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第二部 二章
変わりゆく日々 2
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浅い呼吸を繰り返し、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
シャツをくつろげさせようかと思ったが、すべてが気だるいのかエルは扉に凭れたまま脚を投げ出し、指一本すら動かしていない。
「大丈夫、か……?」
とても大丈夫には見えそうにないが、アルトはそう聞かずにはいられなかった。
するとエルは弱々しく首を振り、のろのろと膝を抱え込むようにして顔を伏せた。
「は、……っ」
聞こえるのは苦しそうな呼吸だけで、身体の震えは少し和らいだものの、完全に収まる気配はない。
「……エル」
アルトは膝を突くと、エルの指通りのいい黒髪をそっと撫でた。
一瞬ぴくりと頭が動いたが、触れられていると安心するのか、されるがままだ。
「誰か呼んでくるから、ちょっと待って……嫌、か」
このままにしておく訳にもいかず、部屋の外に人を呼びに行こうとするもののすぐに頭を横に振られる。
「でも、このままじゃ辛いだろ? せめてベッドで寝ないと……」
「──いて」
尚も言い募ろうとすると、蚊の鳴くような声が聞こえた。
「ここ、いて。おれの、そばから……はなれない、で」
震える声音や身体はそのままに、エルが悲痛な声で呟く。
ぎゅうと手を握られ、そのままアルトは仕方なくエルの隣りに腰を下ろした。
これでは外へ出ようとしても、エルが扉の前に居るため出られない。
加えて廊下に人が通っているのかも分からず、焦燥感で額に汗が滲む。
(どう、したら……)
きゅうと心臓が痛いほど音を立て、鼓動が早くなる。
ここまで弱ったエルを見るのは初めてで、どうすればいいのか分からなかった。
そもそも体調の悪い人間を相手にした事などほとんどなく、加えて愛しい男が辛そうにしているのをただ見ているだけなのは耐えられなかった。
(ここでゆっくり、休めそうな場所……)
アルトは懸命に頭をはたらかせながら、落ち着きなく周囲を見回す。
部屋の奥にはやや大きなベッドがあるだけで、それ以外は小さな棚に申し訳程度の本が入れられているだけだ。
勢いで部屋に入ったはいいが誰かの部屋のようで、しかし使い込まれた形跡はほとんど感じられなかった。
がらんどうだが定期的に掃除がなされているのか、埃っぽくはないのが救いだろう。
見つけたベッドへ向けて手を引こうにも、エルに動く気は少しもないらしく、他の方法を考えついても堂々巡りでしかなかった。
「……なんだこれ」
ふとアルトの足元に何かが当たり、そっと空いた方の手で拾い上げる。
指先ほどの小さな塊は鈍く光っており、少し重さがあった。
「拳銃とかの弾、か?」
きらりと光るそれは小説の中でしか見たことはないが、無意識に口を突いて出ていた。
「──誰かいるのか」
「っ!」
不意に低い声が部屋の外から聞こえ、同時に扉がそろりと開けられる。
アルトは反射的に立ち上がり、扉に視線を向けた。
エルが凭れ掛かっているため廊下から漏れる光程度しか開いていなかったが、その隙間からはどす黒い血に似た瞳がうっすらと見えた。
「ミハルド、さん……?」
よく知った顔を思い浮かべ、アルトはその名を口にした。
「……王配殿下ですか。兄ではなくて申し訳ございません、レオンハルトです」
小さな謝罪をすると、感情の分からない声で男──レオンはゆっくりと続けた。
「こちらからかすかに声が聞こえ、駆け付けた次第なのですが……扉の前に何かを置いているのでしょうか」
「っ、助けてくれレオンさん! エルが、エルが……このままじゃ……!」
アルトは扉に向かって半ば叫ぶように言った。
知らず己の手はエルの手をぎゅうと痛いほど握っており、しかし先程のように力が込められる事はなかった。
「殿下が? ……落ち着いて。何があったのか、順を追って説明していただけますか」
レオンは一瞬言葉に詰まったものの、すぐに冷静な声音で事の経緯を促す。
エルの手を強く握ったまま、アルトは掻い摘んで事の次第を唇に乗せる。
「さっき、レティシア様に会ってきたんだ。でも途中から急にふらついて、退席したらもっと辛そうにしてて。エルは少し休んだらいいって言ってたけど……どんどん酷くなってる」
ちらりとエルを見つめると、喘鳴はそのままに肩で大きく息をしていた。
心做しか白い肌が更に白く見え、死人のような錯覚さえ覚える。
「鍵が開いてたから、休ませるためにここに連れてきた」
でも、とそこで言葉を切ると、扉の向こうにあるレオンの赤い瞳を見つめた。
「部屋を出た後から、ずっと震えてるんだ。俺の声も多分、聞こえてない。どうしようレオンさん……! 俺……おれ、エルがいなくなったら……!」
自分でも何を言っているのか理解しきれていないが、エルを守って欲しい──そんな想いで捲し立てる。
「……分かりました。衛兵を数名こちらに向かわせ、自室に医師を呼び寄せて参ります」
レオンはすぐに扉を閉めようとしたが、王配殿下、と扉の隙間から言うとこちらを見下ろした。
「貴方は私が戻るまで、殿下に声を掛けてさしあげてください。──きっと、その方が安心されるでしょう」
「……分かった」
その言葉を言い終わる前に薄く開けていた扉が閉まると、アルトは改めて床に膝を突いた。
レオンにしてはやや慌ただしい足音を聞きながら、エルの肩をそっと揺する。
「もう少ししたら、レオンさんと衛兵の皆が部屋に連れて行ってくれるって。その時に扉開けるから移動、できるか……?」
言いながら手を軽く引くと、そろりとエルが顔を上げた。
時間にしてこの部屋に来たのは十分にも満たないというのに、その表情は酷くやつれて見えた。
「さ、くま……?」
何度もゆっくりと瞳を瞬かせ、ぽそりと吐息に近い声で名を呼ぶとエルの身体がそのまま横に傾く。
「エル……!」
慌てて肩を貸そうとしたが、やや前──膝の上に頭が載せられた。
間一髪で床に直撃する事はなかったのを幸いに、汗で張り付いた髪を耳に掛ける。
「っ……!」
掠めるように触れた頬や首は火傷しそうなほど熱く、ともすればこのまま死んでしまうのではないか、という錯覚に陥った。
(いや、死なない。エルはこんなことじゃ、死なない……!)
自分に言い聞かせるように、心の中で『大丈夫』と繰り返す。
そうしなければとても心を保っておれず、レオンや衛兵が来るまでにこちらの意識が途切れてしまいそうだった。
「さく、ま。朔真……」
うわ言のようにエルが何度も何度も名前を呼んでくれ、知らず涙腺が緩む。
(エル……)
レティシアに会うまで普段通りだったというのに、ここまで不調になる原因が単なる体調不良ではない気がした。
「あなた、……は」
不意にエルの手が震え、アルトの手を摑む。
先程に比べて力はなかったが、握り返してくれた事が堪らなく嬉しく感じた。
「うん、何?」
涙を堪え、エルの唇に耳を寄せる。
「あなたは、おれから……はなれない? きらい、とか……おれのまえから、にげようとか……おもわない?」
やや泣きそうな、上擦った声でエルが囁くように問うた。
「何、言ってるんだよ」
どこかで聞いたような言葉が聞こえ、こんな時なのにふっと頬が緩む。
「離れないし、嫌いにもならない。もちろん、逃げようとか思わない。……ちゃんと、エルの傍にいるだろ?」
焦点の合っていないエルの瞳がこちらを向き、じっと見つめられる。
透明で美しい水色の瞳が今ばかりは翳りを帯びており、そんなエルにアルトは安心させるように微笑んだ。
いつもエルがこちらに向けてくれる笑みを真似ると、そっと頭を撫でて頬を撫でる。
熱い感覚が手の平に伝わり、それだけで泣きそうになってしまいそうだった。
(辛い、よな)
震えは収まっているものの、代われるものなら自分が今すぐにでも代わってやりたい、という感情が心の中を支配する。
それと同時に、レティシアと対峙した時のエルの恐れにも似た横顔を思い出し、かすかな疑問が浮かんだ。
(レティシア様かソフィアーナさん、もしくは二人ともが原因、なのか……?)
もしアルトの予想が当たっていたとすれば、真実がどうあれエルの傍に近付けるべきではないだろう。
公式な場では仕方ないが、そもそも『レティシアが呼んでいた』と伝えなければよかったのでは、という考えがふと頭をもたげる。
(いや、俺から伝えなくてもきっとレオンさんが言うから意味なんてない。でも)
エルはソフィアーナに抱き着かれた時、ほんの一瞬だけ目を見開いていた。
あれは突然の事に驚いたのではなく、ソフィアーナの何かが気に入らなかったのではないか。
(そう考えたらエルの言葉や行動も……昨日みたいな事も、全部説明がつく。あとはその何かだけ)
それさえ分かれば、エルを守る事が出来る。
エルは己を──『アルト』を守ろうとしてくれた時はもちろん、その後に本当の『朔真』を受け入れてくれたのだ。
あまりに大き過ぎる借りを、今度はこちらが返す番だと思った。
「……エル」
言いながらエルの頬に手を添えるとそっと顔を伏せ、ゆっくりと顔を傾ける。
こちらを見つめる瞳は優しさを滲ませているでもなく、愛おしそうに見つめ返すでもなく、あるのはただ虚空だけだった。
そろりと瞼を伏せると、周囲に闇が広がる。
アルトはきゅっと唇を噛み締め、愛しい男の頬を撫でた。
「ん、っ」
小さな声がエルの唇の端から漏れ、その声ごと己のそれを重ねた。
泣いていたのか、普段のキスよりもほんの少し塩辛い味がした。
シャツをくつろげさせようかと思ったが、すべてが気だるいのかエルは扉に凭れたまま脚を投げ出し、指一本すら動かしていない。
「大丈夫、か……?」
とても大丈夫には見えそうにないが、アルトはそう聞かずにはいられなかった。
するとエルは弱々しく首を振り、のろのろと膝を抱え込むようにして顔を伏せた。
「は、……っ」
聞こえるのは苦しそうな呼吸だけで、身体の震えは少し和らいだものの、完全に収まる気配はない。
「……エル」
アルトは膝を突くと、エルの指通りのいい黒髪をそっと撫でた。
一瞬ぴくりと頭が動いたが、触れられていると安心するのか、されるがままだ。
「誰か呼んでくるから、ちょっと待って……嫌、か」
このままにしておく訳にもいかず、部屋の外に人を呼びに行こうとするもののすぐに頭を横に振られる。
「でも、このままじゃ辛いだろ? せめてベッドで寝ないと……」
「──いて」
尚も言い募ろうとすると、蚊の鳴くような声が聞こえた。
「ここ、いて。おれの、そばから……はなれない、で」
震える声音や身体はそのままに、エルが悲痛な声で呟く。
ぎゅうと手を握られ、そのままアルトは仕方なくエルの隣りに腰を下ろした。
これでは外へ出ようとしても、エルが扉の前に居るため出られない。
加えて廊下に人が通っているのかも分からず、焦燥感で額に汗が滲む。
(どう、したら……)
きゅうと心臓が痛いほど音を立て、鼓動が早くなる。
ここまで弱ったエルを見るのは初めてで、どうすればいいのか分からなかった。
そもそも体調の悪い人間を相手にした事などほとんどなく、加えて愛しい男が辛そうにしているのをただ見ているだけなのは耐えられなかった。
(ここでゆっくり、休めそうな場所……)
アルトは懸命に頭をはたらかせながら、落ち着きなく周囲を見回す。
部屋の奥にはやや大きなベッドがあるだけで、それ以外は小さな棚に申し訳程度の本が入れられているだけだ。
勢いで部屋に入ったはいいが誰かの部屋のようで、しかし使い込まれた形跡はほとんど感じられなかった。
がらんどうだが定期的に掃除がなされているのか、埃っぽくはないのが救いだろう。
見つけたベッドへ向けて手を引こうにも、エルに動く気は少しもないらしく、他の方法を考えついても堂々巡りでしかなかった。
「……なんだこれ」
ふとアルトの足元に何かが当たり、そっと空いた方の手で拾い上げる。
指先ほどの小さな塊は鈍く光っており、少し重さがあった。
「拳銃とかの弾、か?」
きらりと光るそれは小説の中でしか見たことはないが、無意識に口を突いて出ていた。
「──誰かいるのか」
「っ!」
不意に低い声が部屋の外から聞こえ、同時に扉がそろりと開けられる。
アルトは反射的に立ち上がり、扉に視線を向けた。
エルが凭れ掛かっているため廊下から漏れる光程度しか開いていなかったが、その隙間からはどす黒い血に似た瞳がうっすらと見えた。
「ミハルド、さん……?」
よく知った顔を思い浮かべ、アルトはその名を口にした。
「……王配殿下ですか。兄ではなくて申し訳ございません、レオンハルトです」
小さな謝罪をすると、感情の分からない声で男──レオンはゆっくりと続けた。
「こちらからかすかに声が聞こえ、駆け付けた次第なのですが……扉の前に何かを置いているのでしょうか」
「っ、助けてくれレオンさん! エルが、エルが……このままじゃ……!」
アルトは扉に向かって半ば叫ぶように言った。
知らず己の手はエルの手をぎゅうと痛いほど握っており、しかし先程のように力が込められる事はなかった。
「殿下が? ……落ち着いて。何があったのか、順を追って説明していただけますか」
レオンは一瞬言葉に詰まったものの、すぐに冷静な声音で事の経緯を促す。
エルの手を強く握ったまま、アルトは掻い摘んで事の次第を唇に乗せる。
「さっき、レティシア様に会ってきたんだ。でも途中から急にふらついて、退席したらもっと辛そうにしてて。エルは少し休んだらいいって言ってたけど……どんどん酷くなってる」
ちらりとエルを見つめると、喘鳴はそのままに肩で大きく息をしていた。
心做しか白い肌が更に白く見え、死人のような錯覚さえ覚える。
「鍵が開いてたから、休ませるためにここに連れてきた」
でも、とそこで言葉を切ると、扉の向こうにあるレオンの赤い瞳を見つめた。
「部屋を出た後から、ずっと震えてるんだ。俺の声も多分、聞こえてない。どうしようレオンさん……! 俺……おれ、エルがいなくなったら……!」
自分でも何を言っているのか理解しきれていないが、エルを守って欲しい──そんな想いで捲し立てる。
「……分かりました。衛兵を数名こちらに向かわせ、自室に医師を呼び寄せて参ります」
レオンはすぐに扉を閉めようとしたが、王配殿下、と扉の隙間から言うとこちらを見下ろした。
「貴方は私が戻るまで、殿下に声を掛けてさしあげてください。──きっと、その方が安心されるでしょう」
「……分かった」
その言葉を言い終わる前に薄く開けていた扉が閉まると、アルトは改めて床に膝を突いた。
レオンにしてはやや慌ただしい足音を聞きながら、エルの肩をそっと揺する。
「もう少ししたら、レオンさんと衛兵の皆が部屋に連れて行ってくれるって。その時に扉開けるから移動、できるか……?」
言いながら手を軽く引くと、そろりとエルが顔を上げた。
時間にしてこの部屋に来たのは十分にも満たないというのに、その表情は酷くやつれて見えた。
「さ、くま……?」
何度もゆっくりと瞳を瞬かせ、ぽそりと吐息に近い声で名を呼ぶとエルの身体がそのまま横に傾く。
「エル……!」
慌てて肩を貸そうとしたが、やや前──膝の上に頭が載せられた。
間一髪で床に直撃する事はなかったのを幸いに、汗で張り付いた髪を耳に掛ける。
「っ……!」
掠めるように触れた頬や首は火傷しそうなほど熱く、ともすればこのまま死んでしまうのではないか、という錯覚に陥った。
(いや、死なない。エルはこんなことじゃ、死なない……!)
自分に言い聞かせるように、心の中で『大丈夫』と繰り返す。
そうしなければとても心を保っておれず、レオンや衛兵が来るまでにこちらの意識が途切れてしまいそうだった。
「さく、ま。朔真……」
うわ言のようにエルが何度も何度も名前を呼んでくれ、知らず涙腺が緩む。
(エル……)
レティシアに会うまで普段通りだったというのに、ここまで不調になる原因が単なる体調不良ではない気がした。
「あなた、……は」
不意にエルの手が震え、アルトの手を摑む。
先程に比べて力はなかったが、握り返してくれた事が堪らなく嬉しく感じた。
「うん、何?」
涙を堪え、エルの唇に耳を寄せる。
「あなたは、おれから……はなれない? きらい、とか……おれのまえから、にげようとか……おもわない?」
やや泣きそうな、上擦った声でエルが囁くように問うた。
「何、言ってるんだよ」
どこかで聞いたような言葉が聞こえ、こんな時なのにふっと頬が緩む。
「離れないし、嫌いにもならない。もちろん、逃げようとか思わない。……ちゃんと、エルの傍にいるだろ?」
焦点の合っていないエルの瞳がこちらを向き、じっと見つめられる。
透明で美しい水色の瞳が今ばかりは翳りを帯びており、そんなエルにアルトは安心させるように微笑んだ。
いつもエルがこちらに向けてくれる笑みを真似ると、そっと頭を撫でて頬を撫でる。
熱い感覚が手の平に伝わり、それだけで泣きそうになってしまいそうだった。
(辛い、よな)
震えは収まっているものの、代われるものなら自分が今すぐにでも代わってやりたい、という感情が心の中を支配する。
それと同時に、レティシアと対峙した時のエルの恐れにも似た横顔を思い出し、かすかな疑問が浮かんだ。
(レティシア様かソフィアーナさん、もしくは二人ともが原因、なのか……?)
もしアルトの予想が当たっていたとすれば、真実がどうあれエルの傍に近付けるべきではないだろう。
公式な場では仕方ないが、そもそも『レティシアが呼んでいた』と伝えなければよかったのでは、という考えがふと頭をもたげる。
(いや、俺から伝えなくてもきっとレオンさんが言うから意味なんてない。でも)
エルはソフィアーナに抱き着かれた時、ほんの一瞬だけ目を見開いていた。
あれは突然の事に驚いたのではなく、ソフィアーナの何かが気に入らなかったのではないか。
(そう考えたらエルの言葉や行動も……昨日みたいな事も、全部説明がつく。あとはその何かだけ)
それさえ分かれば、エルを守る事が出来る。
エルは己を──『アルト』を守ろうとしてくれた時はもちろん、その後に本当の『朔真』を受け入れてくれたのだ。
あまりに大き過ぎる借りを、今度はこちらが返す番だと思った。
「……エル」
言いながらエルの頬に手を添えるとそっと顔を伏せ、ゆっくりと顔を傾ける。
こちらを見つめる瞳は優しさを滲ませているでもなく、愛おしそうに見つめ返すでもなく、あるのはただ虚空だけだった。
そろりと瞼を伏せると、周囲に闇が広がる。
アルトはきゅっと唇を噛み締め、愛しい男の頬を撫でた。
「ん、っ」
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