【R-18】凛と咲き誇る花よ、誠の下に咲く華よ ー幕末異聞譚ー

月城雪華

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嘉永六年(1853)、春

試衛館の面々 弐

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(思えば私は兄上に何も返せていない)

 屋敷を出てしばらく、蒼馬の背に揺られながら凛は思いを巡らせる。
 蒼馬が鷹城屋の者達と京に上るまで、蒼馬がしてくれた事は沢山あった。

 この時は泣いてばかりいた自分を、その日鷹城屋であった出来事を面白おかしく話してくれ、笑わせてくれた。
 時々、稽古が終わった時には生家へ来てくれ、土産だと言って凛や弟妹らに菓子を分け与えてくれた。

 生家へやってくるのは、両親に元気でやっていると顔を見せる為だろう。
 伯父の屋敷へ身を寄せながら日々稽古に励む息子を、口では言わないが心配しているのは確かだった。

 蒼馬が顔を見せに来た日は両親共に機嫌が良く、その日の食事はほんの少し豪勢になる事が少なくない。
 幼心ながら蒼馬は決まりきっていた未来を進むのが嫌で、単身出ていったのだと思っていた。

 しかし、今よりももっと残酷な現実を知ってしまった凛には分かる。
 蒼馬が心から打ち込みたい事を見つけ、半ば家を飛び出すように伯父の元へ弟子入りしたのだと。

(何か今のうちに……何か、返せたらいいのに)

 蒼馬の肩に控えめに載せている小さな手を、そっと握り締める。
 心優しい兄が自分にしてくれた数々を、凛は蒼馬に返せていただろうか。

 上京してたった一度顔を合わせた時、蒼馬に何か言葉を掛けていただろうか。
 答えは否だ。何も返せていないし、労りの言葉一つ掛けていなかった。

 蒼馬に対する後悔は今も凛の中に渦巻いており、それは時にかせとなった。
 あの時少しでもこうしていたら、疎遠になどならなかったのかもしれない。

 あの時蒼馬を引き留めていたら、喧嘩別れしなかったのかもしれない。
 いや、仮に上手く事が運んだとしても、凛はきっと蒼馬の元から離れていた。

 蒼馬はこれから京の民にとって、なくてはならない存在になるのだ。
 その十年後には江戸に舞い戻って来るが、それを抜きにしても蒼馬が傍に居る時間は、多く見積って数年というところだろう。

(まずは兄上が喜ぶものを知らないと)

 だから何か恩を返したかった。
 蒼馬の帰りと入れ違うように、北へつ自分からせめてもの償いをしたかった。

 凛をここまで強くあろうと思わせてくれた、言わば師とも言える兄に。
 しかし、あの蒼馬のことだ。
 他でもない凛からの贈り物なら、どんなものでも喜ぶだろうと頭ではわかっている。

(……昔からずっと、兄上は私に優しくしてくれた。それなのに、私は何も差し上げられなかったから)

 今の凛の手元に金子があるのかは分からないが、次の日にでも蒼馬に贈るものを決めようと心に決める。

「凛」

 ゆったりと心地よい声が傍近くから届く。

「帰る前に少し寄り道するけどいいか?」

 前を向いたまま、蒼馬が落ち着いた声音で言った。

「寄り道、ですか?」

 凛はこてりと首を傾げる。

(気付かなかったけれど、この道は……)

 知らず物思いにふけっている間に、凛が何度も通り慣れた路地を蒼馬は歩いていた。

「ああ、もう少しで──」
「あれぇ、蒼馬くん?」

 蒼馬の言葉に被せるように、間延びした声が遠くから響く。

 「っ」

 凛は無意識の内に、蒼馬の肩に置いていた手に力を込める。
 いやに聞き覚えのある声は、間違えるはずもない。

「試衛館に用~?」

 僅かに凛から声の主の姿は見えないが、確信するしかなかった。
 程なくして道が開け、段々と周囲に建物がひしめく通りに出た。
 それと同時に、真正面に佇む者の顔形がはっきりしてくる。

 蒼馬と同じか少し年上の、少年と青年の狭間にいるような男。
 肩に付くか付かないかというほどの髪を、蒼い組紐で後ろへ無造作に結い上げ、背に垂らしている。

 普通の町人にしては上等な着物に身を包み、手にはほうきを持っている為、そこらの庭掃除を任されていたのだろう。
 にこにこと腹の読めない笑みで、こちらに笑い掛けてくる男を忘れるはずもない。

総司そうじ

 ──沖田おきた総司。
 後々、新選組しんせんぐみ一番組組長にして幹部になる男だ。
 最もその任は先の事件で剥奪される事になるが、それを抜きにしても剣の腕に長けた男だった。

「蒼馬くんさ、僕の方が年長者なんだから"さん"を付けてよ」

 拗ねた口調ではあるが、歌うように言った総司が蒼馬の傍までやってくる。

「お前を敬う気は無いからそれでいい」

 蒼馬はふいと横を向き、足早に通り過ぎようとした。

「可愛くないなぁ」

 蒼馬と同じ速度で歩きながら、総司はくすくすと小さく笑いながら悪態を吐く。

「あれ」

 未だ蒼馬に背負われていた凛と総司の視線が混じり合った。

(あ)

 総司にじっと見つめられると、何故か居心地が悪くなるのだ。
 樹々を思わせる美しい瞳は、人を屈服させる力でもあるのだろうか。

(……きっと八郎さんと似ているから。絶対にそう)

 口調や年齢、背格好こそ違えど、総司と八郎は表裏一体だと凛は思う。
 互いが互いに『似ていない』と言うが、凛からしてみれば息の合った二人だった。
 最も、その八郎とはこの時ばかりは出会ってもいないが。

「ね、おチビさん。名前は?」

 総司はにっこりと微笑み、凛に問い掛けた。
「え」

 何を言われたのか分からず、図らずも素っ頓狂な声が漏れる。

(おチビさんって……私のこと?)

 今の自分の状況がどこへ置かれているのか理解しているが、精神が『自分は子供』という事を拒否している。
 凛の応えがない事から聞こえていないと捉えたのか、総司は僅かに首を傾げた。

「分かる? 君のな・ま・え」

 総司は口元に人差し指を当て、殊更ゆっくりと問い掛けてくる。
 まるで本当に幼子を相手取るかのような行動に、そこで凛ははたと気付いた。

(あ、そうか。沖田さんとはこれが初対面だったっけ)

 最初に話した時期を忘れていたと言えば嘘になるが、この十年近くで世が目まぐるしく変わったからか、凛の記憶からすっかり抜け落ちていたようだ。

「凛、です」

 これで中々勘の鋭い総司に怪しまれないよう、素っ気なく言った。

「凛ちゃんね」
「わっ」

 名を教えた途端、総司は益々笑みを深め、凛の頭をくしゃりと雑に撫でた。

「行くぞ、凛。馬鹿が伝染うつる」

 されるがままになっている凛を守る為か、はたまた総司から距離を取りたいのか、或いは両方か。
 蒼馬は未だ凛を背負ったまま、試衛館のある場所へ向け足を踏み出した。

「ちょっと、それは聞き捨てならないんだけど!」

 後ろから総司の少し怒った声が響く。
 目指す道は同じだが、蒼馬はこのまま総司をこうとしている。

「あ、兄上」
「ん?」
「下ろしてください」

 やはり試衛館から遠回りする道に入ろうとした蒼馬を、そっと呼び止める。
 総司はこちらの出方を伺っているのか、追い掛けて来てはいない。

「駄目だ、怪我してるだろ。それに──」
「痺れはとっくに治まってます! 歩きたいんです」

 呆れた声ともうんざりした声ともつかない声音に、凛は内心怒りでいっぱいだった。

(兄上が過保護なのは今に始まった事じゃないけれど、いくらなんでも息苦しいもの)

 このまま暴れてしまおうかとも思ったが、凛はもうそこまで子供ではない。

 精神だけは成熟しきった大人のそれなのだ。
 何故過去へと来てしまったのか、少しでも探りを入れないといけない。

 かすり傷一つで妹を縛る兄の背から逃れ、まずは総司に訊ねる事を優先したかった。

「聞いてくれないなら、兄上とはもう話しませんから」

 澄ました口調で言うと、渋々とながら蒼馬はその場にしゃがみ込む。

「……手、繋いでなら良い」

 流石に『話さない』という言葉が効いたのか、凛は図らずも目をみはる。

(私に嫌われたく無さすぎではないですか、兄上)

 声には出さないが、あまりにも蒼馬が想像以上でこの先が心配になる。
 同時に何故自分に甘いのか、という疑問が益々深まった。
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