軍事大国のおっとり姫

江馬 百合子

文字の大きさ
89 / 137
第五章 南国 エメラルド

第八十九話 心が決めること

しおりを挟む

――レインヴェール伯とその兄弟が、単独でエメラルドとの交渉に向かったわ。私も今からハルと後を追います。あなたは何も心配しなくていいわ。こちらのことは任せておきなさい。

 私は、呆然とその手紙を見つめていました。
 朝日の刺す窓辺は暖かいはずなのに、体が深々と冷えていきます。

 南国エメラルド。
 数年前まで剣を交えていたかの国に、まさか兵も連れずに赴くなんて。

「……危険だわ」

 ともに朝食をとっていたばあやの視線がすっと上がります。
 私は縋るようにばあやを見つめましたが、何も言葉が出てきません。
 それでも、ばあやは何かを察しているようでした。

「行かないのですか?」

 どこに?
 決まっています。彼の元に。
 足はもう既に走り始めているかのようにおぼつかなく、頭の中に浮かぶのは、長い間封じ込めていた彼の笑顔ばかり。
 ですが――足はその場に縫い付けられたかのように動きませんでした。

「……だって」
「はい」
「私たちはもう、夫婦じゃありません」
「存じています」
「他人なんです」
「そうですね」
「なのに駆けつけるなんて、おかしいでしょう」
「そうかもしれません」

 でも、とばあやは続けました。

「今を逃すともう二度と、彼に会えなくなるかもしれませんよ」

 その言葉は、私の働かない頭を、ガンッと強く打ちました。

 もう二度と会えなくてもいい。
 言葉を交わせなくても構わない。……彼が、元気でいてくれるなら。

 何度も何度も擦り切れるほど胸の中で繰り返した言葉です。
 この想いがあったからこそ、私は彼を吹っ切ることができたのです。そのはずでした。それなのに――

「姫さま、涙を」

 眼前に差し出されたハンカチに、ぽたり、と雫が落ちました。

――彼が危ない。

 そう思うだけで、こんなにも、想いがあふれる。
 どうしようもなく涙がこみ上げて、いてもたってもいられない。
 結局私の中には、いつだって、彼の存在があったのです。

「姫さま、大切なことは頭で考えてはいけません。ご自身の心で決めるのです」

 私の心。
 それは何年の時を経ても、彼だけを見つめていました。
 彼の背中を、横顔を、そして笑顔を、誰より愛しく、大切に想っていました。

「……ばあや、私」

 この決断はきっと、彼とって喜ばしいものではない。
 そうわかっているのに、私の心はここ数年で、一番すっきりと晴れ渡っていました。
 私はようやく、私の答えを見つけたのです。

「……彼に、会いたい」

 そのとき、部屋の隅にある通信魔水晶が、強い光を放ちました。

「ルコットちゃん!」

 響いてきたのは、聞いたこともないほど切羽詰まったハントさまの声。

「大変だ! 急いで王都に来ておくれ!」

 私は一瞬の迷いの後、「わかりました!」と叫ぶとエドワードさんとヘレンさん、アサトさまを呼びに、扉の外へ飛び出しました。


* * *


 南部の転移施設を抜け、エメラルドへと密林を急いでいたスノウとハルの頭上を、一羽の吟遊魔鳥が飛びすさって行った。

――『俺が、人質になりましょう』
   哀れ若き陸軍大将は、愛する人の願う未来のため、自らその身を差し出したのでした。

「……遅かったか」
「やはり、そうなったのね」

 スノウは悔しげに、吟遊魔鳥を見送った。
 ハルもまた、冷えた目で何かを思案している。

「今からでも、僕らで交渉しに行こう」
「……そうね。勝率は五分といったところだけど」

 二人が再び歩き始めると、スノウの通信魔水晶が眩い光を放った。
 応答を待たず、焦った宰相の声が響いてくる。

「スノウ殿下、ハル王子、至急王都へご帰還を!」

 彼の背後に人々のざわめきがノイズのように聞こえてくる。
 多くの者が彼の元に詰めているのだろう。
 何事かと目を見開くスノウに、宰相は涙声で訴えた。

「王都は大混乱です!」


* * *


「ねぇ、ルコット、どうすると思います?」

 壁に寄りかかり、窓の外の朝日を眺めながら、ヘレンはぼんやりと呟いた。
 忙しく立ち働いていたエドワードは振り向くことなく言葉だけを返す。

「さあ、どうでしょう。それよりあなたたち、何故私の部屋に来るんです」

 ヘレンの側にはアサトも控えていた。

「何だかいてもたってもいられなくて。私にとっても、ホルガーさんは恩人みたいなものですし」
「……右に同じです」

 エドワードは「そうですか」と素っ気なく返すと、また作業に戻った。

「もう、本当に冷たいですね。そんなんだから『冷血漢』って言われるんですよ」

 エドワードは「望むところですよ」と鼻で笑うと、窓から伝書鳥を飛ばした。
 アサトが不思議そうに、朝日の向こうに消えた鳥を見つめる。

「今のは、どなたに?」
「リリアンヌ嬢とターシャ姫にですよ」

 ヘレンが首を傾げる。

「何て送ったの?」
「『もう準備は整いましたか』と」
「……何の?」

 ヘレンが訝しげに尋ねると、エドワードはようやく二人に視線を向けた。

「お二人も、もう準備は済んだんですか?」

 ぽかんとする二人に、エドワードは不敵に笑う。

「……そういえば、エドワードさん、さっきから一体何をしてるんですか?」
「何って、荷造りですよ」

 そこに来てようやく、アサトの目が見開かれた。

「……まさか」

 そのとき、階上から慌てて駆け下りてくるルコットの足音が聞こえてきた。

「ようやくいらっしゃいましたか」
「……まさか、ルコットが行くってわかってたんですか」

 ヘレンの確信めいた質問に、エドワードは「ええ」と笑う。

「こんな状況で、彼女がじっとしていられるはずがないでしょう」

 ルコットが駆け込んでくるまで、あと十秒。
 エドワードは朝焼けに隠れ、再び彼女の時が動き出した予感に小さく微笑んだ。

「それでこそ、ルコットさまです。……まだ、少し妬けますが」

 誰にも届かない程度の声でそう呟くと、「さて」と立ち上がる。

「それじゃあ、出発しましょうか」

 本日のダヴェニスの街は、朝の爽やかな風に吹かれ、きらきらと輝いて見えた。


しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

そのまさか

ハートリオ
恋愛
「そのまさかですわ、旦那様!」 ーーベナ・マギネは、16才の誕生日の前日、ギネオア邸3階からロープで脱出しようとして失敗、その際、残念前世をうっすら思い出し、今世をちゃんと生きようと、先ずは旦那様を色仕掛けで骨抜きにしようとトッチラカル・・! 前世が残念な事もある・・・何のスキルも無い事だってある・・・そんなベナが全力でトッチラカリます! 設定ゆ~るゆるです。緩い気持ちで読んで頂けると助かります。 第15回恋愛小説大賞にエントリーしました。 読んで、良いなと思ってもらえたら、投票お願いします。 短編ではないので長編選びますが、中編だと思います。

雪解けの白い結婚 〜触れることもないし触れないでほしい……からの純愛!?〜

川奈あさ
恋愛
セレンは前世で夫と友人から酷い裏切りを受けたレスられ・不倫サレ妻だった。 前世の深い傷は、転生先の心にも残ったまま。 恋人も友人も一人もいないけれど、大好きな魔法具の開発をしながらそれなりに楽しい仕事人生を送っていたセレンは、祖父のために結婚相手を探すことになる。 だけど凍り付いた表情は、舞踏会で恐れられるだけで……。 そんな時に出会った壁の花仲間かつ高嶺の花でもあるレインに契約結婚を持ちかけられる。 「私は貴女に触れることもないし、私にも触れないでほしい」 レインの条件はひとつ、触らないこと、触ることを求めないこと。 実はレインは女性に触れられると、身体にひどいアレルギー症状が出てしまうのだった。 女性アレルギーのスノープリンス侯爵 × 誰かを愛することが怖いブリザード令嬢。 過去に深い傷を抱えて、人を愛することが怖い。 二人がゆっくり夫婦になっていくお話です。

妃殿下、私の婚約者から手を引いてくれませんか?

ハートリオ
恋愛
茶髪茶目のポッチャリ令嬢ロサ。 イケメン達を翻弄するも無自覚。 ロサには人に言えない、言いたくない秘密があってイケメンどころではないのだ。 そんなロサ、長年の婚約者が婚約を解消しようとしているらしいと聞かされ… 剣、馬車、ドレスのヨーロッパ風異世界です。 御脱字、申し訳ございません。 1話が長めだと思われるかもしれませんが会話が多いので読みやすいのではないかと思います。 楽しんでいただけたら嬉しいです。 よろしくお願いいたします。

「私に愛まで望むとは、強欲な女め」と罵られたレオノール妃の白い結婚

きぬがやあきら
恋愛
「私に愛まで望むな。褒賞に王子を求めておいて、強欲が過ぎると言っている」 新婚初夜に訪れた寝室で、レオノールはクラウディオ王子に白い結婚を宣言される。 それもそのはず。 2人の間に愛はないーーどころか、この結婚はレオノールが魔王討伐の褒美にと国王に要求したものだった。 でも、王子を望んだレオノールにもそれなりの理由がある。 美しく気高いクラウディオ王子を欲しいと願った気持ちは本物だ。 だからいくら冷遇されようが、嫌がらせを受けようが心は揺るがない。 どこまでも逞しく、軽薄そうでいて賢い。どこか憎めない魅力を持ったオノールに、やがてクラウディオの心は……。 すれ違い、拗れる2人に愛は生まれるのか?  焦ったい恋と陰謀+バトルのラブファンタジー。

侯爵令嬢ソフィアの結婚

今野綾
恋愛
ソフィアは希少なグリーンアイを持つヴィンセントと結婚した。これは金が欲しい父の思惑と、高い爵位が欲しいヴィンセントの思惑が一致したからに過ぎない。 そもそもヴィンセントには恋人がいて、その恋人は身分に大きな差があるために結婚することは叶わないのだ。 結婚して早々、ソフィアは実家から連れてきた侍女夫婦とあばら屋に住むように言われて…… 表紙はかなさんのファンアートです✨ ありがとうございます😊 2024.07.05

恋詠花

舘野寧依
恋愛
アイシャは大国トゥルティエールの王妹で可憐な姫君。だが兄王にただならぬ憎しみを向けられて、王宮で非常に肩身の狭い思いをしていた。 そんな折、兄王から小国ハーメイの王に嫁げと命じられたアイシャはおとなしくそれに従う。しかし、そんな彼女を待っていたのは、手つかずのお飾りの王妃という屈辱的な仕打ちだった。それは彼女の出自にも関係していて……? ──これは後の世で吟遊詩人に詠われる二人の王と一人の姫君の恋物語。

【完結】灰かぶりの花嫁は、塔の中

白雨 音
恋愛
父親の再婚により、家族から小間使いとして扱われてきた、伯爵令嬢のコレット。 思いがけず結婚が決まるが、義姉クリスティナと偽る様に言われる。 愛を求めるコレットは、結婚に望みを託し、クリスティナとして夫となるアラード卿の館へ 向かうのだが、その先で、この結婚が偽りと知らされる。 アラード卿は、彼女を妻とは見ておらず、曰く付きの塔に閉じ込め、放置した。 そんな彼女を、唯一気遣ってくれたのは、自分よりも年上の義理の息子ランメルトだった___ 異世界恋愛 《完結しました》

魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました【完結】

iru
恋愛
第19回 恋愛小説大賞エントリーしています。ぜひ1票お願いします。 小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。 両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。 両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。 しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。 魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。 自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。 一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。 初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。 恋人になりたいが、年上で雇い主。 もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。 そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。 そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。 レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか? 両片思いのすれ違いのお話です。

処理中です...