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嘉永六年(1853)、春
試衛館の面々 参
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「蒼馬くんさぁ」
蒼馬の背から下り、しっかりと手が繋がれたのを見計らって背後からのんびりとした、けれど蒼馬を批難する声が届く。
「本当になんなのさ、君。妹が良くて僕は駄目とか。そんなに僕のことが嫌い?」
ぷくりと小さく頬を膨らませた総司が、足早に蒼馬と凛の目の前までやってくる。
「そうだと言ったら泣くのか」
視線は合わせず、努めて冷静な声音で蒼馬が言った。
「まっさか~! それはそれで揶揄い甲斐はあるけど」
静かな蒼馬とは対照的に、総司はころころと声を上げて笑っている。
そのさまを水と油のようだな、と凛は思う。
相手が少しでも食いつく事を総司は敢えて言動に移し、その様子を楽しんでいるのだ。
最初こそ鬱陶しくも思ったが、総司の行動に慣れてしまえば可愛げのあるものだと気付いた。
元々年の離れた姉と二人で過ごしてきたからか、総司は年下の人間や小さな子供が好きなきらいがある。
最も、これは凛が後に総司から聞いた話な為、あまり声を大にして言えないことだった。
「……そういうところが苦手なんだ」
蒼馬が心底うんざりしたような溜息を吐く。
「あ、あはは」
蒼馬の気持ちは分からないでもないが、揶揄われるのは気に入られている証拠だろう。
凛とて蒼馬と同じ側だ。
そして、凛は総司の良き理解者として共に過ごた記憶が色濃い。
ただ、一つ気掛かりな事があった。
(お二人ってこんなに仲が悪かったっけ)
凛の記憶にある限り、二人は犬猿の仲という印象ではなかった。
寧ろ悪知恵を働かせ、大人達から拳骨を喰らっていたはずだ。
(もしかして)
想像したくない事が凛の頭を駆け巡った。
(私の知る過去と今の現実は違うの……?)
まさか、と凛は緩く首を振って考えを打ち消す。
(ただの偶然かもしれないし、深く考えるのは止めよう)
知らずのうちに蒼馬と繋いでいる手に力を込めた。
やがて三人は試衛館に辿り着いた。
そこらに軒を連ねる家々とは違い、立派な造りの門前には『試衛館』と板が立て掛けられている。
それは試衛館を設立した、初代宗家が手ずから書いた字だった。
「ただいま帰りましたー!」
引き戸を開け、試衛館内に響き渡るほどの大きさで総司が声を張り上げる。
「おや、帰ったのかい」
頭を月代に結った、少し年嵩の男が柔和な笑みで出迎えてくれた。
「源さん」
名を井上源三郎という男はこの試衛館のまとめ役であり、周助とは昔からの腐れ縁だと過去に聞き及んでいた。
「総司に蒼馬──そちらのお嬢さんは見ない顔だね」
順に名前を呼びつつ凛に行き着くと、じっと凝視される。
記憶とあまり変わっていない井上の姿に、じんわりと目頭が熱くなる心地がした。
「神宮寺凛、です」
それを悟られないよう、ぺこりと頭を下げて挨拶をする。
「凛ちゃんだね。むさ苦しい所だがゆっくりしていってくれ」
井上にそっと頭を撫でられると胸が温かくなるのは、今も昔も変わらない。
「はい!」
懐かしい感触に、自然と笑みが溢れる。
しかし、総司と初対面だという事は、それ即ち試衛館の人間達とも同じなのだ。
最初から関係を築くのは少しむず痒いが、これも仕方ない事だと割り切る。
(ひとまず失礼のないようにしないと)
凛が自分の思考の海に沈もうとしていると、背後から低く渋い声が響いた。
「今日は一段と騒がしいな」
振り向けば、井上と同じく頭を月代に結った、白髪混じりの初老の男が立っていた。
どうやら外に出ていたらしく、まだ少し肌寒い事もあってか襟巻きを纏っている。
「周助先生、また鰻でも食いに行ってたのかい」
すかさず井上が周助──この試衛館の主に問い掛けた。
「何故分かった?」
「臭いがするんだよ、着物から美味そうな匂いが」
井上はわざとらしく鼻を摘む仕草をし、顔付近をぱたぱたと手で扇ぐ。
「こりゃあしくじったな。で、なんだいその目は」
悪戯がばれてしまった子供のように、周助は僅かに顔を顰めた。
「今度は私も連れて行ってくれるんでしょうね?」
「まぁ……儂に一本取れたら考えよう」
「そのお身体では無理をしてしまうのでは」
「おい、そこらの年寄りと一緒にするな」
井上と周助が軽口を叩き合っているさまを、凛はぼうっと見つめた。
(源さんと周助先生は仲が良いなぁ)
今も昔も、と心の中で付け加える。
井上は周助が試衛館を継いだ早くから、弟子入りした。
今では門下生らを取り纏め、時には父のように兄のように優しく諭す存在だ。
浪士組──後の新選組である──が上京すると決まった時も、数多集まった男達を取り纏めたのも井上だ。
こうした意味では、今も昔も井上の存在はなくてはならないものだと凛は思う。
試衛館の中でも特に年長者ということもあるが、普段は温厚な性格だ。一度怒らせてしまえば手が付けられなくなる。
しかし時々茶目っ気がある為、そこが仲間達に好かれる所以だろうか。
「儂に勝とうなんざ百年早いと何度言えば分かる!」
「やってみなければ分からないでしょうが! そうやって稽古も付けてくれないのは、逃げてるのと同じじゃないのかい?」
「逃げてなんぞおらん! ただ今日は休むと言っとるんじゃ!」
「だから──」
師匠と弟子の口喧嘩は時として苛烈になる事もあるが、これが試衛館の日常だ。
(……少し言い合い過ぎな気もするけれど)
凛は内心で苦笑する。
こうして子供のように言い合うさまは過去で何度も見ている為慣れているが、そろそろ限界が近い。
「兄上……!」
ぐいと蒼馬の手を引き、小さく抗議する。
「っと、悪い」
蒼馬には屋敷を出る前に『怪我をしているから』と背負われ、試衛館の手前で下ろされた。
そこからずっと手を繋いでくれているのはいいが、ぎゅうぎゅうと加減なく握り締められると流石に痛かった。
蒼馬の背から下り、しっかりと手が繋がれたのを見計らって背後からのんびりとした、けれど蒼馬を批難する声が届く。
「本当になんなのさ、君。妹が良くて僕は駄目とか。そんなに僕のことが嫌い?」
ぷくりと小さく頬を膨らませた総司が、足早に蒼馬と凛の目の前までやってくる。
「そうだと言ったら泣くのか」
視線は合わせず、努めて冷静な声音で蒼馬が言った。
「まっさか~! それはそれで揶揄い甲斐はあるけど」
静かな蒼馬とは対照的に、総司はころころと声を上げて笑っている。
そのさまを水と油のようだな、と凛は思う。
相手が少しでも食いつく事を総司は敢えて言動に移し、その様子を楽しんでいるのだ。
最初こそ鬱陶しくも思ったが、総司の行動に慣れてしまえば可愛げのあるものだと気付いた。
元々年の離れた姉と二人で過ごしてきたからか、総司は年下の人間や小さな子供が好きなきらいがある。
最も、これは凛が後に総司から聞いた話な為、あまり声を大にして言えないことだった。
「……そういうところが苦手なんだ」
蒼馬が心底うんざりしたような溜息を吐く。
「あ、あはは」
蒼馬の気持ちは分からないでもないが、揶揄われるのは気に入られている証拠だろう。
凛とて蒼馬と同じ側だ。
そして、凛は総司の良き理解者として共に過ごた記憶が色濃い。
ただ、一つ気掛かりな事があった。
(お二人ってこんなに仲が悪かったっけ)
凛の記憶にある限り、二人は犬猿の仲という印象ではなかった。
寧ろ悪知恵を働かせ、大人達から拳骨を喰らっていたはずだ。
(もしかして)
想像したくない事が凛の頭を駆け巡った。
(私の知る過去と今の現実は違うの……?)
まさか、と凛は緩く首を振って考えを打ち消す。
(ただの偶然かもしれないし、深く考えるのは止めよう)
知らずのうちに蒼馬と繋いでいる手に力を込めた。
やがて三人は試衛館に辿り着いた。
そこらに軒を連ねる家々とは違い、立派な造りの門前には『試衛館』と板が立て掛けられている。
それは試衛館を設立した、初代宗家が手ずから書いた字だった。
「ただいま帰りましたー!」
引き戸を開け、試衛館内に響き渡るほどの大きさで総司が声を張り上げる。
「おや、帰ったのかい」
頭を月代に結った、少し年嵩の男が柔和な笑みで出迎えてくれた。
「源さん」
名を井上源三郎という男はこの試衛館のまとめ役であり、周助とは昔からの腐れ縁だと過去に聞き及んでいた。
「総司に蒼馬──そちらのお嬢さんは見ない顔だね」
順に名前を呼びつつ凛に行き着くと、じっと凝視される。
記憶とあまり変わっていない井上の姿に、じんわりと目頭が熱くなる心地がした。
「神宮寺凛、です」
それを悟られないよう、ぺこりと頭を下げて挨拶をする。
「凛ちゃんだね。むさ苦しい所だがゆっくりしていってくれ」
井上にそっと頭を撫でられると胸が温かくなるのは、今も昔も変わらない。
「はい!」
懐かしい感触に、自然と笑みが溢れる。
しかし、総司と初対面だという事は、それ即ち試衛館の人間達とも同じなのだ。
最初から関係を築くのは少しむず痒いが、これも仕方ない事だと割り切る。
(ひとまず失礼のないようにしないと)
凛が自分の思考の海に沈もうとしていると、背後から低く渋い声が響いた。
「今日は一段と騒がしいな」
振り向けば、井上と同じく頭を月代に結った、白髪混じりの初老の男が立っていた。
どうやら外に出ていたらしく、まだ少し肌寒い事もあってか襟巻きを纏っている。
「周助先生、また鰻でも食いに行ってたのかい」
すかさず井上が周助──この試衛館の主に問い掛けた。
「何故分かった?」
「臭いがするんだよ、着物から美味そうな匂いが」
井上はわざとらしく鼻を摘む仕草をし、顔付近をぱたぱたと手で扇ぐ。
「こりゃあしくじったな。で、なんだいその目は」
悪戯がばれてしまった子供のように、周助は僅かに顔を顰めた。
「今度は私も連れて行ってくれるんでしょうね?」
「まぁ……儂に一本取れたら考えよう」
「そのお身体では無理をしてしまうのでは」
「おい、そこらの年寄りと一緒にするな」
井上と周助が軽口を叩き合っているさまを、凛はぼうっと見つめた。
(源さんと周助先生は仲が良いなぁ)
今も昔も、と心の中で付け加える。
井上は周助が試衛館を継いだ早くから、弟子入りした。
今では門下生らを取り纏め、時には父のように兄のように優しく諭す存在だ。
浪士組──後の新選組である──が上京すると決まった時も、数多集まった男達を取り纏めたのも井上だ。
こうした意味では、今も昔も井上の存在はなくてはならないものだと凛は思う。
試衛館の中でも特に年長者ということもあるが、普段は温厚な性格だ。一度怒らせてしまえば手が付けられなくなる。
しかし時々茶目っ気がある為、そこが仲間達に好かれる所以だろうか。
「儂に勝とうなんざ百年早いと何度言えば分かる!」
「やってみなければ分からないでしょうが! そうやって稽古も付けてくれないのは、逃げてるのと同じじゃないのかい?」
「逃げてなんぞおらん! ただ今日は休むと言っとるんじゃ!」
「だから──」
師匠と弟子の口喧嘩は時として苛烈になる事もあるが、これが試衛館の日常だ。
(……少し言い合い過ぎな気もするけれど)
凛は内心で苦笑する。
こうして子供のように言い合うさまは過去で何度も見ている為慣れているが、そろそろ限界が近い。
「兄上……!」
ぐいと蒼馬の手を引き、小さく抗議する。
「っと、悪い」
蒼馬には屋敷を出る前に『怪我をしているから』と背負われ、試衛館の手前で下ろされた。
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