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姿なきハッカー
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「石倉留美?」
思いもよらない名前を聞いて、わたくしは瞬きを繰り返した。
「ご存じですよね?」
「ああ、えーっと、ええ、確か『樹氷』の店員、でしたか」
助手席の加藤がドアガラスに頭を打ち付けた。
「そうです。数年前までチームANに所属していた元プロスノーボーダーで、現在は離縁した元夫の家に住まいながら、ご長男さんの学費を稼ぐ為に、ゲレンデレストラン『樹氷』と、夜は駅前の居酒屋『いろは』で働いている石倉留美。実は彼女、天道葵と一年くらい交流があったそうなんですが。これも、ご存じですよね?」
車内の煙草の臭いが気になり始め、石動はファンスイッチへと手を伸ばした。外気導入へ切り替わると、車内に涼しい風が回り始めた。
「ええ、まあ、美咲がそのような事を」
「天道葵の変死について、彼女に事情を聞いていると、隣りにいた加藤君の目付きが変わりましてね。石倉留美は、天道葵について何かを知っている、彼はこう直感したと言います。ねえ、加藤君」
加藤のわざとらしい溜め息が聞こえた。なるほど、この話は加藤の手柄というわけか。
「加藤君はその後も石倉の元へ足繁く訪ねて行って、夜には彼女が勤める居酒屋の暖簾をくぐって、天道葵について知っている事を聞きたいと、相手が呆れ果てて降参するまで、一人大座敷に胡坐をかいて待っていたそうです。刑事の鏡ですねまったく。そして石倉は、居酒屋のバイトが終わると外で待たせていた加藤君を連れて、知り合いが経営するスナックバーへ顔を出した、そこでようやく天道葵に関する興味深いエピソードが聞けたんですよ」
「興味深いエピソード?」
わたくしは加藤の後頭部を見た。
「石倉はどうも、天道葵の素性について、何か思う所があったようです。それを彼女、女の勘と表現していたそうです」
『葵ちゃんは黙っていたから、あたしも特別聞くこともなかったけど、何となくそうなんじゃないかなあって思ってた』
『でも結局、あたしの勘は外れていたんだよね。新聞の記事を読んでそう思った』
美咲との聞き込みの際に、石倉はそんな事を言っていた。
「酔ってカラオケを熱唱した後、気持ち良く水割りを飲み干してから、彼女は遠い目でこう話したそうです。
石倉が天道葵の素性について怪しむ切っ掛けとなったのは、ヤマモミジの紅葉が高山を染め抜く季節の事。二十代の若者のくせに、いつもストレッチデニムとパッカブルコートとメンズライクで地味な天道を嘆いて、石倉が彼女の印象を明るく変える為、服選びの指南をしようと、休みを合わせてN駅前の百貨店へ買い物に出かけた。石倉御用達の大人の女性にフォーカスした辛口モダンも納得する上品な洋服屋で、アイテムの乏しい天道には敷居が高そうに思えたが、元々ルックスが良かった天道葵を一目見て、始めは談笑していた店長も、よくよく真剣になって来て、忙しく店内を歩き回ると、仕立てが良く型崩れのしない、大人をトーンアップして見せるボアコートを、天道の肩に掛けて彼女を鏡の前に立たせた。天道もまんざらでもない表情を見せて、セール期間中のお得な値札を見ていたが、そんな時、いつから店内にいたものか、東京からの観光旅行っぽい、二人組みの女性が近づいて来て、天道の肩をトントンと指で叩いたかと思うと、『不知火さん? ああ、やっぱり。不知火さんじゃない』と声を掛けて来た」
わたくしはシートに背中を預けて、深く腕を組んだ。
「それを聞いた天道は、服選びの手を休めて、いつもよりも瞳を大きくしたまま、相手を振り返ろうともしなかった。それでも天道の顔を覗き込もうとする女性たちに、彼女は一言『人違いです』と、苦言としか言いようのない返事をして、別の売り場へと移動して行った。石倉は腰に手を当てて、それらの一部始終を見ていた。声を掛けて来た女性たちは、口に手を当てて、お互いひそひそと小声を交わした後、そのまま店を後にして行った。
値札の付いた洋服を納めた百貨店の紙袋を窓辺に置いて、展望レストランの一角で早めの夕食に向かっていると、石倉はずっと気になっていたその事について天道へ尋ねてみた。
『本当はあの子たち、知り合いだったんじゃないの?』
すると天道は今までの楽しそうな表情を内に隠して、他人の空似だと言ったのを最後に、ぴたりと口を閉ざした。それを石倉は、フォークでスパゲッティの麺を絡めながら、いつまでも眺めていた。
天道の事を不知火と呼んだ女性は、間違いなく天道の顔を近くで確認してから『やっぱり』と言っていた。そして数年振りの再会を喜んでいるようにも見えた」
車はいつか、地方銀行の錆びた緑色の看板の下に出ていた。ここを麓の方面へ左折すれば、天道が自殺した廃商店へ通じる道に出る。
「そんなエピソードがあって石倉は、天道葵と言う名前は実は、彼女の本来の素性を隠す為の偽名なのではないかと、日に日に疑うようになったそうです。天道葵とは全くの偽りの名前であり、その本当の名前は不知火。そして、石倉はその偽名を使う理由について、彼女が言う女の勘からこう考えたそうです。
天道葵は、交際相手からデートドメスティックバイオレンス、通称デートDVの被害を受けているのではないかと」
「デートDV? 何ですか、それ」
わたくしは組んだ腕をほどいた。
「交際相手から暴力被害を受ける事です。デートDVの経験がある女性は、今や五人に一人と言われる時代だそうです。デートDVの形態は、暴力だけはなく、束縛や嫌がらせなど多岐にわたり、追い詰められ被害者は、どうしてか自分を責めるケースが多いらしく、被害が表面化し難い一面もあると言います。また、徐々にエスカレートして行く為に、加害者、被害者ともに、DVの意識を持ち難いとされています」
何となく隣りの羽賀の顔に目を移した。
「内閣府の調査では、実際に警察に相談した人の数は、全体の二%に過ぎなく、一人で思い悩むケースが後を絶たないと、内閣府の行政は注意を呼び掛けています。
天道葵もこう言った被害に遭っていて、交際相手の暴力や嫌がらせから逃れ、天道葵という偽名まで使って、ほとぼりが冷めるまで、このような僻地のペンションで住み込みのバイトを続けているのではいかと。
石倉がそう思うのも無理な話ではなく、彼女自身もデートDVの実体験があったようなのです。石倉がスノーボードの国際大会で活躍していた十代の頃、当時交際していたアメリカ人男性から、過度なデートDVの被害を受けて、体中の痣を抱えながら、思い切って警察に相談したのが仇となって、それを知った相手は逆上し、連日脅迫めいたEメールが届き、待ち伏せなど嫌がらせがエスカレートして、縁もゆかりもない北海道は室蘭へ逃れて、相談したスナックのママの了承を得て、偽名で働かしてもらった経験があるそうなんです」
「そのアメリカ人の男は」
車道の雪が三メートル越えになって来て、窓の景色が全て雪壁となった。
「さすがに時が解決したようで、元交際相手はそれっきりどこかへ姿を消したようでした。とは言っても、精神科の医療機関にも通院していた、彼女の外傷後ストレス障害の回復の具合もあり、全てが解決したのは、なんと五年後の事だったそうです。とんでもない話ですね。
それなものだから石倉は、天道も自分と同じ境遇に陥っているのではないかと、影ながら彼女の身を案じていたらしいんです」
石倉は、翌日の新聞の記事に、天道葵は天道葵として、氏名が記載されていたのを見て、自分の勘が外れたと思ったわけか。
「なるほど、そういったエピソードがあって、四週間前に焼死した天道葵が偽名であり、本名は不知火と言う名である事が分かったんですね。では、その不知火がバイフーだと分かったのは?」
ルームミラーにある石動の目が上がった。
「僕にとっては、宗村さんがなぜその事について知っているか、その方が不思議ですけどね。
まあ良いでしょう。加藤君の直感が当たり、天道の正体が不知火だと分かった以上、僕は不知火という女の身元の洗い出しに、全力で捜査を開始しました。
とは言っても僕には、晦冥会と言う三文字しか頭に浮かびませんでした。天道葵と木原正樹は、晦冥会の暗殺者、バイフーによって殺害された可能性が高い、すると天道こと不知火は晦冥会の幹部だった可能性が高いと言う事です。
そこで僕は、上信越道から関越道の高速道路をすっ飛ばして、府中刑務所の駐車場へ車を乗り捨てると、そこに服役中の元晦冥会の信者と名乗る人物と面会をしたんです。そいつは実に狡猾にできた男で、晦冥会の裏事情を小出しにする代わりに、色々と僕に刑務所での待遇面の変更を要求して来る奴でしてね。まあ多少の苦労はしました。
何でもその男は、昔は週刊誌の記者をやっていて、晦冥会に潜入取材をやっている間に、晦冥会の秘密を嗅ぎ付けた事が、同じグループの信者に密告されて、晦冥会から永久追放された挙句、その潜入取材中の賃金の未払いが基で、編集社と揉め事を起こしては退社、後は老人を相手にペーパー商法を繰り返した所が、またもや共犯者に裏切られて、詐欺事件として裁判を受ける事が初めてではなかった為、累犯で相当な刑期がある男でしたね」
「?」
はて、どこかで聞き覚えのある男のような。
「まあとにかく、その元晦冥会の男の言うには、晦冥会の幹部で不知火と言えば、不知火忍と言う女しかいないらしく、しかもその女の正体は、幹部たちから最も恐れられている存在、晦冥会の暗殺者、バイフーと囁かれていた女なんだそうです。ところがその名前には今も謎が多く、彼女の素顔を見た者はおろか、晦冥会の幹部の名簿にさえ、その名は記載されていないと言う、正に人としての実体を持たない、都市伝説の口裂け女のような存在だったと言うのです」
石動が口を閉ざすと、車内はしんと静まり返った。
「そんな口裂け女のような、正体不明の不知火忍という女が、今向かっているインターネットカフェに潜伏しているという事ですか?」
「そう言う事です。不知火は昨日、スキー場のリフトで江口を暗殺し、その翌日には警察署内に保護されていた高田を暗殺、そして今度は椎名さんのSТGの会員カードの情報を利用して、セキュリティー保護された某企業のサーバーデータをハッキングし、更なる犯行を企てている」
わたくしは頭の後ろで手を組んだ。
「石動さん、一つ大切な事を忘れていませんか?」
「何ですか?」
「天道葵は不知火忍という晦冥会の暗殺者、バイフーだった。これは警察も俺も共通する意見です。現在の所そう考えるのが最も自然です。
しかし、天道葵は四週間前、木原正樹と言う謎の男と焼身自殺をしています」
『バイトの女の遺体は損傷が激しく即死の状態、翌日の新聞にはこの焼身自殺が小さく掲載された』
『葵の遺体はすぐに検死に回されたそうだ。歯科診断結果、服装、身体的特徴、遺留品、彼女の部屋の髪の毛と遺体のDNA鑑定などから、天道葵と断定している』
石動は前方を向いて車の運転をしていた。
「つまり、不知火忍は既にこの世を去っているんです。彼女が心中自殺をした翌日の朝刊に、車内から男女の遺体が見つかったと、そう掲載されているじゃないですか。それが今は、不知火はネットカフェでサイバー攻撃を繰り返していると言うんですか? 今ネットカフェにいるのは、天道葵の亡霊なのですか?」
わたくしはこの質問は、極め付けとなった。石動の雄弁な口調は、悉く沈黙の中へ落ちた。羽賀と加藤は、石動の次の言葉を待って、頻りに目を動かした。しかし石動は、一度閉じた口を中々開こうとはしなかった。
『そうなんです。消防の仲間内では、あの女だけは何とか助かるぞって、自分たちのがんばりが報われると思っていた所を、翌朝の新聞には『車内から男女の遺体が見つかった』だなんて、おかしな記事が書かれていたものだから、タカシは新聞記者の取材ミスだと思って、M新聞社へ電話を入れたらしいです』
大島典子は、消防団長の元彼の不可解な出来事をこう語った。
「天道葵は、四週間前の心中事件で、本当に死亡が確認されているんですか? 本当は」
わたくしの質問に答える代わりに、石動は大きくハンドルを切って、歩道の雪を乗り越えた。フロントガラス一杯に、比較的新しい大型アミューズメント施設が広がった。
「宗村さん、お待たせしました、目的地のネットカフェに到着です。所轄の刑事たちを引っ張り出しての人海戦術ですが、ひょっとしたら、夜までの長丁場になるかも知れません。覚悟して下さいよ」
「石動さん」
石動はシートベルトを外しながら、後部座席を振り返った。
「宗村さん、そんな怖い顔をしないで下さい。全ては不知火忍を逮捕する事です。そうすれば、何事も明らかになります」
思いもよらない名前を聞いて、わたくしは瞬きを繰り返した。
「ご存じですよね?」
「ああ、えーっと、ええ、確か『樹氷』の店員、でしたか」
助手席の加藤がドアガラスに頭を打ち付けた。
「そうです。数年前までチームANに所属していた元プロスノーボーダーで、現在は離縁した元夫の家に住まいながら、ご長男さんの学費を稼ぐ為に、ゲレンデレストラン『樹氷』と、夜は駅前の居酒屋『いろは』で働いている石倉留美。実は彼女、天道葵と一年くらい交流があったそうなんですが。これも、ご存じですよね?」
車内の煙草の臭いが気になり始め、石動はファンスイッチへと手を伸ばした。外気導入へ切り替わると、車内に涼しい風が回り始めた。
「ええ、まあ、美咲がそのような事を」
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加藤のわざとらしい溜め息が聞こえた。なるほど、この話は加藤の手柄というわけか。
「加藤君はその後も石倉の元へ足繁く訪ねて行って、夜には彼女が勤める居酒屋の暖簾をくぐって、天道葵について知っている事を聞きたいと、相手が呆れ果てて降参するまで、一人大座敷に胡坐をかいて待っていたそうです。刑事の鏡ですねまったく。そして石倉は、居酒屋のバイトが終わると外で待たせていた加藤君を連れて、知り合いが経営するスナックバーへ顔を出した、そこでようやく天道葵に関する興味深いエピソードが聞けたんですよ」
「興味深いエピソード?」
わたくしは加藤の後頭部を見た。
「石倉はどうも、天道葵の素性について、何か思う所があったようです。それを彼女、女の勘と表現していたそうです」
『葵ちゃんは黙っていたから、あたしも特別聞くこともなかったけど、何となくそうなんじゃないかなあって思ってた』
『でも結局、あたしの勘は外れていたんだよね。新聞の記事を読んでそう思った』
美咲との聞き込みの際に、石倉はそんな事を言っていた。
「酔ってカラオケを熱唱した後、気持ち良く水割りを飲み干してから、彼女は遠い目でこう話したそうです。
石倉が天道葵の素性について怪しむ切っ掛けとなったのは、ヤマモミジの紅葉が高山を染め抜く季節の事。二十代の若者のくせに、いつもストレッチデニムとパッカブルコートとメンズライクで地味な天道を嘆いて、石倉が彼女の印象を明るく変える為、服選びの指南をしようと、休みを合わせてN駅前の百貨店へ買い物に出かけた。石倉御用達の大人の女性にフォーカスした辛口モダンも納得する上品な洋服屋で、アイテムの乏しい天道には敷居が高そうに思えたが、元々ルックスが良かった天道葵を一目見て、始めは談笑していた店長も、よくよく真剣になって来て、忙しく店内を歩き回ると、仕立てが良く型崩れのしない、大人をトーンアップして見せるボアコートを、天道の肩に掛けて彼女を鏡の前に立たせた。天道もまんざらでもない表情を見せて、セール期間中のお得な値札を見ていたが、そんな時、いつから店内にいたものか、東京からの観光旅行っぽい、二人組みの女性が近づいて来て、天道の肩をトントンと指で叩いたかと思うと、『不知火さん? ああ、やっぱり。不知火さんじゃない』と声を掛けて来た」
わたくしはシートに背中を預けて、深く腕を組んだ。
「それを聞いた天道は、服選びの手を休めて、いつもよりも瞳を大きくしたまま、相手を振り返ろうともしなかった。それでも天道の顔を覗き込もうとする女性たちに、彼女は一言『人違いです』と、苦言としか言いようのない返事をして、別の売り場へと移動して行った。石倉は腰に手を当てて、それらの一部始終を見ていた。声を掛けて来た女性たちは、口に手を当てて、お互いひそひそと小声を交わした後、そのまま店を後にして行った。
値札の付いた洋服を納めた百貨店の紙袋を窓辺に置いて、展望レストランの一角で早めの夕食に向かっていると、石倉はずっと気になっていたその事について天道へ尋ねてみた。
『本当はあの子たち、知り合いだったんじゃないの?』
すると天道は今までの楽しそうな表情を内に隠して、他人の空似だと言ったのを最後に、ぴたりと口を閉ざした。それを石倉は、フォークでスパゲッティの麺を絡めながら、いつまでも眺めていた。
天道の事を不知火と呼んだ女性は、間違いなく天道の顔を近くで確認してから『やっぱり』と言っていた。そして数年振りの再会を喜んでいるようにも見えた」
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「そんなエピソードがあって石倉は、天道葵と言う名前は実は、彼女の本来の素性を隠す為の偽名なのではないかと、日に日に疑うようになったそうです。天道葵とは全くの偽りの名前であり、その本当の名前は不知火。そして、石倉はその偽名を使う理由について、彼女が言う女の勘からこう考えたそうです。
天道葵は、交際相手からデートドメスティックバイオレンス、通称デートDVの被害を受けているのではないかと」
「デートDV? 何ですか、それ」
わたくしは組んだ腕をほどいた。
「交際相手から暴力被害を受ける事です。デートDVの経験がある女性は、今や五人に一人と言われる時代だそうです。デートDVの形態は、暴力だけはなく、束縛や嫌がらせなど多岐にわたり、追い詰められ被害者は、どうしてか自分を責めるケースが多いらしく、被害が表面化し難い一面もあると言います。また、徐々にエスカレートして行く為に、加害者、被害者ともに、DVの意識を持ち難いとされています」
何となく隣りの羽賀の顔に目を移した。
「内閣府の調査では、実際に警察に相談した人の数は、全体の二%に過ぎなく、一人で思い悩むケースが後を絶たないと、内閣府の行政は注意を呼び掛けています。
天道葵もこう言った被害に遭っていて、交際相手の暴力や嫌がらせから逃れ、天道葵という偽名まで使って、ほとぼりが冷めるまで、このような僻地のペンションで住み込みのバイトを続けているのではいかと。
石倉がそう思うのも無理な話ではなく、彼女自身もデートDVの実体験があったようなのです。石倉がスノーボードの国際大会で活躍していた十代の頃、当時交際していたアメリカ人男性から、過度なデートDVの被害を受けて、体中の痣を抱えながら、思い切って警察に相談したのが仇となって、それを知った相手は逆上し、連日脅迫めいたEメールが届き、待ち伏せなど嫌がらせがエスカレートして、縁もゆかりもない北海道は室蘭へ逃れて、相談したスナックのママの了承を得て、偽名で働かしてもらった経験があるそうなんです」
「そのアメリカ人の男は」
車道の雪が三メートル越えになって来て、窓の景色が全て雪壁となった。
「さすがに時が解決したようで、元交際相手はそれっきりどこかへ姿を消したようでした。とは言っても、精神科の医療機関にも通院していた、彼女の外傷後ストレス障害の回復の具合もあり、全てが解決したのは、なんと五年後の事だったそうです。とんでもない話ですね。
それなものだから石倉は、天道も自分と同じ境遇に陥っているのではないかと、影ながら彼女の身を案じていたらしいんです」
石倉は、翌日の新聞の記事に、天道葵は天道葵として、氏名が記載されていたのを見て、自分の勘が外れたと思ったわけか。
「なるほど、そういったエピソードがあって、四週間前に焼死した天道葵が偽名であり、本名は不知火と言う名である事が分かったんですね。では、その不知火がバイフーだと分かったのは?」
ルームミラーにある石動の目が上がった。
「僕にとっては、宗村さんがなぜその事について知っているか、その方が不思議ですけどね。
まあ良いでしょう。加藤君の直感が当たり、天道の正体が不知火だと分かった以上、僕は不知火という女の身元の洗い出しに、全力で捜査を開始しました。
とは言っても僕には、晦冥会と言う三文字しか頭に浮かびませんでした。天道葵と木原正樹は、晦冥会の暗殺者、バイフーによって殺害された可能性が高い、すると天道こと不知火は晦冥会の幹部だった可能性が高いと言う事です。
そこで僕は、上信越道から関越道の高速道路をすっ飛ばして、府中刑務所の駐車場へ車を乗り捨てると、そこに服役中の元晦冥会の信者と名乗る人物と面会をしたんです。そいつは実に狡猾にできた男で、晦冥会の裏事情を小出しにする代わりに、色々と僕に刑務所での待遇面の変更を要求して来る奴でしてね。まあ多少の苦労はしました。
何でもその男は、昔は週刊誌の記者をやっていて、晦冥会に潜入取材をやっている間に、晦冥会の秘密を嗅ぎ付けた事が、同じグループの信者に密告されて、晦冥会から永久追放された挙句、その潜入取材中の賃金の未払いが基で、編集社と揉め事を起こしては退社、後は老人を相手にペーパー商法を繰り返した所が、またもや共犯者に裏切られて、詐欺事件として裁判を受ける事が初めてではなかった為、累犯で相当な刑期がある男でしたね」
「?」
はて、どこかで聞き覚えのある男のような。
「まあとにかく、その元晦冥会の男の言うには、晦冥会の幹部で不知火と言えば、不知火忍と言う女しかいないらしく、しかもその女の正体は、幹部たちから最も恐れられている存在、晦冥会の暗殺者、バイフーと囁かれていた女なんだそうです。ところがその名前には今も謎が多く、彼女の素顔を見た者はおろか、晦冥会の幹部の名簿にさえ、その名は記載されていないと言う、正に人としての実体を持たない、都市伝説の口裂け女のような存在だったと言うのです」
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「そう言う事です。不知火は昨日、スキー場のリフトで江口を暗殺し、その翌日には警察署内に保護されていた高田を暗殺、そして今度は椎名さんのSТGの会員カードの情報を利用して、セキュリティー保護された某企業のサーバーデータをハッキングし、更なる犯行を企てている」
わたくしは頭の後ろで手を組んだ。
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「何ですか?」
「天道葵は不知火忍という晦冥会の暗殺者、バイフーだった。これは警察も俺も共通する意見です。現在の所そう考えるのが最も自然です。
しかし、天道葵は四週間前、木原正樹と言う謎の男と焼身自殺をしています」
『バイトの女の遺体は損傷が激しく即死の状態、翌日の新聞にはこの焼身自殺が小さく掲載された』
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『そうなんです。消防の仲間内では、あの女だけは何とか助かるぞって、自分たちのがんばりが報われると思っていた所を、翌朝の新聞には『車内から男女の遺体が見つかった』だなんて、おかしな記事が書かれていたものだから、タカシは新聞記者の取材ミスだと思って、M新聞社へ電話を入れたらしいです』
大島典子は、消防団長の元彼の不可解な出来事をこう語った。
「天道葵は、四週間前の心中事件で、本当に死亡が確認されているんですか? 本当は」
わたくしの質問に答える代わりに、石動は大きくハンドルを切って、歩道の雪を乗り越えた。フロントガラス一杯に、比較的新しい大型アミューズメント施設が広がった。
「宗村さん、お待たせしました、目的地のネットカフェに到着です。所轄の刑事たちを引っ張り出しての人海戦術ですが、ひょっとしたら、夜までの長丁場になるかも知れません。覚悟して下さいよ」
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