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3. そうして私のこれからは

18枚目 密かに想う

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 そうして。百合に「喧嘩してるんなら仲直りしなさい!」と言われ、嫌々ながら葵は千秋の部屋の前に立っていた。
 扉一枚挟んだドアから、千秋の負のオーラが流れているようで。

 (怖いぃぃぃぃ!!!!)

 ここまでは葵の想像でしかないので、なんとも言えない。
 些細な事で怒る性格ではないし、寧ろ葵が一方的に避けているだけなのだ。
 千秋は悪くない、と頭では分かっていても少しの理性が拒否する。何故だか分からないが、嫌だと思った。

 (落ち着け私……。さぁ、扉開けて!)

 脳内で某映画の歌を流しながら、ドアノブに手を掛ける。
 ガチャリと音がした。
 恐る恐る部屋の中を覗き見ると、千秋はドアに背を向けて机と向かい合っている。

 「ん……あぁ、葵。帰ってたのな、おかえり」

 にこりと振り返って微笑みを向ける兄は、いつも通り。それに挨拶もしてくれた。

 「……ん、ただいま」

 もそりと口の中で呟くように言う。これが今の葵ができる精一杯だ。

 「もう飯できたのか? 呼びに来てくれるなんて葵はいい子だなぁ」

 今の今まで座っていた椅子から立ち上がると、ドアの前で棒立ちになっていた葵の前まで歩み寄る。
 わしわしと無遠慮に頭を撫でるさまは、やはり優しい兄だ。

 ちらりと机の上を盗み見る。教科書類が二、三冊広げられており、見た目にそぐわず几帳面な字で書かれたノート。
 どうやら近々ある講義の予習をしているらしかった。

 千秋は元々真面目だ。髪を染めたのも、気分転換というだけで陽キャではない。
 ただ、優しく誰にでも平等なその性格が同年代、果てには年下までとりこにするのだ。

 そんな兄に呆れる事もあるが、やはり嫌いにはなれなくて。

 「ごめんなさい」
 「……ん? 何に謝ってんの?」

 首を傾げて問い掛ける千秋の顔は、心底分かっていないようだ。
 天然なのか、それとも本当に気にしていなかったのか。きょとんとした顔のまま、千秋が葵を見つめる。

 「……朝、生意気なこと言ったでしょ。それで兄さんに謝らなきゃって、思って」

 段々と語尾がしりすぼみしてくる。 
 けれど、朝から考えに考えていたことは言えた。後は千秋の返答を待つのみだ。

 「んな事気にしなくてもいいのに。お前のことは俺が一番分かってるんだからさ、大丈夫だって。な?」

 葵の心情を分かってか、再度頭を撫でられる。今度は安心させるように優しく、ゆっくりと。
 緩やかな癖のある髪を撫でてくれるのは、千秋だけだ。何故だか千秋以外の異性──同性もだが──葵の頭を撫でる者はいない。
 まぁそこの所は気にしていない、というのが葵だ。スキンシップを取りたいなら取ればいい。但し、気を許していない者からは全力で拒否するが。

 「そう、ね……。兄さんはそういう人だったって忘れてた」
 「ん?」

 葵が言った小さな呟きは、千秋に聞こえていないようだった。いや、この兄の場合は聞こえていないフリをしているのかもしれないが。

 「……なんでもない! もうすぐ夕飯だから、早く降りてきて。母さんを待たせちゃ怖いって知ってるでしょ?」

 しかし、これ幸いというように葵は千秋の身体を突っぱねた。
 異性ということもあってか、少しらせただけだが。

 「っと……。分かった、今から行くよ」
 「呼びにきた私が怒られるんだからね」

 ダメ押しの言葉も忘れず、半ば逃げるようにドアを開けて階下へ降りる。


 ◆◆◆


 階下へ降りていく音を聞きながら、千秋はガサガサと明日の予習をしていた机の上を片付ける。

 コツリと手に何かが当たった。それは長方形の小さなフォトフレーム。
 その中には小さな頃の葵が写っていた。
 傍には千秋も写っており、兄妹揃って輝かんばかりの笑顔を見せている。

 何かの拍子で倒れてしまったのだろうか。
 その写真を机の上でも見える場所に立て、千秋は独りごちる。

 「本当にお前は──」

 その言葉は誰が聞いているでもなく、空気に溶けて消えていった。
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