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第四部 一章
二人だけの旅行 4
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(可愛いな)
愛しい男の耳の縁が少し赤くなっていたのを見逃すはずもなく、アルトの背中が小さくなるまで見送る。
不意打ちをすればするほどアルトの頬は赤くなり、場合によっては怒られるまでしてしまうのがお約束になりつつあった。
「──シルヴィン」
やがてアルトが完全に見えなくなったのを認めると、エルは黙って成り行きを見守っていた男の名を呼んだ。
「は」
短い応答の声が聞こえ、ゆっくりとそちらに視線を向ける。
シルヴィンはエルの前へ跪き、頭を下げていた。
この男は臣下としてどこまでも忠実で、また年の離れた兄代わりでもある。
だからか多少の無理を承知の上で、つい甘えてしまう事も多々あった。
「王配には二人で、と言ったが『影』を連れて行く。構わないか」
「……は、何人ほどでしょう」
やや言い淀んだ気配を感じたものの、エルは短く続ける。
「少数の方がいい。あまり多いと気付かれるだろう」
それはアルトに向けてか、これから増えるであろう刺客へ向けてか、どちらの言葉かは自分でも分からない。
アルトには気付いて欲しいようで、そうなってしまったら余計に怖がらせるかもしれない。
もっとも、アルトに危険が迫れば何に変えても守ると心に刻んでいる。
しかし自身が怪我をすれば心配を掛けるだけでなく、最悪怒られて泣かれるだろう。
どんな表情でも愛おしくて可愛いと思うが、悲しい顔だけはさせたくなかった。
(朔真には悪いけど、何も知らない方が好きに動ける。まぁ……全部終わった時に教えたら怒られるだろうな)
たとえ怒っていてもあまり怖くなくて、笑いそうになるのを懸命に堪えているほどだ。
なのにあれで中々意志が強く、己と同じくらい頑固で心配性なきらいがあった。
自分だけに言えたことではないが、いらぬ負担を掛けて余計に緊張させたくはない。
「承知しました。では帰城後、『影』の中でも精鋭を寄越します」
「ああ、頼む。──もう楽にしてくれ」
シルヴィンは心得たというように頷くと、エルの了承から数拍して立ち上がる。
愛する男はあまり感情の分からない顔を怖がっていたように思うが、それはシルヴィンがこれまで数多の人間を殺し、血を浴びてきたからかもしれない。
シルヴィンは普段は王宮騎士の団長として、騎士達を取り纏める立場にある。
しかしそれは表向きで、人知れず王宮内外の闇や悪意から守る暗殺組織に籍を置いていた。
元々ライアンが王太子になった時は廃れつつあったようだが、即位すると同時にひっそりと復活させたらしい。
そこにはレオンも所属しており、夜になると影のように暗躍することから、存在を知る王族達は『影』と呼んでいる。
「……殿下」
シルヴィンが口を開くのに合わせたように、風が一層強く吹いた。
黒髪が揺れ、乱れつつある髪を抑えたままシルヴィンの方を振り向く。
「なんだ」
まさか呼び止められるとは思わず、柳眉を顰めて問い掛けた。
早くアルトの下へ行こうと歩き出していたため、不快感が露わになってしまうのはこの際仕方がない。
けれどシルヴィンはそんな己に一切臆することなく、まっすぐにこちらを見つめてきた。
「差し出がましいことをお聞きしますが、私も『影』に加わることは可能でしょうか」
新緑の瞳はいつになく鋭利で、少しの不信感を覚える。
「一応聞くが、理由はあるのか」
シルヴィンが自分から意見するなどごく少なく、またこれほど切実な瞳を向けられることはほとんどなかった。
王宮騎士団長と言えど、いついかなる時も敵が攻めてくる事を想定し、鍛錬をして備えなければならない。
部下を取り纏めるのも仕事の一つで、時として国王の護衛をする場合もある。
幸いにもライアンはしばらく王宮から出ないらしく、他にする事と言えば仲間内で剣の稽古をするくらいだ。
こうして丘の上へ出向くのも『王配に乗馬を教える』という名目で、その実護衛をしているのと変わらないのだが。
シルヴィンはすっと目を眇めると、静かな声で言った。
「殿下の譲位が正式に決定したと同時に、故郷へ戻ろうと思いまして。……私などの古株が居ても、扱い難いでしょうから」
そこで言葉を切ると、シルヴィンはエルの真正面までやってくる。
丁度人ひとり分の距離で、エルは自分よりもわずかに高い男の顔を見つめた。
まっすぐに向けられる表情に冗談の色はなく、あるのは決意だけだった。
「お嫌だと言うならばその通りにしますが、最後の仕事をしたいのです」
どうか、とシルヴィンが頭を下げる。
シルヴィンはライアンが王太子となってからしばらくして、王宮騎士団へ応募してすぐに配属されたらしい。
そこから数えると三十年を優に過ぎており、年齢によっては隠居を考える年だろう。
けれどシルヴィンは四十の半ばで、まだまだ壮健なふうに見える。
剣の腕にも長けているため、故郷へ戻らず後進の育成に回るのもいいのではないか。
(いや、何か考えることがあるんだ。それに、本当に辞めるなら父上に言うはずだから)
まだ王太子である自分に言っても、最終的な決定権はライアンにある。
そもそもライアンの代から仕えている男のため、自分に比べてシルヴィンに対する思い入れは違うだろう。
「最後、というのはなぜなのか教えてくれないのか」
あくまで疑問を口にする形で、エルは落ち着いた声で尋ねる。
きっとライアンであっても尋ねられると分かっていたのか、シルヴィンはそれまでの表情を一変させて口元へ笑みを浮かべた。
「はい。申し訳ございません」
謝罪する口調とは裏腹に、なぜ笑っているのか。
何かおかしなことを言ってしまったのか。
重ねて聞きたいことはあったが、これ以上聞いても無駄な気がしてエルは短く息を吐いた。
「……構わない。ただ、お前が影から支えてくれたら事足りるかもしれないな」
言外に『お前は必要だ』と言ったつもりだが、果たしてシルヴィンは普段と変わらない鋭い瞳を向けた。
「そうですか」
風は既に止んでおり、樹々が風に揺れて擦れる音が密やかに響いた。
◆◆◆
夏の暑さが和らぎ、はっきりと秋の匂いを感じる季節になった。
鮮やかな赤や黄色で色付いている色とりどりの樹々を横目に、アルトは馬に乗っていた。
栗毛の美しい毛並みの馬で、シルヴィンが『今の貴方様なら大丈夫でしょう』と言って借り受けたのだ。
先頭にはエルがおり、先日乗馬の練習に付き合ってくれたシェーンハイトに乗っている。
本来の主を背に乗せているためか、心做しか嬉しそうで軽快な足取りだった。
(本当に二人きり、なんだよな)
アルトはそっと周囲を見回す。
正直なところ、馬車や船に乗ってどこかへ行くと思っていた節があったのだ。
正式にエルと結婚してから先日で二年を迎え、それまで旅行らしい旅行をしてこなかった。
どこへ行くにも護衛や従者がついて回り、本当に二人きりになれるのは部屋に入った時だけ。
少しやきもきしていた部分もあったが、王宮が大変な時に二人でどこかへ行ってもいいものかと思う。
改めて不在にしても大丈夫なのか尋ねると、エルは手本のような微笑みのまま言った。
『何かあればレオンが対処してくれるから。それに、あいつが優秀じゃなかったら任せてないよ』
少し雑な口調を織り交ぜて言うさまは、心から信頼している証なのだろう。
ただ、エルの背後でレオンがぶつぶつと恨み言を吐いていたのが可哀想で、旅先で胃や頭痛に効く薬を買っていこうと思うほどだ。
エルは何かしら文句を言うかもしれないが、結局は大半のことを好きにさせてくれるのはありがたい。
馬を刺激しないよう、そろりと手綱を握る手に力を込める。
(夢みたいだ)
旅行が有言実行されただけでなく、誰の手も借りずに馬に乗ることになるとは思わず、王宮を出てしばらく経った今でも信じられない。
元の世界では乗馬など経験する暇もなかった。
それは恋愛も同じで、そもそもキスすらしたことがなかったのだ。
すべてエルが初めてで、人を愛することを教えてくれたのもエルだった。
こちらに向けてくる感情が重いと感じる時もあるが、それは自分が言えたことではないため小さく笑ってしまう。
(嬉しい、本当に)
心から感謝すると同時に、常に己のことを考えてくれて、もういいというほど甘やかしてくれる。
後者に至っては未だに恥ずかしくて申し訳なく思うが、エルのことだから美しい笑みを浮かべて言うのだろう。
「──疲れてない?」
そこまで考えると、右側からやや高い声が響いた。
「へ、っ」
図らずも素っ頓狂な声を上げてそちらを見れば、エルがにっこりと微笑んでいる。
いつの間にか隣りにシェーンハイトを付けていたようで、声を掛けてくれるまで気付かなかった。
エルは青いリボンで髪を一つに結び、首には昨年の誕生日を過ぎた頃に贈ったサファイアのネックレスを付けている。
小指の先ほどの大きさで、王族からすれば随分と安いものだと思うが、エルは泣きそうになりながらも喜んでくれた。
本当なら当日に祝いたかったが、その時はごく小さな喧嘩をしていて渡そうにも渡せなかったのだ。
加えて国王代理でレオン達と隣国へ行ってしまったため、その分遅れてしまったというのもある。
我ながら小さなことで喧嘩をするのは子供っぽいと思ったものの、そんなことは忘れたかのように激しく求められたのは言うまでもない。
以降は毎日のように付けてくれ、夜になると綺麗に磨いては数分間うっとりと眺めている始末だった。
ネックレスを見つめるエルは本当に嬉しそうで、ともすれば可愛らしかった。
その様子が脳裏に浮かんだからか、じんわりと愛しさが込み上げる。
けれど見つめられていることに少しの羞恥を感じ、さっとエルから目を逸らすとまっすぐに前を見ながら言った。
「っ、ああ。……結構進んだよな」
「でもゆっくりしてると暗くなっちゃうから、少し急ぎたいんだけど……大丈夫?」
エルが申し訳なさそうにするのは、いくら乗馬に慣れたと言っても長距離を馬上で過ごすのは負担だと思ったからだろう。
己が乗っている栗毛の馬はもちろん、シェーンハイトに至っては微塵も疲れを感じていないらしく、気遣ってくれるのがありがたい。
「そりゃあもちろん。あ、そういえばどこに泊まるんだ?」
王宮を発った時は昼前で、今が何時なのか分からないが、空は見渡す限り快晴だ。
しかし秋も深まった頃であれば太陽の傾きは早く、確かにエルの言うとおりすぐに日が暮れるだろう。
早いところ屋根のある建物に入り、自分達はもちろん馬達を休めた方が良さそうだ。
もっとも、王族が泊まれるような場所があるのかは分からないが。
「ここから山を一つ超えた辺りかな。父上が懇意にしてる伯爵が住んでるらしい」
話は付けてあるから大丈夫だよ、とこちらの心情を悟ったようにエルが続ける。
聞けばライアンと同年代のようで、時々王宮に出入りしているという。
「俺はあんまり話したことはないんだけど、来るのを楽しみにしてるって。……朔真?」
そこまで言い終わると、エルの不思議そうな声が耳に届いた。
「あ、いや。なんか、緊張するなぁって」
ははは、と力なく頬を掻く。
(勝手に民宿とかそういう所だと思ってた、って言ったら絶対笑われる……!)
心の中で自分に突っ込み、次いで納得する部分もあった。
時々忘れそうになるが、ここは自分が『居た』場所とは違うのだ。
本来生きていた世界を覚えているのは良いことだと思うが、場違いなことを言って呆れられたり不思議がられるのは避けたかった。
(いや、エルはそんなこと思って……そう、だな)
一つ考えると二つ三つと後ろ向きな考えが浮かび、気持ちが塞がっていく。
馬とは主の感情の機微を悟り、場合によっては暴れて振り落とすこともある──そう、シルヴィンから何度も説明を受けていた。
けれど一度考え出すと止まらず、ぐるぐると脳裏を埋め尽くすのは自己肯定感の低さを自虐するものばかりだった。
愛しい男の耳の縁が少し赤くなっていたのを見逃すはずもなく、アルトの背中が小さくなるまで見送る。
不意打ちをすればするほどアルトの頬は赤くなり、場合によっては怒られるまでしてしまうのがお約束になりつつあった。
「──シルヴィン」
やがてアルトが完全に見えなくなったのを認めると、エルは黙って成り行きを見守っていた男の名を呼んだ。
「は」
短い応答の声が聞こえ、ゆっくりとそちらに視線を向ける。
シルヴィンはエルの前へ跪き、頭を下げていた。
この男は臣下としてどこまでも忠実で、また年の離れた兄代わりでもある。
だからか多少の無理を承知の上で、つい甘えてしまう事も多々あった。
「王配には二人で、と言ったが『影』を連れて行く。構わないか」
「……は、何人ほどでしょう」
やや言い淀んだ気配を感じたものの、エルは短く続ける。
「少数の方がいい。あまり多いと気付かれるだろう」
それはアルトに向けてか、これから増えるであろう刺客へ向けてか、どちらの言葉かは自分でも分からない。
アルトには気付いて欲しいようで、そうなってしまったら余計に怖がらせるかもしれない。
もっとも、アルトに危険が迫れば何に変えても守ると心に刻んでいる。
しかし自身が怪我をすれば心配を掛けるだけでなく、最悪怒られて泣かれるだろう。
どんな表情でも愛おしくて可愛いと思うが、悲しい顔だけはさせたくなかった。
(朔真には悪いけど、何も知らない方が好きに動ける。まぁ……全部終わった時に教えたら怒られるだろうな)
たとえ怒っていてもあまり怖くなくて、笑いそうになるのを懸命に堪えているほどだ。
なのにあれで中々意志が強く、己と同じくらい頑固で心配性なきらいがあった。
自分だけに言えたことではないが、いらぬ負担を掛けて余計に緊張させたくはない。
「承知しました。では帰城後、『影』の中でも精鋭を寄越します」
「ああ、頼む。──もう楽にしてくれ」
シルヴィンは心得たというように頷くと、エルの了承から数拍して立ち上がる。
愛する男はあまり感情の分からない顔を怖がっていたように思うが、それはシルヴィンがこれまで数多の人間を殺し、血を浴びてきたからかもしれない。
シルヴィンは普段は王宮騎士の団長として、騎士達を取り纏める立場にある。
しかしそれは表向きで、人知れず王宮内外の闇や悪意から守る暗殺組織に籍を置いていた。
元々ライアンが王太子になった時は廃れつつあったようだが、即位すると同時にひっそりと復活させたらしい。
そこにはレオンも所属しており、夜になると影のように暗躍することから、存在を知る王族達は『影』と呼んでいる。
「……殿下」
シルヴィンが口を開くのに合わせたように、風が一層強く吹いた。
黒髪が揺れ、乱れつつある髪を抑えたままシルヴィンの方を振り向く。
「なんだ」
まさか呼び止められるとは思わず、柳眉を顰めて問い掛けた。
早くアルトの下へ行こうと歩き出していたため、不快感が露わになってしまうのはこの際仕方がない。
けれどシルヴィンはそんな己に一切臆することなく、まっすぐにこちらを見つめてきた。
「差し出がましいことをお聞きしますが、私も『影』に加わることは可能でしょうか」
新緑の瞳はいつになく鋭利で、少しの不信感を覚える。
「一応聞くが、理由はあるのか」
シルヴィンが自分から意見するなどごく少なく、またこれほど切実な瞳を向けられることはほとんどなかった。
王宮騎士団長と言えど、いついかなる時も敵が攻めてくる事を想定し、鍛錬をして備えなければならない。
部下を取り纏めるのも仕事の一つで、時として国王の護衛をする場合もある。
幸いにもライアンはしばらく王宮から出ないらしく、他にする事と言えば仲間内で剣の稽古をするくらいだ。
こうして丘の上へ出向くのも『王配に乗馬を教える』という名目で、その実護衛をしているのと変わらないのだが。
シルヴィンはすっと目を眇めると、静かな声で言った。
「殿下の譲位が正式に決定したと同時に、故郷へ戻ろうと思いまして。……私などの古株が居ても、扱い難いでしょうから」
そこで言葉を切ると、シルヴィンはエルの真正面までやってくる。
丁度人ひとり分の距離で、エルは自分よりもわずかに高い男の顔を見つめた。
まっすぐに向けられる表情に冗談の色はなく、あるのは決意だけだった。
「お嫌だと言うならばその通りにしますが、最後の仕事をしたいのです」
どうか、とシルヴィンが頭を下げる。
シルヴィンはライアンが王太子となってからしばらくして、王宮騎士団へ応募してすぐに配属されたらしい。
そこから数えると三十年を優に過ぎており、年齢によっては隠居を考える年だろう。
けれどシルヴィンは四十の半ばで、まだまだ壮健なふうに見える。
剣の腕にも長けているため、故郷へ戻らず後進の育成に回るのもいいのではないか。
(いや、何か考えることがあるんだ。それに、本当に辞めるなら父上に言うはずだから)
まだ王太子である自分に言っても、最終的な決定権はライアンにある。
そもそもライアンの代から仕えている男のため、自分に比べてシルヴィンに対する思い入れは違うだろう。
「最後、というのはなぜなのか教えてくれないのか」
あくまで疑問を口にする形で、エルは落ち着いた声で尋ねる。
きっとライアンであっても尋ねられると分かっていたのか、シルヴィンはそれまでの表情を一変させて口元へ笑みを浮かべた。
「はい。申し訳ございません」
謝罪する口調とは裏腹に、なぜ笑っているのか。
何かおかしなことを言ってしまったのか。
重ねて聞きたいことはあったが、これ以上聞いても無駄な気がしてエルは短く息を吐いた。
「……構わない。ただ、お前が影から支えてくれたら事足りるかもしれないな」
言外に『お前は必要だ』と言ったつもりだが、果たしてシルヴィンは普段と変わらない鋭い瞳を向けた。
「そうですか」
風は既に止んでおり、樹々が風に揺れて擦れる音が密やかに響いた。
◆◆◆
夏の暑さが和らぎ、はっきりと秋の匂いを感じる季節になった。
鮮やかな赤や黄色で色付いている色とりどりの樹々を横目に、アルトは馬に乗っていた。
栗毛の美しい毛並みの馬で、シルヴィンが『今の貴方様なら大丈夫でしょう』と言って借り受けたのだ。
先頭にはエルがおり、先日乗馬の練習に付き合ってくれたシェーンハイトに乗っている。
本来の主を背に乗せているためか、心做しか嬉しそうで軽快な足取りだった。
(本当に二人きり、なんだよな)
アルトはそっと周囲を見回す。
正直なところ、馬車や船に乗ってどこかへ行くと思っていた節があったのだ。
正式にエルと結婚してから先日で二年を迎え、それまで旅行らしい旅行をしてこなかった。
どこへ行くにも護衛や従者がついて回り、本当に二人きりになれるのは部屋に入った時だけ。
少しやきもきしていた部分もあったが、王宮が大変な時に二人でどこかへ行ってもいいものかと思う。
改めて不在にしても大丈夫なのか尋ねると、エルは手本のような微笑みのまま言った。
『何かあればレオンが対処してくれるから。それに、あいつが優秀じゃなかったら任せてないよ』
少し雑な口調を織り交ぜて言うさまは、心から信頼している証なのだろう。
ただ、エルの背後でレオンがぶつぶつと恨み言を吐いていたのが可哀想で、旅先で胃や頭痛に効く薬を買っていこうと思うほどだ。
エルは何かしら文句を言うかもしれないが、結局は大半のことを好きにさせてくれるのはありがたい。
馬を刺激しないよう、そろりと手綱を握る手に力を込める。
(夢みたいだ)
旅行が有言実行されただけでなく、誰の手も借りずに馬に乗ることになるとは思わず、王宮を出てしばらく経った今でも信じられない。
元の世界では乗馬など経験する暇もなかった。
それは恋愛も同じで、そもそもキスすらしたことがなかったのだ。
すべてエルが初めてで、人を愛することを教えてくれたのもエルだった。
こちらに向けてくる感情が重いと感じる時もあるが、それは自分が言えたことではないため小さく笑ってしまう。
(嬉しい、本当に)
心から感謝すると同時に、常に己のことを考えてくれて、もういいというほど甘やかしてくれる。
後者に至っては未だに恥ずかしくて申し訳なく思うが、エルのことだから美しい笑みを浮かべて言うのだろう。
「──疲れてない?」
そこまで考えると、右側からやや高い声が響いた。
「へ、っ」
図らずも素っ頓狂な声を上げてそちらを見れば、エルがにっこりと微笑んでいる。
いつの間にか隣りにシェーンハイトを付けていたようで、声を掛けてくれるまで気付かなかった。
エルは青いリボンで髪を一つに結び、首には昨年の誕生日を過ぎた頃に贈ったサファイアのネックレスを付けている。
小指の先ほどの大きさで、王族からすれば随分と安いものだと思うが、エルは泣きそうになりながらも喜んでくれた。
本当なら当日に祝いたかったが、その時はごく小さな喧嘩をしていて渡そうにも渡せなかったのだ。
加えて国王代理でレオン達と隣国へ行ってしまったため、その分遅れてしまったというのもある。
我ながら小さなことで喧嘩をするのは子供っぽいと思ったものの、そんなことは忘れたかのように激しく求められたのは言うまでもない。
以降は毎日のように付けてくれ、夜になると綺麗に磨いては数分間うっとりと眺めている始末だった。
ネックレスを見つめるエルは本当に嬉しそうで、ともすれば可愛らしかった。
その様子が脳裏に浮かんだからか、じんわりと愛しさが込み上げる。
けれど見つめられていることに少しの羞恥を感じ、さっとエルから目を逸らすとまっすぐに前を見ながら言った。
「っ、ああ。……結構進んだよな」
「でもゆっくりしてると暗くなっちゃうから、少し急ぎたいんだけど……大丈夫?」
エルが申し訳なさそうにするのは、いくら乗馬に慣れたと言っても長距離を馬上で過ごすのは負担だと思ったからだろう。
己が乗っている栗毛の馬はもちろん、シェーンハイトに至っては微塵も疲れを感じていないらしく、気遣ってくれるのがありがたい。
「そりゃあもちろん。あ、そういえばどこに泊まるんだ?」
王宮を発った時は昼前で、今が何時なのか分からないが、空は見渡す限り快晴だ。
しかし秋も深まった頃であれば太陽の傾きは早く、確かにエルの言うとおりすぐに日が暮れるだろう。
早いところ屋根のある建物に入り、自分達はもちろん馬達を休めた方が良さそうだ。
もっとも、王族が泊まれるような場所があるのかは分からないが。
「ここから山を一つ超えた辺りかな。父上が懇意にしてる伯爵が住んでるらしい」
話は付けてあるから大丈夫だよ、とこちらの心情を悟ったようにエルが続ける。
聞けばライアンと同年代のようで、時々王宮に出入りしているという。
「俺はあんまり話したことはないんだけど、来るのを楽しみにしてるって。……朔真?」
そこまで言い終わると、エルの不思議そうな声が耳に届いた。
「あ、いや。なんか、緊張するなぁって」
ははは、と力なく頬を掻く。
(勝手に民宿とかそういう所だと思ってた、って言ったら絶対笑われる……!)
心の中で自分に突っ込み、次いで納得する部分もあった。
時々忘れそうになるが、ここは自分が『居た』場所とは違うのだ。
本来生きていた世界を覚えているのは良いことだと思うが、場違いなことを言って呆れられたり不思議がられるのは避けたかった。
(いや、エルはそんなこと思って……そう、だな)
一つ考えると二つ三つと後ろ向きな考えが浮かび、気持ちが塞がっていく。
馬とは主の感情の機微を悟り、場合によっては暴れて振り落とすこともある──そう、シルヴィンから何度も説明を受けていた。
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