プルートーの胤裔

ゆさひろみ

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カタストロフ

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 美咲は通常よりもやや目を開けて、厨房のドアのケーシング部に右手と携帯電話を置いていた。彼女が携帯電話を持ってわたくしの所へ訪ねて来たと言う事は、いよいよ石動刑事から捜査協力の連絡があったのかも知れない。
「美咲」
 わたくしは上半身をもがいて、背中にあるあずさの腕を振りほどいた。
「美咲、あの、これは」
 手荒くあずさの肩を押し退けて、わたくしが美咲に近づいて行くと、彼女は細かく首を振って、二、三歩後ろへ足を退いた。
「ちょっと、ちょっと待って」
 もう一歩後ろ足を引くと、美咲は食堂を見て、厨房から出て行った。それを見て慌てたわたくしは、ソテーパンに手をぶつけながら、けたたましく美咲の後を追った。
「美咲、待ってくれ、とにかく待って」
 厨房を出た所でわたくしは、背中から美咲の左腕を取った。彼女は掴まれた腕を見下ろすと、激しく腕を振り払って、その勢いでわたくしを振り返った。
「とにかく落ち着いて、とにかく」
「落ち着いて?」
 やっと口を開いた美咲の声は、深い水の底から響いてくるような、重々しいものだった。
「宗村さん、あなた一体、ご自分が何をしていたのか、それを分かっているんですか?」
 美咲は相手と目を合わすのさえ嫌うように、わたくしの胸の辺りを見ていた。
「誰もいない事を良い事に、人目の付かない所でコソコソと。あなた一体何をやっているんですか?」
「これには、深い事情が」
 美咲はこれ以上ないくらい冷たい目を上げた。
「はい? 深い事情って、何ですか? 一体どんな事情があって、あずさとあんな事をしていたんですか?」
 見られた所が見られた所であり、わたくしは美咲の質問に対して言葉を失った。それでも、何とか声を振り絞って、
「違うんだ。これは、これは君を守る為にやった事なんだ。君を救う為に」
 わたくしの必死の弁明は、悲しい響きをもって無人の食堂へ響き渡った。空しい言い訳、自らもそう思った。
「あの、すいませんがあなたのおっしゃっている意味がわたしには理解できないのですが。何ですって? あたしを守る為にやったですって? あたしを守る為にあなたは別の女と抱き合っていたって、そうおっしゃるんですか? 呆れた。あたしを守る為だったら、どんな女と抱き合ったって、良いって事なんですか? 本当に呆れた。どうせ吐くんなら、もう少しまともな嘘を吐いたらどうですか?」
 努めて冷静に言葉を選んでいる様子だったが、美咲の声は怒りか動揺かで小刻みに震えていた。
「嘘じゃない、バイフーは君の命を狙っているんだ。バイフーの手紙の中にそう」
「もう、そんな空想話はやめにしませんか? 宗村さんは、初めから誰でも良かったんですよね? 誰でも良かった、あたしでも、あずさでも、大島典子でも」
 大島典子? 都会的で繁華街的な若い女性が頭に浮かんだ。確かによく目が合う娘だとは思った。
「あたしとの約束なんて、始めからどうでも良かったんです。それなのにわたしは、ほんとバカみたい」
「違うんだって。とにかく俺の話を聞いてくれ。君はいま大変に危険な状態に」
 美咲は暗闇で刃物が光るような鋭い目を上げた。
「まだそんな嘘を吐いてわたしを騙そうとするんですか? 男らしくない。あなたなんて、もううんざりです。本当にもううんざり、顔も見たくない」
「待って、これは誤解だ」
「聞きたくない、この、女ったらし!」
 相手の頬に平手打ちを食らわせようと、美咲は右手を高く振り上げた。わたくしは反射的に首を竦めると、痛みに身構えて両目をつむった。それから一秒、二秒と、何も起こらない時間が過ぎた。
「?」
 恐々と片目を開けると、美咲は右手を振り上げたまま、ぼろぼろと大粒の涙を落としていた。わたくしはその姿を見て、インターハイの決勝で逆転負けして帰って来た妹の泣きっ面を思い出した。
「バカ」
 束髪の髪を大きく振り回して、美咲は走って食堂から出て行った。その背中を追い掛けようと、わたくしは一歩前へ踏み出したが、厨房にいるあずさの事が気掛かりになって、次の足が止まった。
 あずさは予めこうなる事を意図していたのではないか? これは全てあずさが仕組んだ罠であり、わたくしはその罠にまんまと嵌っただけの事ではないだろうか? そもそもバイフーが美咲の命を狙っているだなんて、根も葉もない作り話で、その嘘にまんまと踊らされたわたくしは、こちらも罠によって呼び出された美咲の目の前で、あずさと抱き合ってしまった。これが彼女の略奪愛のタクティクスだったのではないか? そう不安に駆られたわたくしは、慌てて踵を返した。
「あずさ!」
 厨房の中へ戻って、アイランド越しにガスフィントップレンジの右奥を見た。あずさはワインセラーに背中を付けて、何もない宙を見ていた。
「あずさ。君が、君が美咲を呼んだのか?」
 わたくしは、パティスリーのマーブルトップの側から回り込んで、あずさの肩を両手で掴んだ。
「おい、聞いているのか! 君が美咲を」
 そのまま前後へ揺さぶると、彼女はぐらぐらと首を倒して、こちらへ恍惚な表情を向けた。
「あ、宗村さん。どこへ行っていたんですか?」
 生き血に飢えたゾンビのように、両手を上げて抱き付こうとするあずさを、わたくしは寸での所で交わした。
「何をするんだ、こら」
「何をって、もう一回」
 動物的に動く彼女の愚かな様子を見て、わたくしはその中に略奪愛のタクティクスは読み取れなかった。
「おい、いい加減に目を覚ませ」
 こう言った表現は好きではないが、今やあずさの目はハート型になっていた。
「宗村さん、もう一回、もう一回」
「ダメだ、これは」
 わたくしは厨房の入口へ引き返しながら、骨抜き状態のあずさを振り返った。
「あずさ、こうなったらもう仕方がない、約束は約束だからな、美咲の命は絶対に守ってくれ! いいな! 君の特別な身分を使って、何としてもバイフーの動きを止めるんだ!」
 わたくしは大いなるカタストロフを胸に抱きながら、食堂から廊下へ走って、誰もいない談話室を一っ飛びすると、一段抜かしで階段を駆け上った。
 二階にある客室のドアは全て閉じられていた。わたくしは階段からすぐ右手にある自室のドアノブをがちゃがちゃと回した。ドアには鍵が掛けられていた。
「美咲、開けてくれ」
 コンコンと続けざまにドアをノックした。
「美咲」
 わたくしはヘムロック材の冷たいドアに耳を押し付けた。室内からの反応はなかった。もう一度廊下を振り返ってから、
「美咲、聞いてくれ、これは全て君を助けるためにやった事なんだ。君は今やとんでもなく危険な状態なんだ」
 右手に拳を握って、その小指球をドアに押し付けた。そして、なるべく室内に声が伝わるように、左手を曲げて筒状にして、口とドアを覆った。
「バイフーの次の標的は、君なんだ。あずさがそう教えてくれた。彼女の所には今、バイフーからの手紙が届いている、その手紙の中には、君の情報が求められているんだ。江口サダユキが自殺した時と同じなんだそうだ。したがって君は今、バイフーの暗殺のターゲットとなっている可能性が非常に高い。
 でも、あずさなら、不破昂佑の孫であるあずさなら、何とかなりそうなんだ。あいつはこれから直々に晦冥会へ働きかけてくれるそうだ。つまり、不破一族の末裔であるあずさは、晦冥会の暗殺者、バイフーの動きを止められるかも知れないんだ。だから、俺はその望みにかけて、あずさの小さな要求を飲んだ。ただそれだけの事なんだ」
 わたくしはわたくしとあずさの関係を誤解した美咲に対して真実の告白を行った。布団をかぶってベッドに倒れているにしろ、デスクに突っ伏して泣いているのにしろ、美咲がこのドアの向こうにいる事は間違いないはずだった。そして、わたくしのこの告白が彼女の耳に入っている事も間違いないはずだった。それでも、室内からは何の応答もなかった。ドアに押し付けた拳を下へ下へ移動させて、わたくしはそのまま床へ跪いた。
「美咲、開けてくれ。俺は、俺は」
 その時、吹き抜けになった階下から、ドアベルのけたたましく鳴り響く音が聞こえてきた。誰かがペンションに帰着したかと思う間もなく、複数の足音は階段を駆け上って来た。そして、ウィンドペン柄の派手なスーツが二階の廊下に見えた。
「ああ宗村さん! いたいた良かった」
 息を切らしてこちらへ顔を向けたのは、他でもない石動刑事だった。
「宗村さん、おや? 自分の部屋のドアと格闘して、あなた一体何をしているんですか。そんな所で遊んでいないで、とにかく僕たちと一緒に来て下さい。
 聞いて驚かないで下さい、ついに奴が動き出したんです。つい先頃から、セキュリティー保護された某企業のサーバーデータが、複数にわたってハッキングを受けています。しかもそのハッキングもとが、ここからほど近いネットカフェの回線と言うではないですか。
 宗村さん、奴ですよ奴。これは間違いありません。とうとうバイフーは我々の網に掛かったんです。
 と言う事で宗村さん、バイフーの素顔を見たと言うあなたの出番が遂に来ました。これから大捕り物が始まります。さあ宗村さん、僕たちの捜査に是非協力して下さい、我々で戦後最大級の大量殺人の犯人、バイフーを捕まえるんです!」
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