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第一章 本物の婚約
第十八話 『沈黙の中で、咲いた傷』
しおりを挟む「……お……お久し……ぶり……です……お母様、ノエル……」
礼服の裾をぎゅっと握りしめ、頭を下げる。真紅のドレスを纏った母と、整った金髪を揺らすノエルがいて。ふたりは俺が家を出たあの日と、何ひとつ変わっていなかった。
ノエルの、自信に満ちた笑みさえも、ブランシェ家で見た、『弟の顔』そのままだった。
「……今日は、お父様も……?」
「そのへんで挨拶でもしてるんじゃない? まあ、あんたには関係ないでしょ」
母が、扇子を開いたまま、まるで扇ぐことさえ煩わしいとでも訴えるように、冷ややかに言い放つ。
その声音は、感情を凍らせる氷みたいで。否定も拒絶も、語る価値すら与えなくて、喉が、ひたりと凍りつく。ブランシェ家にいた頃の日々が、乾いた埃のように胸に蘇った。
「……そう、ですね……」
ただ、肯定するしかなかった。反論を許さない空気が、当たり前のようにそこにある。
「それよりもさーーあんた、もう殿下の婚約者やめていいから」
「……っ?!」
あまりにも唐突に放られた言葉の冷たさに、胸を締め付けられる。混乱する俺に、返す暇さえ与えず、ノエルが笑いながら割り込んできた。
「そんなに驚くこと? だって元々、僕の縁談だったんだよ? 正しい婚約者に戻すだけ。ねえ、お母様?」
母は、ちらりともノエルを見ず、表情ひとつ変えずに答えた。
「最初から、あなたに期待はしていなかったけれど……少なくとも、ノエルの方が『見られる』ものね」
「……でも、ノエルはアルヴァ公爵様と……!」
かろうじて声を絞り出すと、ノエルがあからさまに鼻で笑った。
「あっ、知ってたんだ? じゃあ、都合いいね。だってさ……」
その口調には、明らかな嘲りと見下し、そして汚れ物でも扱うような軽蔑が滲んでいた。
「また僕の身代わり続けられるもんね……得意でしょ、そういうの」
ーー“そういうの”。
指が、ふるふると震える。否定したくても、声が出なかった。母は扇子をひと振りし、まるで埃でも払うように、つまらなそうに言い捨てた。
「そもそも、ルイスには『咲く』才能がないでしょう? ならば、王に嫁ぐ価値などないわ。王家の名を汚す前に、さっさと下がりなさい」
「大丈夫よ、ルイス。殿下の力があれば、婚約者の変更など簡単にできるわ。……だから、帰ってきなさい。ブランシェ家に。今度こそ、母が『正しく』可愛がってあげる」
また、あの家に……?
息を殺し、心を隠して生きる日々。言葉ひとつで叩かれ、笑顔ひとつで睨まれ、耐えることしか許されなかった、あの檻の中へ……?
(……嫌だ)
リアム殿下のもとで初めて知った。誰かの隣で、安心して微笑むということ。守られ、信じ、支え合うということを。
たとえこれが『身代わり』の婚約だとしても。それでも、自分は殿下の力になりたいと、心からそう思っていたのに。
「ルイス。家に帰ってくるわよね?」
「もちろん。僕のために、婚約破棄してくれるよね?」
重ねられる言葉は、絹のように滑らかで、鋼のように重かった。返答を探す前に、喉が締め付けられていく。
ーーそのときだった。背後に、あたたかな気配が触れた。
「……ひとりにして、すまなかった。大丈夫か?」
「……リアム殿下……」
肩越しに届く、微かな甘い香りに、胸が揺れる。それだけで、ずっと泣きそうだった心が、じんわりと溶けた。
「まあ……ここにいらしたのですね、殿下」
母は即座に態度を切り替え、つくり笑いを浮かべて深く頭を下げた。ノエルが金髪を揺らしながら、花の咲く手の甲を見せつけるように差し出す。
「ああ、これはこれは。お母様に……ルイスの弟君ですか」
「はい。ノエルと申します。……お初にお目にかかります、殿下。兄がいつも大変お世話になっております」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮む。『兄』としての顔も、『花嫁』としての誇りも剥がされていくような、薄ら寒さがあった。
「まさか、『血塗れの花嫁喰らい』様にお会いできる日が来るとは。……本当に光栄です」
明らかな皮肉を織り交ぜたその一言に、リアム殿下は眉ひとつ動かさず、ただ静かに見つめ返した。
「……それで。ルイスと、何の話をしていたんだ?」
「お兄様が殿下をずっと騙していたことを、お詫びしようと思いまして」
「……えっ?」
ノエルを見ると、彼は『芝居がかった』仕草で涙を浮かべていた。
「本来の婚約者は僕なんです。兄に、無理やりその席を奪われたんです。……殿下、ご存知ないですか? 兄は……花が咲かせられない、『枯れ生み』なんですよ」
「ノエル、それは言うなと……っ!」
母が小声で制止するが、ノエルは止まらなくて。まるで、それを言う機会をずっと狙っていたかのようだった。
「兄に騙されている殿下が心配で……だから、僕が嘘を正そうと話していたんです」
リアム殿下は黙ったまま、何も言わなかった。
「そして、兄は『家に戻る』と、さきほど確かに言いました」
「そ、そんなこと……!」
言いかけた言葉を、母の睨みが封じ込める。その一瞥にすら、体が凍る。
「殿下さえ望まれるなら、僕が『正式な花嫁』としてお仕えします。花生みとしても、家柄としても……。ーー『枯れた兄』より、僕の方がふさわしいでしょう?」
刃ような言葉が、胸を鋭く抉る。気づけば、手の甲から、白い花弁がひとひら、風に舞って落ちていた。
「ね、殿下?」
ノエルがすっと殿下に身を寄せる。その姿は、まるで最初から『正しい席』にいたかのように美しく映った。
(……やっぱり、俺は身代わりだったんだ)
殿下が、否定してくれない。ただ沈黙するその姿が、何よりも痛かった。
(……もう、ここにいられない)
「……失礼、します……っ!」
息が詰まるような、掠れた声しか出せなくて。誰かの手を振り払うように、大広間を後にする。背後から漂う、咲き乱れる花の香りが、遠ざかっていった。
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