洗髪させていただきます!よろしければ丸ごとお任せ下さいっ。

塚銛イオ

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1.ここって何処なの?

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 紫沫シブキは迷っていた。

 気付いたら知らない場所にいたのだから迷っているよりパニックになってもしょうがないのに。
紫沫はもともと何かを考える事も苦手だったし、なるようになる、という考え方の持ち主だった。

 身体が小さく、力もない紫沫は自分を大きくも小さくも見せることをせず、とにかく自分は自分でしかないのだと毎日与えられた仕事を一生懸命、出来る限りでこなして生活していた。

 親も兄弟も居なかった紫沫が就く事の出来た仕事はそれ程多くなく。
児童養護施設を18歳で出てから、駅前の美容室に見習いと言う名で雇ってもらっていた。

 とはいえ、見習いとはいっても専門学校で学んだ訳でもない紫沫が出来る事はほぼ雑用でしかなかったのだが。
とにかく自分の力で仕事をしてお金を稼ぎ、何とか暮らしていける事をありがたい事だと感じていた。

 さっきまで店の閉店作業をしている所だった。紫沫は一番下っ端なのでいつも一番早くお店に入り、一番遅く残って店内の清掃などを行わないとならなかった。

 床は毎日多くのお客さまの髪の毛でいっぱいになる。
 その都度掃いて掃除はするが、人の出入りが激しい店内のそこかしこに散らばってしまうので閉店後全体をくまなく掃除しなければならないのだ。

 お客さまが綺麗になっていく様子を見るのが紫沫は好きだった。
 ぼさぼさの何とも目に生気のない人も、髪を洗って、ハサミで髪を整えられると何ともさっぱりとした顔つきになっていく。

 命の洗濯、とまではいかないがそれでも美容院が何かしら、人のマイナスの気持ちを洗い流して新しい気持ちにさせてくれるのは確かじゃないのかと思ったりするのだ。
だから紫沫は美容院が好きだったし、自分の仕事に誇りを持っていた。

 2年程前から紫沫はやっとお客さまの髪の毛を洗う事が出来るようになった。
それまでは店内の清掃、タオルの補充や洗濯、シャンプーやリンスの補充など雑用ばかりだったのだ。

 先輩から洗髪の仕方を教えてもらった。教えてくれた先輩は後輩の面倒を見るなどまっぴらごめんと、ひと通りのやり方をレクチャーされただけだったが、とにかく聞き漏らさないよう注意した。

 幸いな事に紫沫は一度でシャンプーのやり方を覚え、丁寧に、それは丁寧にその仕事をこなした。


 お客さまには好評だった。
小さな身体に見合うサイズの手を持つ紫沫にはそれを補うテクニックなどなかったが、小まめに手を動かしてお客さまの頭の隅々まで綺麗にしようとするその態度が客にとって心地の良いものだったからだ。


 紫沫の仕事ぶりは評判になって、洗髪は紫沫が担当する事が多くなった。

 洗髪は思ったよりも重労働だった。
 お客さまの顔に間違ってもお湯がかかってはいけない。
 もちろん耳に直接お湯がかかってもいけない。

 姿勢はやや前かがみ。それも小柄な紫沫は台に乗って洗わなければならず、その体勢で何時間も同じ動作を繰り返すのは思った以上に大変だった。
 でも、お客さまがわざわざ自分を指名してくれる事が嬉しかったし、何より紫沫は洗髪がとても好きだった。


 それというのも、紫沫は毛フェチだったからだ。あのふさふさとした感触がいい。
頭髪もそうだし、腕や脚の毛にも大層惹かれた。
艶やかな光沢のある毛も、短い剛毛な毛もそれはそれで良さがあった。
紫沫にとって、毛という毛は愛すべきものだった。

 もし、紫沫の体毛がふさふさとした毛深い体質だったならば、紫沫もそれ程毛というものに対して憧憬を抱いたりしなかっただろう。ところが紫沫の身体には殆ど毛が生えなかった。
 腕も足も、それこそ幼児のようにつるつるだった。もちろん、男として大事な部分を守る和毛も柔らかで生えているか生えていないか分からない淡い色の毛ばかりが申し訳程度に紫沫のシンボルを隠していた。

 だからだろうか。紫沫が恋するのはいつも大人の男だった。しっかりとした骨格と力強い体毛が紫沫には酷く眩しく見えた。
 いつかあんな逞しい腕に抱き締められてみたい。
 そんな風に思っては、自分みたいなちんちくりんが相手にされる訳はないだろう、と少し離れた場所から眺めるだけにとどめた。

 だからこそ選んだ職場であり、洗髪をする名目でお客さまの髪の毛に触れる事が出来るのは紫沫にとってはとても僥倖な事だった。


 
 さて困った。

 お店の床掃除は終わっていたが、シャンプーやリンスなど洗髪に使う備品の補充をしている途中だったのだ。
 あのままでは明日の業務に差し支える。

 紫沫が最初に思ったのはそんな事だった。

 残りの容量が少なかったものが何本かあったはずだ。
 あの中身を補充する必要があったのだ。

 店では汚れは洗い落とすが、余分な栄養素までは落とさないと謳った特別なシャンプーを使っていた。
 でも紫沫は自分が洗髪を担当するようになって、あまりに手が荒れる事に疑問を持った。
 
天然由来成分を利用しているから、という文句がパッケージに書かれていたがそれにしては人工的な香りが鼻を突いた。

 紫沫は難しい事は分からなかったが、そのシャンプーを使うとお客さまの髪の毛がキシキシと軋む事がとても悲しく思えて、自分独自でシャンプーの代わりになるような代替品を探していた。

 もちろんそんなことを美容院のオーナーに言えるわけはなく、紫沫は自分がまず試供品を作って実際に自分で使ってみてから理解を得ようと思っていた。

 今日は何度目かの試作品が出来上がったので、オーナーに一度その効果のほどを見てもらおうと思っていたのだった。
 結局、オーナーは他の店舗へ顔を出しているとかで紫沫の働いている店には現れなかったのだが。


 ここが何処なのか分からないが、お店で中途半端になってしまった閉店作業や、試作シャンプーを見せる事が出来なかった事が少しだけ悲しいな、と思った。



 そうして、改めて紫沫は周りを見渡す事にした。

 そこは何処かへ続く一本道のようだった。
 360度、見通すことの出来る平地には遮るものがなく、青々とした短い草が風に揺れてたなびいていた。

 背の低い紫沫でも埋もれることのない高さの草は牧草のようにも見え、遠くの方で放牧されているのだろう動物が見えた。


 牛のような、と言ったのはその動物が見た事のないピンク色をしていたからだ。
 姿形は牛と同じなのだが、身体は優しい桃色でまるでモモのようなグラディエ―ションをしていた。
 そんなモモ牛が草をゆっくりと食んでいる様子はとても牧歌的で、ここが何処かなんてどうでもいい事のように思えた。

「どうしようかな・・・。このままここにいる訳にもいかないよね。」

 紫沫は独り呟いて、前に進むか、後ろに進むか考えた。

 道はどちらも真っ直ぐ伸びていて、見える位置には特に何もなかった。
 だからこそどっちへ向かっても変わりなく思えて、こっちにすると言える明確な決め手がなかった。

「よし、こっちにしよう。」


 紫沫が歩き出したのはつま先が向いていた方向。
 どうやってここに来たのか全く分からないけれど、きっと無意識にでも進まなければいけない方向に身体は向いているのだろう、と都合よく考えた。

「さぁ、いくぞ。」


 小柄な紫沫は腰に巻かれたままだったシザーケースを一度ぐいっと締め直して、前を見つめて歩き始めた。
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