プルートーの胤裔

ゆさひろみ

文字の大きさ
79 / 131

決壊

しおりを挟む
 ネットカフェの個室から、加藤が出て来た。そして中へ向かって、深々とお辞儀を見せた。
 これで一応、有料でインターネットに接続できる、通称ネットカフェと呼ばれる店舗の、全利用客の身元が判明した。そうした所で別段、二〇余名ある彼らの中から、本件の容疑者と思しき人物は一人も浮上しなかった。〝容疑者はネットカフェにいる〟という、捜査本部の見立ては、ここに来て大きく的を外した形となった。
「これは一体、どうした事でしょう」
 石動は、アシンメトリーにした前髪に、そっと手を触れた。
「このネットカフェの回線から、不正なアクセスがくり返されているのは、間違いありません。そしてそれは、今もなお継続している。ところがそれを実行している違反者が、この店内には存在しないのであれば、犯人は、一体どうやって不正を行っているのでしょうか」
 刑事たちの輪に加わって、店舗の見取り図を指で弾くわたくし。
「専門機関に依頼して、詳しい回線の情報を調べてみる、というのはどうでしょうか? ネット回線は無数にあるにしても、固有IPアドレスというものが、各部屋に割り当てられていると思うのですが」
 わたくしの顔の前に、さっと石動は手を上げて、
「我々は今回、某企業のサーバーデータが、何者かによってハッキング被害を受けているとの情報を入手し、その発信元であるこのネットカフェを完全に包囲しました。そしてこの店の中に、その何者かが袋のネズミとなった事から、我われは、迅速かつ、綿密に、一部屋一部屋しらみ潰しに調べました」
 たっぷりと間を置いて、それから少し声のトーンを下げて、
「しかしその結果が、このような空振りに終わっては、次の一手、いま宗村さんが言われたような、犯行に使用されたIPアドレスを特定する必要があります。おっとご安心ください。問題のIPアドレスは、すでにこちらの羽賀さんが、サイバー犯罪対策課に問い合わせています」
 羽賀は、黒のパンツスーツのポケットから、素早くスマートフォンを取り出した。
「石動警部補、噂をすればです。さっそく、不正アクセスが行われたというIPアドレスが送られてきました」
 タッチスクリーンを操作して、ディスプレイを石動へ向ける、羽賀。そこで彼の顔が曇る。
「残念ながら、僕にはこの数字の意味が分かりません。しかしこの店の技術スタッフに、この数字を見せれば、きっと犯行に使われている回線が特定できるはずです。加藤君、ネット回線の照合が取れるまで、利用客を中に待機させておいて下さい」
 神妙な面持ちで、頷く加藤。それを確認して、石動と羽賀、二人の刑事は受付の方へと走った。
「容疑者がおらんかったんやから、今さらハッキングした部屋が分かった所で、何の意味があんねん」
 羽田は、しんねりと頭のタオルを巻き直した。そんな彼を押し退けて、わたくしは刑事に迫った。
「ひょっとしたら、利用客の意志とは無関係に、企業のサーバーへ不正アクセスが行われている、という事は考えられないでしょうか? 我々が探している部屋のパソコンは、トロイの木馬か何かで、コンピューターウイルスに感染していて、定期的にハッキングが仕掛けられているとか」
「コンピューターウイルス?」
 ずらりと並んだ、ネットカフェのドア、その一つ一つに目を光らせながら、加藤はふり返った。
「そうです。そもそも、凄腕の暗殺者〝バイフー〟ともあろう者が、一般的な商業施設に長く滞在して、頻繁に不正アクセスを繰り返すなんて、いかにも警察の目を引いているようではありませんか? なんたって、犯罪のやり方が大胆です。軽率です。頭の良い彼女にしては、あまりに不自然な行動です」
 わたくしは、ぴんと人差し指を立てて、一つ一つ刑事たちの顔を見て回った。何だか美咲の癖が移ったようだ。
「なるほど、言われてみれば、確かにそうですね」
 加藤は、スポーツマンらしい短髪の、旋毛の辺りを指で掻いた。その内に、カーペットに靴音を立てて石動たちが戻って来た。
「みなさん、逆探知できた部屋の番号が判明しました。不正なアクセスが繰り返されている、その部屋の番号は、27号室です!」
 メモを高く掲げて、石動は部屋番号をみんなに伝えた。別ルートの部屋を当たった刑事の二人が、同時に顔を合わせる。
「27号室? 確かその部屋のドアには、『故障中』と張り紙が貼ってあったかと」
「そこだ! 急げ!」
 石動は大声を張り上げた。それが合図となって、たくさんの靴音が廊下に響き渡った。さらに石動は、遠くの刑事たちに何かの合図を送っている。加藤と所轄の刑事、彼らは肩と肩をぶつけ合い、我先にと廊下の先を曲がった。それを追う形で、わたくしと羽田も走った。
 羽田は、わたくしと並んで、遠くの臭いを嗅ぐように、
「なあ宗村さん、何か焦げ臭いんとちゃいますか?」
 わたくしは走りながら、同じように鼻の穴を動かした。
「確かに焦げくさい。しかも、だんだん臭いが強くなる」
 L字の廊下に突き当たって、壁を蹴るように右へ曲がると、その先で刑事たちが集結していた。そして、27号室と思われる客室のドアが、たった今開かれようとしていた。
「なんや! やっぱ火事やないか!」
 羽田の叫んだ通り、ハッキングが行われた27号室から、大量の煙が吐き出された。内巻きにうねったその黒煙は、廊下の天井を伝って、店舗全域に拡散、当然そこにあるだろう火災報知器を作動させて、現場は一時騒然となった。刑事たちはどよめいて、散り散りになって、消火器を手に戻って来た。
「中に人が倒れている!」
 ハンカチを口に当てた加藤、低く腰を屈め、床と煙の狭い隙間をのぞき込んで。
「加藤君、安全が最優先だ。無茶はするな」
 同じようにハンカチを口に当てた石動が、彼の肩に手を置いた。
「大丈夫です! 燃えているのはせいぜい椅子とパソコン、それもまだ、火の手は天井へ達していません」
 そう言って加藤、クモのように床へつくばって、煙の下へともぐり込んで行った。
「加藤君!」
 無謀な部下を引き戻そうと、石動が中腰になったその時、室内から巨大なうちわで扇いだように、煙が出て来た。
「石動さん!」
 羽賀は飛び出して、石動の体に抱き着いた。その勢いで、二人とも床へ転がった。危機一髪、石動は煙に巻かれて苦しむ所だった。
「ホンマ危のうて、近づけんなあ」
 羽田の横顔を見た所で、そこで、刑事たちのどよめきが聞こえた。全身に煙をまとった加藤が、その勇姿を我々の目の前に現したのだ。彼の腕の中には、だらりと左腕を垂らした、若いスーツ姿の女性が、いかにも意識不明といった様子で抱かれていた。
 消火器のノズルを構えた刑事たちは、道を空け、彼を見送った後、一斉に消火剤を噴射。行き場を失った黒煙と白煙の入り交じりは、もがき苦しむ動きを見せて、さらに廊下の天井に広がった。
 救出した女性の体を廊下に寝かせる加藤。
「他には!」
 背後から石動が叫ぶ。
「彼女一人でした」
 音もなく、カーペットにひざを突く羽賀、そっと女性の左手を取って、脈を測る。すぐに止めて、口もとに耳を近づける。心の中で数を数えるように、黙って、今度は指先で女のまつ毛にふれる。我われはそれらを、固唾を飲んで見守った。終わって、ゆっくりと羽賀が上体を起こすと、こちらにあごの裏を見せて、背後にいる石動へ首を振って見せた。
「状況から考えて、自殺と思われます」
 死亡した女の右手には、筒状のプラスチックの容器が握られていた。キャップが開き、中から白い錠剤がこぼれていた。紫色に変色した女の唇から、白のワイシャツの襟の辺りにかけて、嘔吐による黄色い染みが広がっていた。
 わたくしは「うっ」といって喉をつかんだ。そして、毒薬かどうか錠剤を確かめる、その刑事たちの背後で、人知れずわたくしはうずくまった。酸鼻を極める毒殺の死体を前に、体が拒絶反応を起こしたのだ。胃の内容物の逆流が始まった。こちらの異変に気が付いた羽田が、ひざを使って移動して来た。
「大丈夫ですか? 座って、ちょっと楽にした方が」
 大きな手の平で、わたくしの背中をさする。
 その時「あれ?」という、調子の外れた羽賀の声がした。
「待って下さい、この女性、見覚えがあります」
 石動と加藤が同時に顔を上げた。
「そうだわ、この人、配給センターの人。今朝、署に現れた女性によく似ています」
「何だって? それじゃこのホトケさんが、俺たちが追い求めていた〝バイフー〟なのか?」
 加藤は、羽賀の両肩を掴んで、激しく揺すった。
「バイフーかどうかまでは分かりません。だけど、容疑者の一人には違いないと思います」
 石動は、ゆっくりと体の向きを変えて、わたくしを振り返った。
「宗村さん、ついにこの時がやって来ました」
 この場にいる誰もが、わたくしの方を注目する。
「あなたが昨日目撃したという、晦冥会の暗殺者〝バイフー〟の顔の記憶、その出番です。
 たった今、不正なアクセスが繰り返された、犯行現場の部屋から、自殺したと思われる女性の遺体が発見されました。しかもこの遺体、業者を装って署内に侵入した、バイフーの可能性があるそうです。どうですか、宗村さん、昨日の出来事をよく思い出して下さい。あなたはこの女性に、見覚えがありますか?」
 子供のようにひざを抱えたわたくし、こうべを垂れ、カーペットの床を見つめる。服毒自殺をしたと思われるこの女性、半開きのその目は切れ長の一重まぶた、しかも面長な顔立ち。石動の質問の答えは、すでに用意してあった。
「どうですか宗村さん、この女性は」
「見覚えがありません」
 石動は言葉を飲んだ。
「この人は、バイフーではありません」
 三秒間の沈黙。遠くの騒ぎがよく聞こえた。石動は、わたくしの肩に手を置いて、深いため息を落とした。
「という事です皆さん、我々は今回、まんまとホシを取り逃がしました。不正アクセスが繰り返された部屋の特定が、一足遅かったようです」
「石動警部補!」
 その時、靴が脱げそうなほど、いや、脱げて引き返して慌てて戻って来る太った刑事が見えた。
「大変です! 店舗のあちこちから火の手が上がっています! 放火です! いま、二階のカラオケコーナーからも、火災検知器の反応がありました!」
「何だって⁉」
 加藤は太った刑事につかみ掛かった。
「もう手の施しようがありません、とにかく避難して下さい! バイフー探しは後回しです!」
 加藤はわなわなと拳を上げて、壁を殴った。
「あの野郎、やりやがったな!」
「まずいですよ加藤君! 大型商業施設での火災は、集団ヒステリーに発展します! 全ての客室を回って、利用客を避難させて下さい! 手透きの人は、誘導員として、非常口に立って下さい! 僕は放火された火元を確認して来ます。奴はまだこの施設のどこかに」
 手当たり次第に腕を取って、石動は指示を与えた。その腕に、羽賀が飛び付いた。
「石動さん! 今は捜査に協力して頂いた羽田さんや宗村さんが同行しています。私たちは避難を優先するべきです」
 はあはあと息を切らして、石動はその手をにらみ付けた。晦冥会の暗殺者の身柄を拘束するという、大規模の極秘捜査が、この通り失敗に終わって、彼の動揺は想像以上だった。昨日今日会った我々よりも、直属の部下である羽賀の方が、それがよく分かっていた。石動は、一つ二つ呼吸を整え、だんだん顔色が正常に戻って来た。
「ね、石動さん。また、一からがんばりましょう」
 バタバタと人が行き交う中、石動は羽賀の手首を持って、ゆっくりと腕から放した。
「あと一歩という所を、止むを得ませんね」
 我われは、発見した遺体をその場に残し、大規模な避難の途に就いた。ネットカフェは、複雑な構造ではない。廊下は回廊のようになっているが、じっさい迷う事はない。そうは言って、わずか一メートル先が煙の中では、こんな最悪な視界の中では、話は変わって来る。前を避難する人の背中だけが、頼りとなって、一歩一歩、慎重に歩かざるを得ない。煙が薄らぐと、一人、また一人と、不安な顔をした利用客が出現し、何があったのか尋ねて来る。わたくしは、右腕の袖で鼻と口を押え、長蛇の列に加わった。
「?」
 その時だった。ふと、背後から誰かに呼ばれた気がして、わたくしは火元をふり返った。黒煙の濃淡がいそがしく動いている、そんな恐ろしい火事場にあって、一人だけ、平然と歩く、場違いな女を発見した。わたくしの目が大きくなった。命からがら避難する我われの中で、その女の影は、混乱の波に逆らって、反対の方向へと消えて行く。それが、決死の災害現場の風景から、浮いて見えた。
「まずいですね」
 次々と合流して来る、避難者の数の多さに、石動は唸った。
「これだけの人数だと、果たして消防隊は避難者の数を正確に把握できるかどうか。この様子だと、煙に巻かれて逃げ遅れた客が、あちこちに残っているはずです」
 あやしい女の存在に、いよいよ気を取られたわたくしは、あっと言う間に避難の列から離れた。そして、わたくしの避難すべき足は、避難者のそれとは違う方向へと動き出した。
 君は一体、何者なのだ。君は一体、何の目的があって、こんな残忍な犯行を繰り返すのだ。これだけ多くの人命を奪っておきながら、この先君はどこへ行こうというのだ。
「宗村さん? 宗村さん?」
 わたくしを探す羽賀の声が、思ったより遠くに聞こえた。返答はしなかった。わたくしはすでに、晦冥会の暗殺者〝バイフー〟を追って、燃えさかる復讐のインフェルノへと走り出していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく… なお、スピンオフもございます。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

処理中です...