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第二章 セレスティアの伝承
第四十五話 『君が育てた花を、私は否定しない』
しおりを挟む宿は、二階の角部屋だった。
広くはないけれど、木の香りの残るベッドと、暖炉のある落ち着いた空間で。壁には小さなランプが灯され、窓の外はまだ雨音が残っていた。
ベッドがふたつ、きちんと並んでいるのが目に入る。
「……あの。ベッド、ふたつあるんですね」
何気なく口にしたつもりだったのに、自分の言葉に気づいた瞬間、頬がじわりと熱くなる。隣にいたリアム殿下が、すっと顔を近づけてきた。優しい口づけが、頬に触れる。
「……どちらを使うかは、君が決めていいよ」
「べ、べべべつにっ……い、一緒に寝ようなんて、言ってませんからっ!」
「ふふ。なんだ、一緒に寝たかったのか?」
「ち、違いますっっ!」
かあっと頬が火照り、それを隠すように顔を背けた。背中を、ふわりと大きな腕が包む。後ろから抱き寄せられて、身体ごとあたたかさにくるまれた。
「……湯と食事は手配してある。雨で冷えただろう。あとでゆっくり入るといい」
「……あ、ありがとうございます」
耳元に落ちる声も、息遣いも、全部が近くて。触れられている場所から、心までじんわり温まっていく。そのとき、コン、コンとドアがノックされた。
「失礼します」
エリオットが、給仕用の小さなワゴンを押して部屋に入ってきた。
「食事の準備が整いました。あ……お取り込み中でしたか?」
「ち、ちがっ……そんなのじゃっ……!」
「お取り込み中だ」
「ちがいますってばぁっ……!」
ますます赤くなった顔を両手で覆いながら、ちらりとエリオットを見ると、彼は変わらぬ笑みを浮かべたまま、食事の支度を進めていた。
「食事はあとにしますか?」
「し、しませんっ! ちゃんと食べますっ!」
「はい。ではこちらに」
小さなテーブルに、質素ながらも心のこもった料理が並んでいく。リアム殿下がすっと椅子を引き、並んで席に着いた。
「いただきます」
少しだけ緊張しながら口にした料理は、ほっとするような味で。さっきまで熱かった頬も、少しずつ落ち着いてくる。
「……ベッド、どっちにする? ルイス」
不意にクスリと呟いた殿下の声に、また顔が真っ赤に染まった。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
*
湯上がりの火照りを冷ますように、ルイスは薄く開けた窓辺に立っていた。雨は静かに降り続き、部屋の中では暖炉の火だけが揺れ、影とあたたかさを残す。
そっと背後から近づき、タオルを肩に掛けた。
「……濡れている。ちゃんと拭かないと」
「あ……殿下……」
ふわりと湯上がりの香りが鼻先を掠める。ルイスが振り返るよりも先に、髪に手を伸ばす。乱れた髪をやさしく包むように、タオルで撫でる。
「……ありがとう、ございます……」
濡れた髪の感触も、ルイスの掠れた声も、すぐそばで全部感じる。どこか浮かないその表情に、そっと尋ねた。
「……エリオットを呼ぼうか?」
「……いえ。彼も疲れているでしょうし、自分でやります」
少しだけ笑って見せたルイスの横顔に、拭いきれない陰が落ちていて。胸が締め付けられる。けれど、胸元から伝わってくる、湯気のような体温に鼓動が早くなった。
「ルイス」
名を呼ぶと、ルイスが顔を上げた。淡い紫の瞳が、まっすぐにこちらを見つめる。
「……キス、しても?」
答えを待たずに、唇を重ねる。やさしく、何度も確かめるように口づけた。触れ合うたび、心が、体が、静かに溶けていく。
けれど、唇をわずかに離したとき、ルイスが視線を逸らした。
「……イヤか?」
「ち、違います……っ」
声が微かに震えていて。肩をすぼめるように俯き、ルイスが小さく息を吸い込んだ。
「……少しだけ……殿下と、お話したくて……」
火のゆらめきが照らす頬は、昼の笑顔よりも少し寂しげで。その目元には、言葉にならない痛みが滲んでいた。
視線の高さを合わせるように、膝をつく。ルイスはぎゅっと唇を結んでから、手元に置いてあった図鑑を胸に抱えた。
「……旅の支度をしているとき、なんとなく……この本を開いて……」
「うん」
「そこに、『ノクティア』っていう花が、載ってて……。俺、それ……育ててました。ずっと、薬花だと思ってた。でも……図鑑には、『陶酔性の高い香』『幻覚・記憶混濁』……って書かれてて……」
図鑑を抱える指が、かすかに震えているのが見えた。
「知らずに……毒の花を……育ててたのかもしれないって……。もしかして、俺の花が咲かないのは、毒を吸っていたからなんじゃないかって……」
震える声に、嗚咽が混ざる。細い肩が、小さく揺れていた。そっと、図鑑をルイスの腕から引き取ってベッドの上に置く。迷いなく、その体を抱きしめた。
「言ってくれて、ありがとう。……実は知っていた。黙っていて、ごめん」
腕の中で、驚いたように肩が震えるのを感じ、抱きしめる腕に力が入る。
「……そう、だったんですね……」
しがみつくように胸に顔を埋めるルイスが、か細い声で続けた。
「俺……殿下のそばにいたい。でもっ、役に立たないとか……迷惑かけるくらいなら……今ならまだ……婚約を……」
「馬鹿だな、君は」
涙が零れそうになるのを拭うように、やわらかく頬に口づけた。
「君が大切に育てた花を、私は否定しない。たとえそれが毒でも。……君の手は、それを枯らさず、守り続けてきた。その事実が、何よりも尊い」
「っ……」
「私は、君がどんな過去を持っていても、君自身を信じている。……役に立つかなんて考えなくていい。君がいるだけで、私は救われているから」
頬を両手で包み、そっと額を合わせた。指先で涙をぬぐい、唇を寄せる。
「……殿下……」
「私は君を守る。何があっても、絶対に」
その言葉に、ルイスの表情がやわらいだ。潤んだ瞳が閉じられ、震える声で囁く。
「……俺、怖かったのに……今、殿下に触れてほしいって、思っています……」
「私も……同じ気持ちだよ」
唇が触れる寸前で、問いかけた。
「……今夜、君に触れてもいいか?」
ルイスは少しだけ目を開けて、真っ赤な顔で、小さく、こくりと、頷いた。
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