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第二章 セレスティアの伝承
第五十八話 『咲いた夜と、始まりの朝』
しおりを挟むもう一度、殿下の胸に頬を寄せたまま、ゆっくりと瞼を持ち上げる。窓の外はすっかり朝の光に満ちていて。夢のような夜が、本当に明けたのだと告げていた。
「……そろそろ、起きないと」
呟いた声に、殿下が名残惜しそうに髪を撫でた。
「そうだね。……けれど、もう少しだけ君を見ていたい」
「だ、だめです……! 朝食、行くって言いましたからっ」
あわてて身体を起こすと、肩から滑り落ちた羽織のすそから、昨夜の名残を宿した花びらがふわりと舞った。まだ、花の香りが、ほんのりと肌に残る。
「……着替え、ます……」
起き上がった俺の背中に、殿下がそっと、支度用のローブをかけた。驚いて振り返ると、殿下が穏やかな笑みを浮かべていた。
鏡台の前に立つと、乱れた銀髪に、自分の頬がほんのり紅をさしている姿が映った。すると、後ろから音もなく近づいた殿下が、腕を回してきた。
「……首筋にも、花を咲かせておこうか」
「えっ……あの、もう咲いていると思いますが……」
「君を誰にも渡したくない朝なんだ。証は、増やしておきたい」
「~~っ、も、もう、またそういう……!」
軽く噛むような口づけが首筋に落ち、甘い痛みとともに、所有の紅い花が刻まれていく。ぞくりとした感触に、思わず殿下の手を掴んだ。
「っ……殿下っ!」
「ん? 何?」
「着替えますっ……!」
「はいはい」
すっと、身を引いた殿下が隣で、身支度を始める。乱れた髪を整えて、着替えていると、くすっと笑いながら、優しい手つきで、髪が撫でられた。なんだか、少し恥ずかしくて、目を伏せる。
着替えを済ませると、後ろからそっと手が重なった。あたたかくて、くすぐったくて。けれど何よりも、心が満たされるようだった。
「……終わった?」
「うん」
「……行こうか、ルイス」
「先に行ってくださっても良かったのに」
振り返って見上げると、殿下はいつもの涼やかな顔をしていて。けれど、翠の瞳は微かに細められていた。
「少し、忘れ物があってね」
「……? 忘れ物?」
疑問を口にした瞬間、顎に指先が添えられる。くいっと持ち上げられ、唇が重なった。あまりに不意打ちで、頬が熱くなる。
「っ、わ、忘れ物って……!」
「ん~~?」
「もぉっ……!」
小さく頬を膨らませて、部屋の扉に手をかけた。開け放たれた廊下に、朝の空気がふわりと流れ込んでくる。ほんのり湿った風が肌を撫でた。
咲いた夜の続きを見送るように、花の香りを運んでいった。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
朝露が花の葉を濡らし、やわらかな陽光が庭の花々を照らす。殿下と並んでダイニングへ足を踏み入れた。
既にエルネストが席に着いており、テーブルには朝食の香りがふんわりと漂っていた。そのすぐ傍で、リアム殿下が当然のように椅子の背を引く。
まるで、長く一緒にいた夫婦のように思えた。
「おはようございます、ルイス様。……どうやら昨夜で、少しだけ『花開かれた』ようじゃな」
席につくなり、エルネストが穏やかに目を細める。椅子の背に触れていた手が、ぴたりと固まった。
「えっ……?! い、いえっ、そんな、あの、それはっ……!」
「……『少しだけ』、だったかな?」
ばたばたと焦る俺をよそに、リアム殿下は涼しい顔でパンにバターを塗りながら、さらりと添えた。
「昨夜のルイスは……とても可愛くて、美しかったです」
「あああ~~~~っっ!!」
顔から火が出そうなほど赤くなり、パンを取り損ねた指先が空を切る。視線の奥では、ロバートが何かを察してそっと目を逸らしていた。
すべてを知られている気配に、今すぐ花びらの布団にでも潜り込みたくなる。
「……若いとは、まぶしいものじゃな。わしには、もはや眩しすぎてのう」
苦笑するエルネストの声はどこか嬉しげで。その空気に少しだけ救われる。そのとき、エリオットが静かに歩み寄り、リアム殿下のそばで耳打ちした。
「……何があった?」
「ーー王都が騒然としております。リアム=アッシュフォード殿下が毒花の調香に関与し、その使用を黙認していたという内容の文書が発見され、政務庁が混乱中です」
「……了解した」
リアム殿下はパンナイフを静かに置くと、俺を真っ直ぐ見つめた。
「ルイス。朝食のあとは、すぐに出立しよう。王都へ戻る」
「……えっ? 途中で泊まったりは……?」
「夜通し、このまま馬車で王都へ向かう」
もう少し一緒に過ごしたかった、なんて、ささやかな願いが胸をよぎり、また頬が熱を帯びる。リアム殿下はその一瞬の揺れを見逃さなくて。やわらかく微笑みながら、そっと手を重ねてきた。
「……夜は、充分だった。だろう?」
「っ……! ち、ちがっ……そういう意味じゃ……!」
「……だから、次は私の番だ。君を必ず守るーー」
その言葉に、胸がじんわりとあたたかくなる。出発の準備は急ぎ整えられ、俺たちは昼を待たずして、夜通しの馬車で王都セレスティアへ向かうこととなった。
その道中、何度も、隣に座るリアム殿下を見上げた。そのたびに、優しく身体が寄せられ、唇がそっと重なる。
昨夜のぬくもりも、朝の照れくささも、手のひらに残る体温もすべてが、愛おしい記憶として、心に刻まれていく。
けれど王都に待つのは、甘やかな愛の続きではなくて。『真実』と『責任』を抱えた、新たな戦いのはじまりだった。
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