軍事大国のおっとり姫

江馬 百合子

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第三章 新しい日々

第六十五話 ルコットの願い

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「ルコット! 一体どういうつもりなの!? あんな女の口車に乗るなんて!」

 馬車の中で思い詰めたように俯いていたヘレンさんは、私の私室に入るなり涙声を上げました。
 私までもらい泣きしそうになりながら、何とか笑顔の仮面を保ちます。
 ここで泣いてしまっては、彼女を余計に心配させてしまうだけです。

「ヘレンさん、落ち着いてください」

 クッションの敷き詰められた椅子に座らせて、その細い両肩に、そっと手を置きます。
 目線を合わせるように屈むと、彼女の瞳の中の私は、いつも通りに笑っていました。

「いずれにしても、私はもう、ここへは帰らないつもりなんです」

 時が止まったかのように、辺りがしんと静まりました。
 溢れそうなヘレンさんの瞳、「え」とこぼれた吐息。
 
「どうして? 何でそんなこと言うの? ここがあなたの家でしょう?」

 囁くような掠れ声に、胸がぎりっと痛みます。
 それでも、私は悲しい顔だけはするまいと努めました。ここで泣けば、ヘレンさんは何が何でも私を止めるに違いありません。

「ヘレンさん、私は、ホルガーさまと共にいるのが辛くなってしまったのです」

 ゆらゆらと涙の膜が張った瞳に、必死で訴えかけます。
 この言葉は真実ではありませんが、同時に嘘でもありませんでした。

「リリアンヌさまのお申し出は、渡りに船だったのです」

 合法的に彼の元を離れられるのですから。
 リヒシュータで、私の無力さを突きつけられれば、いい加減この不毛な想いに諦めもつくでしょう。

 それに、もし万が一賭けに勝って、彼女に認めてもらえることがあれば、私は少しだけ胸を張って彼を愛した自分を受け入れられるかもしれません。
 いずれにせよ、彼の元へ帰ることはありませんが、その勲章は、人生の確かな彩りになる気がしました。

「……でも、ルコット、陛下とスノウさまのご命令はどうするの? ホルガーさまとの結婚は王命なんでしょう?」

 縋るようなヘレンさんに、私は首を振りました。
 確かに、この結婚がお父さまやお姉さまの望む形にならなかったことは悔やまれます。
 しかし、人の心というのは、理性ではどうにもならないものなのです。
 離れてしまった親愛の情を取り戻す術はありません。そして、私には、生涯続く片恋に耐え得る強い心がありませんでした。
 今後は別の方法で、お役に立てるよう努めるより他ないのでしょう。

 ヘレンさんは、とうとう諦めたようにため息をつかれました。

「きっと、いつか後悔するわよ」
「……はい」
「本当にいいのね?」

 その瞬間、ホルガーさまと過ごした時の記憶が、鮮やかに眼前に広がりました。
 初めてお会いしたときの気恥ずかしそうな表情。
 母の命日に二人で過ごした噴水広場。
 結婚式のとき、壇上で安心させるように微笑んでくださった眩しい情景。そして――

――お待ちしていました。

 そう言って抱きしめてくれた、大きく温かな両腕。
 ぽたぽたと床に涙が落ちます。
 
 アルシラでは、消えた私を、誰よりも早く見つけ、助けに来てくださいました。
 そしてもう一度、私を信じ、送り出してくださいました。

 共に過ごした楽しい夕食、朝焼けのサフラ湖、息を飲むような星空。
 その全てに、ホルガーさまのまっすぐな優しさと穏やかな眼差しがありました。

「……それでも、私は行かないといけません」

 恋しくても、悲しくても、寂しくても。

「リヒシュータで功績を挙げなさいというお言葉も、無視できませんし。もしかしたら、そこには困っている方々がいて、私に何かできることがあるかもしれません」

 ヘレンさんは、そっと私を抱きしめてくれました。
 
「……私も行くわ」

 ヘレンさんの言葉に、私はまた少し泣きました。

 とうとう、私はホルガーさまの良き妻にはなれませんでした。
 それどころか、感謝の手紙の一つもなく、一通の離縁状だけを残していく恩知らずです。
 その離縁状さえ、目につくところに置いておく勇気はなく、自分の机の引き出しに忍ばせておくことしかできません。
 頃合いを見て手紙でその存在を知らせようなんて、どれほど卑怯なのでしょう。
 それでも、これが私の精一杯。
 この方法なら、世間の誹りは全て私に。
 ホルガーさまは、非常識な妻に置き去りにされた気の毒な夫となるはずです。
 私の存在が再婚の妨げになることはないでしょう。

「……ホルガーさま、お元気で。どうか――」

 どうか、彼が、誰に強制されることもない、本当の幸せを手に入れられますように。
 彼が私を完全に忘れ、いわれのない罪悪感など感じることがありませんように。

 しかし、もし許されるのなら、この先私の歩む道が、少しでも、彼の穏やかな毎日に帰依しますように。
 百年の孤独の果てに、遠い地の彼の幸いを伝え聞くことがありますように。
 彼の幸い――ただそれだけが、私の唯一の望みなのです。

 
* * *


「奥さまが、明日侯爵令嬢リリアンヌさまとともにリヒシュータへ向かわれるそうですよ」

 ホルガーは一瞬刮目したが、すぐに目を伏せ、「そうか」と呟いた。

「共に行かなくて宜しいのですか」

 エドワードの声は冷静そのものだ。
 それが、ホルガーの苛立ちを募らせた。

「殿下は俺に何も仰らなかった。それが全てだ」

 あの日、彼女は言ったのだ。

――もっと相応しい方が他にいらっしゃるはずです、と。

 愛する女性に、他の相手を勧められたのだ。
 ショックだった。
 これまで共に過ごした月日は長くはなかったが、それでも、あの日々の輝きは本物だと思っていた。
 生涯、共に暮らしていけると思っていたのだ。

 それなのに、蓋を開けてみれば、彼女の思い描く未来に自分はいなかった。
 あんなにも呆気なく手を放されるとは。
 彼女にとって、自分は何だったのだろう。

 初めはきっと、望まぬ結婚だったに違いない。
 自分は誰もが恐れる「冥府の悪魔」であるし、美しい見目をしているわけでもない。
 女性に好かれる要素など、一つもないのだ。

 それでも彼女は、この結婚を微笑みと共に了承してくれた。
 恐ろしい相手だろうに、怯えたそぶりは微塵も見せず、まるで心から望んだ結婚であるかのように、幸せな微笑みを向けてくれていた。
 それは、勘違いだったのだろうか。

 共に乗り越えた婚礼期間も、アルシラの食堂で見せていたはにかむような笑顔も――

――ホルガーさまがいるから、私はもっと強くなりたいと思うのです。

 あの、言葉も。
 全て、全て、嘘だったのだろうか。

 共に暮らせることを、喜んでくれているのだと思っていた。
 初めて屋敷で朝食を共にした日の彼女の笑顔は、今でも脳裏に焼き付いている。
 あれも、全て、幻だったというのか。

 ホルガーは、一つため息を吐いた。
 それは、細い微かなものだったが、込められたのは生涯消えない悲しみと、確かな諦めと決意だった。

 自分は、優しい彼女の笑顔に甘え、真実から目を逸らし続けてきたのかもしれない。
 冷静に考えて、冥府の悪魔たる自分との結婚を望む女性などいるはずがなかったのだ。
 普通の令嬢なら、決まったその場で泡を吹いて倒れていてもおかしくはない。
 しかし、彼女が我慢強く、心優しいのをいいことに、身勝手で幸せな勘違いをしてしまった。
 彼女が心を押し殺してこの結婚を受けたことに気づいてあげられなかった。
 妻でいられる自信がないなんて、最後まで、優しい嘘をつかせてしまった。

 彼女を日々消沈させ、弱らせていたのは、自分自身だったのだ。

「……うっ、……く、ふ」

 熱い涙が流れ落ちるのを感じた。
 嗚咽が、抑えても抑えても溢れてくる。
 噛み締めた唇から、滲んだ血がぼたぼたと床に落ちた。
 最も愛する人を知らぬ間に傷つけ続けてきた。その事実に、生まれて初めて体が震えた。

 どうしたってこれ以上、彼女と共にいることはできない。
 それなのに、愚かにも、自分から手放すことなど、できそうにない。恋しさで、どうにかなってしまいそうだ。
 しかし、彼女が自分の元を去るのなら、その背を追わずにいることくらいはできるかもしれない。否、体を縛り付けてでも、追ってはならない。

 愛する女性の幸せが、自分の傍にないのなら。
 鮮やかな外の世界へ飛び立つ彼女を、静かに見送ろう。
 それだけが、彼女に捧げられる唯一の愛だ。
 誰よりも幸せになってほしい。
 もはや自分の全てである愛しい妻。
 彼女の前途が幸福であるのなら、他に望むものなど何もない。

(リヒシュータから戻られたら、共にスノウ殿下に――離縁を願い申し上げよう)

 そのときを思うと、胸が押しつぶされそうに痛んだが、強いて視線を強く上げた。
 少なくとも、もう二度と会えなくなるわけではない。
 幸い自分は陸軍大将だ。
 この先も重要な式典の護衛対象として、彼女を遠目に見守る機会くらいはあるだろう。
 それならば、幾分心も慰められた。
 たとえ彼女が自分を忘れても、どれだけの年月が過ぎ去ろうとも、間違いなく、彼女は自分の唯一なのだから。

 感情の読めないエドワードが、また至極冷静に問うた。

「私は、どうすれば宜しいですか」

 執事として、屋敷を守るべきか、護衛の少ない女主人を守るべきか。
 ホルガーは、迷わず即答した。

「一緒に行ってくれ。ばあや殿も連れて。どうか、彼女を、守ってくれ」

 エドワードは微かに眉を上げた。

「お前は頭も良く、腕も立つだろう。頼む、権力からも、中傷からも、剣からも、」

 あの、心優しい少女を。

「どうか、守ってくれ」

 エドワードは薄い唇を開いて呟いた。

「かしこまりました、ご主人さま」と。



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