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第一章 本物の婚約
第三話 『記憶の花は、偽りの婚姻に咲く』
しおりを挟む王都に足を踏み入れた瞬間、世界が一変したように思えた。
高くそびえる白亜の城壁と、陽光を跳ね返すように輝く宮殿。色とりどりの花々に囲まれた庭園は、まるで夢の中の風景で。そのすべてが、咲かぬ花しか持たない俺には、あまりにも眩しかった。
けれど、それ以上に目を奪われたのはーーあの人だった。
リアム・アッシュフォード。王族にして、『血塗れの花嫁喰らい』と呼ばれる男。その人が、俺を迎えた。
その瞳に、俺はどう映っているのだろう。歓迎の言葉もなければ、ただ一言、『ついてこい』と言われただけで。それなのに、その声は、いつまでも耳に残って、胸を離れなかった。
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案内された部屋は、広く、清潔で、美しくて。それがどれだけ花嫁のために整えられたものだとしても、俺の胸は晴れなかった。
だって、俺の花は咲かないから。こんな場所に、相応しくない。
「……気に入ったかな?」
低く落ち着いた声が、背後から届く。振り返ると、リアム殿下が部屋の中央に立っていた。最初に見たときよりも、わずかに距離が近くて、びくりと身構える。
「あ……はい。もったいないくらいに、綺麗です」
そう答えた俺を、リアム殿下が静かに見つめた。その眼差しは、まるで心の奥の奥まで見透かすようで、思わず、息をのむ。
(冷たい……はずなのに。どうして、心がざわつくのだろう)
長い沈黙が降りる。けれど彼は、その場から一歩も動かなくて。その気まずさに耐えきれず、一歩だけ足を踏み出すと、リアム殿下が、同じく一歩、俺に近づいた。
不意に、距離が縮まる。呼吸も、思考も、一瞬止まった。視線の先には、触れられそうなほど近いリアム殿下の顔があって。頬が、じんわりと熱くなる。
「……っ、な、なんでしょうか……?」
「いや。顔が、よく見えなかったから」
伸ばされた手が、俺の頭にかかる嫁入りのベールを捲る。その指先に触れられた瞬間、背筋に小さな震えが走った。
顔が露わになると、リアム殿下の瞳が、大きく見開かれ、ほんの一瞬、息を呑んだように固まった。その反応に、胸がざわつく。
「……なぜ君がここに……」
ぽつりと漏れた声に、心臓が跳ねる。その言葉が、自分に向けられたものだと、すぐに理解した。
(……バレた? 俺が花付きのいい、弟のノエルじゃないって……)
動揺を誤魔化すように視線を落とす。もう一度顔を上げたときには、リアム殿下の表情はすでに平静を取り戻していた。
「名は?」
「……え?」
「ブランシェ家から来たのは分かっている。だけど、名を訊いていなかった」
「あ……ルイス。ルイス・ブランシェです」
「……ルイス・ブランシェ……」
彼は目を伏せると、俺の名を小さく繰り返した。リアム殿下の声は、息を潜めたように静かで。そして、どこか慈しむような声音だった。
「……ルイス」
言葉も出ない俺の前で、リアム殿下がゆっくりと顔を寄せる。唇がすぐそばで動き、低く甘い囁きが、耳たぶを撫でた。
「今日からお前は、私のものだ」
(……私の、もの?)
その声は、優しく、深く、そしてひどくいやらしくて。言葉の意味よりも、声の響きに体が熱くなる。恥ずかしさで、顔から耳の先まで一気に赤く染まったのが分かった。
そんな俺を見て、リアム殿下は何も言わず、そっと額に唇を落として、窓辺へ歩いていった。
(……なんでキス? どうせ枯れ生みの俺なんて、すぐ捨てるくせに……)
振り返ることも、言葉を継ぐこともなく。その背中が、部屋の中でやけに遠く感じた。それでも、さっきの言葉だけは、頭に残った。
*
ーー顔を見た瞬間、胸がわずかに震えた。
あの舞踏会の日、誰にも気づかれず、噴水のそばに隠れるようにして倒れかけていた幼い私に、ひとりの少年がそっと差し出してきた、小さな花。
青く咲き、すぐに色が抜けて萎れたその白い花は、かすかに透き通っていて。それを手にしていた少年の、淡い紫の瞳だけが、ずっと記憶から消えなかった。
『……まさか、君はあの時のーー』
喉まで出かけた言葉を、理性が飲み込ませた。今ここで言うべきではない。でも、確信だけは強く胸に灯った。
これまで何人もの花生みを迎えては、花を摘み、花を食んできた。でも、そのたびに思い出すのは、君のことばかりで。誰ひとり、心から愛することなんて、できなかった。
ーーけれど今、その『君』が、目の前に、花嫁として立っている。
どれだけ多くの花生みが私の前から消えていったとしても、君だけは、絶対に逃がしはしない。
君は、今日から私だけのものだから。
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