黒豹陛下の溺愛生活

月城雪華

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四章

レオという男 3

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(なんで誰もいないんだ? ……いやそれより)

 この臭いの出処がどこなのか分からないが、千載一遇の機会だというのは理解した。

 アレンは鼻を手で覆い、もう一度辺りを見回した。

 幸運なことに、左右に配置されていた衛兵の姿がどこにも見当たらない。

 無謀極まりないが、扉から顔だけを出して素早く左右を見ても、この廊下を通る衛兵の影は一つもなかった。

「さっきまで居た、よな……?」

 マナとティアラが部屋に入って来た時は、確かに衛兵の気配がしたのだ。

 それが今では誰もおらず、物悲しく自分の声が響くだけだ。

 一度だけ部屋の外を見ようと、今のように扉を開けた事があった。

 しかしすぐに扉の左右を守っていた衛兵に気付かれてしまい、即座に『何をしているのです』と凄まれた。

『貴方は一切の許可なく、この部屋から出てはなりません。脱走などされては私どもの首が飛びます』

 低く冷静な口調はアレンを怯えさせるためなのか、感情が見えない。

 こちらを見下ろす灰色の瞳は冷たく、ともすれば凍てつくようですぐに顔を俯けて扉を閉めた。

 今思えば衛兵はただ、己の務めを果たそうとしていたのだと分かる。

 けれどその日のうちにレオに報告したのか、厳重に鍵を掛けられてしまった。

 唯一の出入口に鍵を掛けられては、脱走など不可能だ。

 ならば部屋に来る者に『部屋から出せ』と頼んで回った。

 レオは頑として首を縦に振らず、かと言ってマナに言っても苦笑いして濁されるだけで、使用人に至っては会話すら避けられている。

 お陰でベッドで過ごす毎日が過ぎ、今日もレオの訪れを待つのかと思っていた時にこれだ。

(城から出られるかも、しれない)

 そんな淡い期待がむくむくと湧き上がり、気付けばアレンは脚を踏み出していた。

 かかとに感じる感触は少し固かったが、走れないほどではない。

 周囲に注意しながら廊下を走って行けば、城の外へ出られるはずだった。

 ところが一歩廊下を出ると、どこかから漂う臭いが一層強くなる。

「っ……!」

 堪らずアレンはその場にしゃがみ込み、しかし壁に手を突いてなんとか耐える。

 マナとティアラが退室してからそう時間は経っていないが、この臭気を感じるのはアレンだけなのだろうか。

 しかしそうだとすれば、城内に他の獣人──肉食系獣人の姿が見当たらないのはなぜなのか。

 この城は肉食系獣人がほとんどを占めているようで、同じ者であればすぐに異変が起きた事に気付くはずなのだ。

 マナはフクロウと共に居るため鳥族──その中でも草食系寄りなのか、肉食系でもあまり匂いに敏感ではないのかのどちらかだろう。

 そのためなんら異変を感じず、自分の持ち場へ向かった可能性が高い。

(マナもそうだけど、誰かに会えば部屋に戻される)

 そうなればまた逆戻りで、この好機を逃せば更に出歩けないのは確実だった。

 最悪部屋の中まで監視される気がして、それを想像しただけで尻尾が下がる。

 アレンはぎりりと歯を食いしばり、壁伝いに歩き出した。

 このまま留まっていてもいつか臭いが落ち着き、戻ってきた衛兵に取り押さえられるだろう。

 それだけは嫌で、懸命に脚を動かす。

 似た装飾の扉やどこまでも長い廊下が続き、どれほど歩いたのか分からなくなった頃、やがて臭いの元が薄れた気がした。

「は、っ……はぁ……」

 無意識に詰めていた息を、細く長く吐き出す。

 まだ完全に臭いが消えた訳ではないが、それでも幾分か呼吸が楽になった。

(……ずっと同じ所を歩いてる気がする)

 臭いから遠ざかるのに夢中だったからか、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。

 そう変わらない景色は目印となるものがなく、あったとしてもそれを見る余裕は無いに等しい。

 加えてわずかにだが、ちらほらと使用人の気配がする。

 ばたばたと走る音は衛兵のものなのか判然としないが、どうしてか空気に緊迫感があった。

「──おや、これは珍しい」

「っ……!」

 すると背後からどこかしわがれた声が聞こえ、アレンはびくりと肩を跳ねさせた。

(俺のことを知って、る……?)

 それは城の、ひいてはレオの側近や王に近しい立場の獣人だろう。

 そうでなければ、わざわざアレンに声を掛ける者はいないのだ。

 グルル、と小さく喉が鳴る。

 こちらの姿を見ても捕えないところを見るに、反応を伺っている気がしてならない。

 何か適当な理由を付けて、早いところ離れなければいけない。

 なのにアレンの身体は次第に逸る意思に反して、声の主の方を向いた。

 十メートルほど先には十歳ほどの子どもを筆頭に、五人の獣人が居た。

「ああ、本当だ。陛下の想い人殿ではありませんか」

 その中の年若い獣人がアレンに気付き、にこりと微笑む。

 柔らかくゆっくりとした声は、先程投げ掛けてきた獣人とは別のものだ。

 やや青みのかった銀髪に、頭上にある耳は時折ぴくぴくと動いている。

 右の耳にはごく小さな切れ込みがあり、加えて右目から頬に掛けて大きな切り傷があった。

 しかし子どもを抜いた五人の中でも若い見た目以上に、にこにこと柔らかい雰囲気は他の獣人から好かれる者のそれだろう。

 ただ、少しも逸らすことなく見つめてくる青い瞳は気味が悪いほど鋭利で、紛れもない敵意を感じた。

「こんな所でどうなさったのです?」

 獣人は尚も言葉を重ねてくる。

 目を細めながら、さも親しげに紡がれた『想い人』という言葉をアレンはすぐに理解できなかった。

(想い人……? 俺が、レオの……?)

 もしレオに愛される未来があるのならば、と考えなかった訳ではない。

 これは自分の片想いだと思っていたところもあり、しかし行動を起こす前に唐突な事があったからか、今となっては純粋な好意よりも恐怖の方が上回っていたのだ。

(じゃあ伴侶っていうのも、レオの本音で……)

 部屋から出せ、の返答にレオは決まって『伴侶』という言葉を使った。

 最初こそアレンを留め置くための建前上の理由だと思っていたが、この獣人の言葉が本当ならレオに悪いことをしてしまったのではないか。

 泣いて拒むのはもちろん、最悪の場合酷いことを言ってしまったのではないか。

 けれどその時は決まって苦く笑い、お仕置きと称して限りない絶頂へ追いやられるのが常なのだが。

「まさかお会いするとは思いませんでした。こんなみすぼらしい格好ですみません」

 ご容赦ください、と謝罪する獣人の腰はどこまでも低い。

 確かに子ども以外の獣人は、ところどころ土や泥に汚れていた。

 廊下を出る時に感じた臭気とはまた違うが、スラムに居たアレンには馴染みのある臭いだ。

 口を開いた獣人以外は目を逸らすか伏せるかで、一向にこちらを見ようとしない。

 目が合ってもまるで汚いものを見るかのような、侮蔑を含んだ視線だった。

(場違いなのは俺が一番よく分かってる)

 だから逃げようとしていたのに、その途中で呼び止められたのだ。

 しかし、仮にも身分が高いであろう相手の前でこう思うのは失礼だと理解しているが、この場から逃げなければいけない気がした。

 今すぐあの部屋に引き返したいような、そんな感情が頭をもたげる。

 ──早く戻っておいで、アレン。

「っ……」

 アレンは小さく声を漏らした。

 レオの低く優しい声が聞こえた気がして、ぱちぱちと目を瞬かせる。

 この場には絶対にいないであろう男の顔が浮かんでは消え、きゅうと手の平を握り締める。

(違う、これは罠だ。俺を油断させるための)

 心の中で何度も『違う』と繰り返す。

 そうだとしてもなぜ今日なのか分からないが、逃げるのに早いに越したことはない。

 今からでもこの獣人らに事情を話せば、レオに気付かれないよう手助けしてくれる可能性も捨てきれない。

「あ、あの!」

 すると、それまで黙っていた子どもが不意に声高に言った。

「殿下」

 すかさず獣人が声を上げたが、その子はきらきらとした大きな金色の瞳を更に丸くして続ける。

「おっきな耳だな、って。ねぇアルフェル、綺麗な方だね」

 わずかに上気した頬で獣人──アルフェルを見上げる。

 さも興奮した顔を間近で浴びたからか、アルフェルは困惑したように微笑んだ。

「……そうですね」

 しかし何事もなかったように短く相槌を打つ。

 まさかアレンに声を掛けるとは思わなかったらしく、アルフェルは語気を強めて言った。

「けれどルーカス様、貴方は仮にも王太子なのです。特にこの方は陛下の大切な方ですから──」

 子ども──ルーカスに言い聞かせるため、アルフェルは目線を合わせた。

 やや汚れているアルフェルらは分からないが、こうして見るとルーカスが身に付けている衣服は特に上等なものだと分かる。

 むしろアレンの纏う絹よりも遙かに良い素材が使われている、と漠然とながら思った。

 こちらをじっと見つめてくる金色の瞳はきらきらと輝いていたが、アルフェルの話を聞いている間も背後の尻尾が堪えきれないように緩く揺れている。

 自分の感情に素直なのだな、とアレンは弟を見ているような気持ちにさせられた。

 しかしほんの少し目線を変えれば、ルーカスよりも興味深そうに見つめてくるアルフェル以外の獣人の視線が突き刺さる。

(って、こうしてる場合じゃない。……逃げないと)

 アレンは短く息を吸い込んだ。

 じわじわと獲物を見定める猛禽類もうきんるいのような、ともすれば捕食者に睨み付けられているかのような恐怖を感じた。

 それはレオとはまた違った感情で、なんと形容していいか分からない。

 ただアレンに敵意を隠してないところを見るに、よく思われていないのは事実だった。

「──おっと、お時間を取らせてしまいましたね。重ねて申し訳ございません、どこかへ向かわれる予定だったのでしょう」

 するとアルフェルが今気付いたというように、眉を下げて謝罪する。

 一見アレンのことを案じてくれているようだが、こちらの方が上手だという意思を感じさせる口調に、知らず耳が下がって尻尾が総毛立つ。

「あ、いえ……」

 レオに対する時の口調で答える訳にもいかず、かと言って『今から城を脱出する』とは言えず、アレンは当たり障りない程度に短く答えた。

 この場に居る獣人達は特に厄介だ──そう、アレンの中の本能が警鐘を鳴らしている。

 どちらにしろ、ここから離れてしまえば後は自由なのだ。

 但し、衛兵や使用人に見つからないようにする必要があるのだが。

「えっ、と……じゃあ、俺はこれで」

「ああ、そうだ」

 そう言ってアレンがきびすを返した時、どこか間延びした芝居掛かった声が響く。

「これは私の独り言なのですが、ここから一つ目の角を曲がった先の部屋は、鍵が掛かっていないとか。誰かから逃げるのには打って付けらしいですよ」

「っ」

(なんで気付かれた……!?)

 その声はアルフェルのもので、踏み出そうとしていた脚が一瞬止まる。

 どこへ向かうのかはもちろんだが、そもそも必要最低限のことしか言っていないのだ。

 顔に出ていたのかとも思ったが、レオのように察しがいい獣人であれば気付くのだと思い直す。

(けど助けてくれた、んだよな。……多分)

 他の年老いた獣人らに比べて、アルフェルは味方なのかもしれない──そんな淡い期待が頭をもたげる。

「……ありがとう、ございます」

 アレンは小さく口の中で囁く。

(今、どうしてとか考えるのは後だ)

 聞こえていたかどうか分からないが、それ以上にせっかくアルフェルが小さな逃げ道を作ってくれたのだ。

 一刻も早く、この息苦しい空間から離れたかった。

 アレンは部屋を出た時と同じく強く床を蹴り、まっすぐに廊下を走った。




 ◆◆◆



 
 城に着いてすぐ、唐突に出くわした『王の伴侶』の姿が見えなくなった頃、アルフェルがふっと目を眇めた。

「──よくもまぁ、あんなにみにくく弱そうな方を選んだものだ。見た目こそ違えど、所詮は同じ穴のむじなということか」

 それはアレンと接していた時よりもずっと低く、冷たい声だった。

 同時にベイナードが十年前に即位してから、少しも変わっていないのだと再確認する。

 早く結婚して子を成せ、と暗に言ったのは紛れもない自分だ。

 しかしなんの音沙汰もなく『アレンを伴侶にする』と、世間話でもするかのように言ってきた時はさしものアルフェルも耳を疑った。

 それに相手が男で、少し手を加えれば脆く崩れ去ってしまうような獣人だと誰が思っただろうか。

 アルフェルはちらりと朋輩──アレンの一挙手一投足を注視してくれていた獣人を見る。

 その獣人は父の右腕だが、最近では自分と行動を共にしてくれている頼れる男だった。

「あまりそういうことを言うものではない。しかし、これではすぐに取って喰われてしまうだろうな」

 白くなりつつある髭を撫でながら、アルフェルを見つめ返す。

「結局のところ、殿下の方が優れていると知らぬのだろう。あの若造は」

 やや濁った新緑の瞳の奥には爛々とした闘志が燃え滾り、小さくなっていくアレンの背中を射殺さんとするかのようだ。

「本来なら殿下こそが王にふさわしいというのに……なぜもっと早くお生まれにならなかったのか」

「ウェルデント殿、言い過ぎでしょう」

 ルーカス様が居るのですよ、とアルフェルは尚も続けようとするウェルデントをたしなめる。

 幼いとはいえルーカスもあと数年すれば成人し、この十年で何が起きたのか嫌でも理解する時が必ずやってくる。

 そして成人した暁にはその時まで玉座に座っている男を蹴落とし、旧国名であるロドリネス王国へ改めるのだ。

 王は病か事故で帰らぬ者になったとし、平然とルーカスを玉座へ就ければいい。

 たとえルーカスが王になる事を拒んだとて、甘い言葉で脅すなど易いものだ。

「ねぇねぇアルフェル。あのひと、また会えるかなぁ」

 するとルーカスが大きな瞳を輝かせ、先程と同じように問い掛けてくる。

 ぴこぴこと忙しなく動く小さな耳はもちろん、尻尾に至っては先程とは比べ物にならないほど激しく左右に動いている。

 よっぽどアレンに興味があるのか、はたまたただ遊びたいだけなのか、アルフェルはふっと笑みを口元に刻んだ。

(無邪気なのは悪いことではないが……)

「ええ、また会えますよ。貴方がしっかりと務めを果たせば、すぐにでも」

 今はただ、この幼い王太子の望む言葉を吐き、いずれ自分の駒として動かす事が先決だ。

 アルフェルはそろりとルーカスの柔らかな茶髪を撫で、思う。

(貴方が玉座に就いてくれなければ困るんだ)
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