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疑念―ベランガレア―
しおりを挟む「……ベランガレア」
その名は、この国に住まう者なら誰もが知っていた。
建国より幾千年の時を生き、この国を禍より守る巫女であり、魔女。
羊の毛を刈りながら、俺はぼんやりと考えていた。
そんな伝説を信じるわけではない。
しかし、誰もに恐れられる大魔女の名を付けるとは、彼女の両親はなかなか奇特な人物だったに違いない。
あの能天気な性格とはとても結びつかないが、何故かしっくり来る気もする。
そういえば、と昨夜の森での出来事を思い起こす。
あれは明らかに魔術や巫術の類だった。
ということは、中心にいた彼女は、恐らくそういった家系の出なのだろう。
特段珍しいことでもない。このような辺境では特に。
「それにしても、長閑だ……」
遠くに旋回する大鳥に目を眇める。
向こうの丘の上には、染色された鮮やかな衣が、はらはらと風にたなびいている。
国を捨てた罪悪感も、置き去りにしてきた問題も、今だけは忘れていられる気がした。
そのとき、背後から囁き合う声が聞こえてきた。
振り返ると、家の陰で二人の女性が何やら話しをしているようだ。
手に桶を持っているところを見ると、川からの帰り道といったところか。
視線を外し、目の前の羊に集中する。
しかし、聞くともなしに聞こえてくる会話。
初めは今年の作物の出来について、当たり障りのないやりとりだった。
それがいつしか傍目を偲ぶ物言いに変わっていった。
「――……のベランガレア様はとても優秀な方だけれど――……人の心がない――……感謝は……」
「――……今年だけで五人は殺められて……何故あそこまで……」
吹き渡る風に遮られたが、確かに聞こえた。
ベランガレア、と。
「……若者や」
突然掛けられた声に、はっとする。
すぐ隣に、背の低い老婆が立っていた。
「あの娘に気を許してはならんよ」
――――……
夕食の席には、硬い黒パンと朝食の野菜のスープ、それからチーズが並んだ。
「せっかくのお客様にこんなものしか出せなくて、申し訳ないんだけど……」
そう言って、恥じ入るように笑うベランガレアに、いたたまれない心地がした。
確かに王宮ではパンは白いものであったし、チーズは柔らかく、スープには厚切りの肉が入っていた。
この食卓が侘しいものであることは分かる。
しかし、彼女の作ったスープは、どこか優しい味がした。僅かに入った肉はほろほろと崩れ、野菜の甘みが染み渡る。
酸味のあるパンも、野性味溢れるチーズとよく合った。
「そんな風に言うな。とても美味い」
心からそう言うと、彼女にも伝わったのだろう。
はにかむような照れ笑いをその顔に浮かべた。
頭の片隅にちらりとあの老婆の言葉が蘇る。
女たちの穏やかならぬ会話がこだまする。
決して豊かではない食材を惜しげも無く振る舞う彼女が、こんな表情を見せる彼女が、人を殺めただと。
ありえない。
どうにも結びつかない。
知っているのは名前だけ。
長い付き合いでもない。
しかし何故か本能的に、彼女を厭う気にはなれなかった。
「この家は何故、他の家から離れたところにあるんだ」
俺は言外に問うた。
何故彼女のような年若い娘が、ただ一人誰の力も借りずに暮らしているのかと。
困らせるであろうことは百も承知で。
しかし予想に反し、彼女の返答は穏やかなものだった。
「ここにこうして有り、己の役割を果たすことが、私の在り方だから」
俺はそれ以上、何も言えなかった。
傍目にはとても幸福には見えなかったが、彼女は自身を哀れんではいなかった。
誇りさえ感じられる物言いだった。
「明日は薪を切ってもらえると助かるわ。私も夕方には戻るから」
そういえば、今日も彼女は出かけていたようだ。
少々疲れた様子だったのが印象に残っていた。
野に果実でも採りに行っていたのだろうか。しかし何かを持ち帰った様子でもなかった。
女一人で一体どこまで行っていたのだろう。
「どこへ行くんだ?」
「んー、仕事かな。村の神殿に」
何とも歯切れの悪い答えだった。
嘘は言っていないが、核には触れていない。そんな口調。
彼女を信じたい。できることなら助けになりたい。
しかしあまりに謎が多すぎる。疑念を抱く余地がありすぎる。どこから踏み込めば良いのかも分からない。
俺は内心決意した。
明日、彼女の跡をつけてみようと。
褒められたことではないのは分かっている。
深入りする理由もない。
それでも、胸のわだかまりを抱いたまま、この地を去るよりはずっと良い。
行動を起こさなかった末の後悔。
その痛みを、俺は既に知っていた。
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