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第三章 王都編
第六十三話 『記憶と再訪のはざまで』
しおりを挟む馬車が止まり、車輪の揺れがふっと途切れる。扉が開くと、湿った灰色の空と、懐かしいはずの石畳が広がっていた。
けれど胸に浮かぶのは懐かしさではなく、冷たいものが静かに沈んでいく感覚だった。
門の前には、ブランシェ家の執事が立っていて。背筋をぴんと伸ばし、黒い制服を纏い、表情だけは丁寧に整えている。
「……お帰りなさいませ、『ルイス様』」
『様』だけが、妙に遅れて落とされる。微笑みは浮かべているが、その目は笑っていなくて。それは、かつて『枯れ生み』だった自分に向けられていた視線と、まったく同じだった。
「……ただいま」
喉の奥がひりつく。けれど笑みだけは崩さなかった。門が軋み、屋敷の庭が広がる。整いすぎた花々が、息を潜めるように並んでいた。執事は何も言わず、俺の横を抜けて先を歩いていく。
それはまるで、客人に対するような、あるいはーー家に属さない者への距離に思えた。
(……歓迎されていないのは、わかっている)
それでも、足を止めることはできなくて。一歩ごとに、忘れたかった記憶が足元から立ちのぼる。
案内されたのは、西棟の、幼い頃に押し込められていた部屋だった。扉が開くと、埃の匂いが鼻をついた。
薄いカーテンがわずかに揺れ、空気の冷たさが際立つ。窓辺の棚には、隠すように置いていた押し花のノートがそのまま残っていた。
「ご用があれば、呼び鈴を」
淡々とした声で執事が告げ、そして、わざとらしいため息を吐いた。
「……式用の礼服など、必要ありませんか? その民族衣装では、ブランシェの『恥』になりますので」
冷たく放たれたその言葉が、胸にずしりと落ちる。けれど、昔の自分とは違う。ゆっくりと衣装の裾へ手を添え、刺繍されたブランシェの紋章をあえて見せつけるように指でなぞった。
「大丈夫です。用意しているので」
短くそう返すと、執事は眉をひそめ、それでも頭を下げた。
「……かしこまりました」
扉が閉じる音が、部屋中に響く。この家は何ひとつ変わっていない。空気も、人も、視線も。
けれどーー変わったのは自分だ。リアム殿下と巡った旅も、触れ合った温度も、あの夜の誓いも。すべてが、昔の自分を越えるための灯りになっている。
(帰ったら……殿下と話したい)
窓の外を見つめると、曇天の空が静かに広がっていた。その灰色の向こうで、殿下が待っているのだと想うだけで、胸があたたかくなった。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
荷ほどきを終えて、屋敷の廊下を歩く。足音は石造りの床に淡く響き、すぐに吸い込まれていった。
すれ違う使用人たちは誰ひとり声をかけてこなくて。まるでそこに俺が存在していないかのように視線を逸らした。
(……変わっていない)
この屋敷に戻ったのは何年ぶりだろう。けれど、空気の冷たさは、昔のままだった。
「……使用人の数、増えましたね」
ふと、廊下の端で花瓶の花を整えていた年配の女性に声をかけると、相手は微かに眉をひそめ、短く答えた。
「……ええ。あなたが王都へ行きましたので」
その言葉に込められた含意は明白で。まるで、『あなたが出て行ったから増員が必要になった』とでも言いたげだった。
(責められる理由なんて、本当は何もないのに)
ただ生きてきただけなのに。何度もそう思ってきたはずの自分が、まだこうして傷つくことに気づき、そっと胸を押さえ、静かに頭を下げてその場を離れる。
そのまま足を進めると、ふと、西棟の立ち入りが制限されていた扉が目に入った。
(……あれは、旧書庫?)
かつて、家系の古い記録や、花に関する資料が保管されていた部屋だ。引き寄せられるように近づくと、前に立っていた若い使用人が、慌てて一歩前に出た。
「申し訳ありません。こちらは現在、使用できない区域でして……」
「昔は、ブランシェ家の記録が……」
問いかけを遮るように、背後からぴたりと冷たい声が落ちた。
「兄さん」
その声音に、反射的に振り返る。廊下の先に立っていたのは、弟のノエルだった。黒の正装に身を包み、佇まいには隙がない。表情は柔らかく整っているのに、明らかな敵意を感じた。
「そんなところで何をしているの? 兄さんはもう、ブランシェを出て行ったはずでしょ? 今は『客人』の立場のはずだけど」
わざと強調された『客人』の響きに、廊下の空気が凍りつく。使用人の視線すらも、自分ではなくノエルの動きに合わせて揺れていた。
「……懐かしくて。少し、見て回っていただけだよ」
努めて穏やかに返すと、ノエルは口の端を吊り上げ、どこか芝居じみた微笑を浮かべた。
「ふうん……じゃあ、まだ『この家』に未練があるんだね」
刺すような言葉が、胸に鋭く沈む。けれど、何も返さず、ただひとつ会釈だけを残してこの場を離れた。階段を曲がっても、背中でずっと、ノエルの視線が刺さっている気がして、息が詰まりそうになる。
(俺は、もう後戻りしない。たとえ、過去を突きつけられても……!)
指先が、民族衣装の襟元に触れる。そこにある刺繍が、まるで『君はここにいる』と告げてくれているような気がして、そっと目を閉じた。
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