1 / 63
第一話 プロローグ
しおりを挟むその日も、深草一葉は、いつものように、朝の情報番組をつけ、食卓にささやかな朝食を並べていた。そしてまた、ここ数日間ずっとそうしてきたように、兄の部屋へと向かう。
「槙!朝ごはんできたよ!」
なるべく笑顔で、元気に、扉を開ける。しかし、そこに兄の姿はなかった。
「…昨日は、帰って来なかったのか…」
どこに泊まっているのだろう。
そんな風に深く考えようとすると、一葉の胸はちくりと痛んだ。何故、胸が痛むのか、一葉には、はっきりとは分からなかったのだけれど。
「…さ!朝ごはん食べよ!」
一葉は、強いて明るく独り言を言い、何事もなかったかのように、階下へ降りる。
そして、ちょうど机についたとき、新たなニュースが舞い込んできた。
「緊急ニュースです。あの、大人気俳優の春さんが、明日、ロンドンの撮影を終えて、日本に帰国することになったと、今朝、現地テレビ局によって報道されました。また、これまで、春さんに対する出待ち行為は厳重に禁止されていましたが、今回は春さん自らファンによる出待ちを容認するといったコメントをされているそうです。この件に関して、事務所側は…」
一葉は、箸を動かすのも忘れて、テレビに見入った。
兄の話が正しければ、確か、「春」は「無月」さんの恋人だったはず。
もし、彼に接触することができれば、彼女の居場所を聞き出せるかもしれない。それが叶わなくとも、確かめるきっかけが掴めるかもしれない。
兄の心を未だ占め、苦しめる「藤泉院無月」は、何者なのかということを。
一葉は、空港名と到着日時を、急いで書き付けた。
それから、時計を確認し、急いで箸を持つ。
授業までは、まだ時間があるけれど、朝のうちに少し自習をしておきたい。一葉は、来年受験生だった。兄と同じ大学へ行くために、今のうちから、できる限りのことをしておきたい。二年生の五月の時点でこれほど勉強に力を入れている生徒は、そう多くはなかった。
朝食を終えると、コシの強いセミロングの黒髪をきっちり結い上げた。ハイソックスを履こうと動く度に、その髪が揺れる。
この辺りでは進学校として有名な公立高校のブレザーをきちんと着込み、重たい鞄を肩にかける。黒いローファーを履き、定位置の靴箱の上から鍵を取った。
「…いってきます」
彼女の声は、がらんとした家に、静かに響いた。
――――……
「日向、久しぶりね。…えぇ、明日なら大丈夫。空港まで迎えに行くわ」
広々とした白い静謐な部屋に、無月の絹のような声が響く。白魚のような手には、電話が握られていた。
「…無月、一人で出歩くのは危険だと言っているだろう」
部屋が、あまりにも静まり返っているため、相手の声までいやにはっきりと漏れ聞こえる。
しかし無月の後ろに控えている執事、伊勢は、二人の会話などまるで聞こえていないといった風情で、目を伏せていた。
しかし、無月が「大丈夫よ!私はもう二十一歳なのよ?」と食い下がったとき、彼はちらりと、非難の瞳を向けた。
無月は背後の視線を感じ、負けじと白髪の紳士を睨み返す。急に振り返ったため、真白の肩に、黒髪がさらさらと流れた。黒目がちな大きな瞳を精一杯細め、無月は粘る。
しかし、伊勢は黙って無月を見つめ続けた。
電話口からも、返答は返ってこない。
とうとう、無月は諦めるより他なかった。
「…分かったわよ。蜜華を連れて行くわ。それで良いでしょう?」
無月は、少し眉を上げて伊勢に不機嫌な視線を送った。対する伊勢は、満足したのか、口元が僅かに微笑んでいる。
日向も、渋々了承した。
「…蜜華の側を離れるんじゃないぞ」
まるで、幼子に言い聞かせるように、そう念を押して。
「…分かってるわよ」
無月は、眉を寄せ、更に不機嫌そうな顔をしながら電話を切った。
日向は、いつもそうだった。無月は遠い記憶の彼方に広がる幼き日々を思った。
無月が物心ついたときには、既に母親はこの世にいなかった。しかし、母の両親、ひいては祖父母による深い愛情の中で、彼女は何不自由ない日々を送っていた。
祖父母は所謂資産家であったため、隠居した身ではあるものの、当然負う責任も多く、出席しなければならない会も数え切れないほどあった。
きちんと覚えているわけではないが、無月が思うに、日向とはそのような会で会ううちにいつの間にか仲良くなっていた。
いつも手を引いてくれた。悪意のある人々からは自然に遠ざけてくれた。何か厄介ごとを起こせば、眉を顰めて心底呆れた顔をしながらも庇ってくれた。
しかし、彼は決して前を歩かせてはくれなかった。
中等部に上がってからは、学校ではあまり話しかけてくれなくなった。
だが、何故か夜会ではいつも側を離れなかった。
それから、無月の育ての親である母方の祖父母とも、何やら密かにやり取りをし始めた。
無月はそれを不思議に思いながらも、日向のやることなら、と特に口を挟まなかった。何を話し合っているのか、とても気になってはいたのだけれど。
そして、高等学校へ進学するのと同時に、無月は突然現れた実父により、半ば無理矢理この屋敷に移された。
何故突然祖父母と引き離され、父とその後妻の元で暮らさなければならないのか。それすらも分からないまま、慣れない環境、慣れない慣習の中で、半年の間に無月は完全に憔悴してしまった。
日向と連絡を取ろうにも、どうすれば良いのか分からない。
無月は、毎晩月を見つめて静かに涙を流した。
「私が一体何をしたというの…」
誰かの手に縋ることもできずに、無月は自身をきつく抱きしめる。
「お祖父様…お祖母様…」
どうして迎えに来てくれないの。
嗚咽を押し殺しながら、無月は懐かしい我が家と温かな祖父母に思いを馳せた。
しかし、浅い眠りに落ちるとき、いつも頭に浮かぶのは、呆れた顔をして無月に手を伸ばす、幼馴染みの姿だった。
そして半年後、日向は、何の前触れもなく、突然ふらりと無月の部屋を訪れた。
「無月、久しぶり。…俺、俳優になったから」
そう言って、彼は、無月の手をしっかりと握った。
呆然とする無月。
頭は全く働かないのに、何か取り返しのつかないことをしてしまったかのような絶望感を感じた。
日向は、両目を閉じて、無月の手の甲に、額を付ける。その姿は、まるで祈りを捧げているかのようだった。
「無月、大丈夫だ。お前だけは、俺が、守ってみせる」
無月は、あの日の日向の苦しげな笑顔が、今でも忘れられない。日向は、一体、何を背負ってきたのだろう。
気がかりに思いながらも、無月は結局そこに踏み込むことができなかった。
軽く溜息をつく。暗澹とした気持ちを追い払うように。
何もかもを与えられたこの家で、唯一得ることのできない自由。自由に振舞えているようで、それは全てあらかじめ誰かに定められたものなのだ。
しかし、無月はそれでも良かった。少なくとも、仕方がないと諦めることはできていた。
適度に学校に通い、様々な場で責務を果たし、そして帰る場所が息の詰まる伽藍堂の屋敷だったとしても、ここには、日向がいるのだから。
日向に抱かれている間は、何もかもを忘れられる。そして、深い眠りに落ちてしまえば、また次の朝がやって来る。
そこには、既に彼の姿はない。
飄々とした日向は、まるで春の風のようだった。
「伊勢、午後から蜜華に会うわ。連絡をお願い」
「畏まりました」
ふわり、と白いカーテンが揺れる。
窓の外の青い芝を見つめながら、無月はまた、そっと溜息をついた。
――――……
黄金色の髪をふわふわと揺らしながら、成宮蜜華は自邸の階段を駆け下りる。
無月に会える。それだけで、蜜華の頬は薔薇色に染まった。色素の薄い大きな瞳も、きらきらと光る。
もう、既に車は待たせてある。
午後からの予定は全てキャンセルしたが、父はただ微笑ましげに「いってきなさい」と言ってくれた。
穏やかな父親は、いつも家族に甘い。
しかし、父は、ただ甘いだけではない。
成宮家としては、なるべく藤泉院家に従い、できることならその庇護下においてもらいたいと考えているのだ。
成宮も、決して小さな家というわけではない。むしろ、この国を代表する一大名家と言っても過言ではない。
しかし、藤泉院家は別格だった。
成宮という名はあらゆる方面で世界的に認知されている。
だが、藤泉院家を知るものは、国内外でもほんの一握りの人々に限られた。
彼らは、決して表舞台には出て来ない。歴史の影の中で、まるで真珠のように守られながら、この国を纏め上げてきたのである。
彼らに逆らおうという者など、存在しない。まず、当座のメリットがないためである。それから、抗いがたい権力、財力、そして武力を備えているため。
しかし、何より、彼らを一目見たものは、そんな気を起こすことなど、できなくなってしまうのである。他者からの尊奉を無条件に集める血が、彼らには備わっているのだと言われている。
その圧倒的な存在感のもと、藤泉院家は、太古の昔から、影の頂点に君臨してきた。
しかし、彼らが全てを独占してきたというわけではない。
唯一、藤泉院家と並び立ち、対立することもなく、手に手を取り合い歴史を重ねてきた名家がある。
それが、春乃宮家である。
元々、藤泉院家と春乃宮家は、ルーツを辿れば同じ祖に繋がるのではないかとも言われているが、詳細は誰にも分からない。
ただ、これほど大きな二勢力が凌ぎを削るでもなく、共栄している現状は、乱暴な野心を抱かない者にとっては非常に有難かった。もし、このパワーバランスが崩れてしまえば、この国とてどうなってしまうか分からない。
しかしながら今現在、両家が争いを始めることは、まずありえないと言われている。何故ならば、両家の長子、藤泉院無月と春乃宮日向の仲睦まじさは、周知の事実だからである。
春乃宮日向は、謎の多い存在ではあるものの、無月の将来の伴侶となろうことは、明白だった。
蜜華が、階段を降り切ったところで、ふいに後方から声がかけられた。
「何かしら?」と、急いで振り返る。
午後のうちに来てくれれば良いとは言われていたが、蜜華はなるべく早く無月に会いたかった。
呼び止めたのは、稀に父の元へ何かを報告しに来る、清和という男だった。
「蜜華様、お急ぎのところ失礼致します。お父上様が、無月様への招待状は忘れずにお持ちになられたかと」
蜜華は、すぐに頷いた。
「お兄様のお誕生日会の招待状でしょ?ちゃんとお渡ししてくるって伝えてちょうだい」
蜜華には、兄がいた。
より正確に言うならば、兄と、「弟」がいる。
兄、成宮透は今年二十六歳になる。
優秀な後継者として、既に各事業に携わっており、周囲の信頼も厚い。
そして、どこまでも妹に甘い、自慢の兄である。
少なくとも、表面上は。
蜜華は兄の危うさを知っている。柔らかい微笑みの奥に隠された苦悩を。知りながら、今はただ、見守ることしかできない。
蜜華はなるべく兄に寄り添い、そして、今自分にできることだけを考えた。
せめて自分だけでも希望を持ち続けなければ。希望は、持ち続ければ、いつかはきっと芽吹くはずだと誰より自分に言い聞かせて。
彼女の「弟」は今年五歳になる。
しかし、公式には名前すら公表されていない。
彼の存在を知るものは、成宮の家の中でもほんの一握りの者に限られていた。
世間では、当主、成宮国和の隠し子だとまことしやかに囁かれているが、それでも当主は口を開こうとはしない。
蜜華は、真実を知った今となっても、この件に関しては、無月にすら話すことができなかった。
そっと目を閉じて、これまで何度も繰り返した誓いを胸の内で反芻する。
大丈夫。兄も、彼女も、あの子も、必ず幸せにしてみせる。
救いのない終わりになんて、絶対にさせない。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
9
1 / 4
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる