏に浮かんだ。
「恐らく、その可能性が高いかと」
「でも、どうして」
トレンチコートのポケットに両手を突っ込んで、わたくしは力無くシートに背中を預けた。
「それは恐らく、晦冥会の暗殺者である不知火忍が、天道葵という自分が作り上げた架空の人物を、この世から抹殺する為だったのではないでしょうか」
『これは平凡な男女の心中などではない、もっと趣旨の異なった目的と手段の一部に過ぎない』
四週間前に起きた心中事件は、天道葵をこの世から抹殺する目的があった。そして、その後で不知火忍が自由な存在となる為の手段でもあった。敷島は端から天道葵が怪しいと踏んでいたのだ。それなのに、俺には一言も。
ポケットに入れた右手の指先に、何か布切れがあるのに気がつき、わたくしは思わずそれを顔の前に上げた。
「何ですか、それ?」
美咲が隣でそれを見ていた。
「忘れていた。これは、心中事件のあった現場に落ちていた、特殊な生地だ」
「特殊な生地?」
わたくしは、カーキ色をしたリップストライプ構造の生地を色々な方向から眺めた。
「それが、心中自殺のあった廃業中の商店の前に落ちていたんですか?」
「そう。これ、ライターの火であぶっても、燃えないんだ。消防の消火活動と何か関係があるのかな?」
「すいません、ちょっと見せて下さい」と言って、美咲はわたくしから生地を受け取って、
「耐炎性があるんですね。色はカーキ色、このような色の生地は、消防士の活動服にあるでしょうか」
「そうだね。消防士の服の色は一般的にはオレンジ色、あれ? 確か、そう確か、石動刑事に連れられて、警察の管理下にある病室で見た、意識不明の女性の小脇に、これと同じ色のジャケットが畳まれていたっけ」
「なんですか、その話は」
美咲は鼻を生地に近づけて、くんくんと匂いを嗅いだ。
「ほら、昨日君にも話したじゃない、バイフーの被害者で奇跡的に一命を取り留めた女性の話、その床頭台に畳まれた服の中に、これと同じような生地を使用したジャケットが、混ざっているのを見たんだ」
美咲は鼻の辺りに人差し指を当てて、真剣に何かを考え始めた。
「宗村さん、その奇跡的に助かったというバイフーの被害者の女性は、きっと今も生存しているのでしょうか?」
「多分ね。だけどあの様子だと、今も意識不明の状態だと思うよ」
美咲のいつになく暗い表情を、突然の稲光が閃かせた。わたくしはその不穏な横顔から、いつまでも目が離せなかった。
「宗村さん、今回の一連の事件は、途轍もなく闇が深いようです。わたしたちが想像しているよりも遥かに深い。悔しいですけど、不知火忍はわたしたちよりも遥か上を行っているようです。数々の難事件を解決してきた名探偵敷島レナさんが、これ程までに慎重にならざるを得ない理由が、今わたし分かった気がします」
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