虚構の影絵

笹森賢二

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#04 夜の迷路

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   ──此処ではない世界。



 砂の町
   ──潰される。


 何の変哲もない朝の筈だった。あばら屋の一番奥、畳の上に敷いた布団の中で目を覚ました。習慣のまま携帯電話で時間を確認する。デジタル表示は午前八時を示していた。慌てて飛び起きて、直ぐに頭を描いた。開いたままのカーテンの向こう、ガラス越しに見える庭は未だ真っ暗だった。午前と午後を見間違ったのかと思い、もう一度携帯電話を見たが相変わらず午前八時と表示されている。机の上に腕時計があったからそれを見ると午後五時と表示されている。机の隅にある置時計は午前十時半を、見覚えない壁掛け時計は午後二時を指していた。訳が分からなくなりかけたが、とりあえずテレビを点ければ何時なのか分かるかも知れないと思い襖を開けて進んだ。居間を覗くと蛇が居た。退屈そうな顔で二つの座布団を占拠している。そいつはニヤニヤと笑いながら顎でテレビのリモコンを押した。映し出されたのは異様な光景だった。恐らく人が喋っているのだろうが、その表面に沿って大量の砂が流れていてよく見えない。音声も一応の音階を持っているだけのノイズで、一つだけ妙に鮮明に浮かぶテロップは絵のような記号のような文字のような、まるで理解できない言語だった。蛇がげたげたと笑い始めたので、リモコンを取り上げテレビを消した。蛇は諧謔とも愉悦とも取れない表情を浮かべて裏口の方へ滑って行った。時間は分からないままだが、仕方がない。朝に人と会う約束があるのだ。支度だけしておけば問題はないだろう。そいつはこの家まで来る事になっている。シャワーを浴びて湯船に浸かる。見るともなく見てしまった操作パネルの時間表示は正午だった。それでも擦りガラスの向こうは漆黒の闇に包まれている。風呂から上がり身支度を整えた。珈琲でも飲みながら、と思っていると妙に蛇が滑って行った裏口が気になった。どうせ夜の庭があるだけだろうが、真黒な擦りガラスの付いた戸を引いてみる。そこには断崖で、眼下には海が広がっていた。唖然とする俺の足を何かが引っ張り、俺は自宅の裏口から海へ向かって落ちた、筈だった。
 衝撃は何も感じなかった。思わず瞑っていた目を開けると、そこはテレビで見たのと同じ砂の町だった。量が随分と少なかったからその向こうにあるものが何であるのかは分かる。あの八百屋も、あの塾も、あの布団屋も知っている。
 ここは俺が住んでいる町だ。
 そう気付いた瞬間に声を掛けられた。どこから湧いているのか、全身を絶えず砂が流れている。目は落ち窪む、というよりも大きな空洞になっていて、その中心に真っ赤な瞳のような何かがあった。最初「こんにちは。」と掛けられた声は徐々に歪んで、遂に判別できなくなった。俺はそいつを押しのけて走り出した。兎に角家に戻ろう。家は時間以外は正常だった筈だ。客人だってもう来ているかも知れない。けれど、足はそれ程前へは進まなかった。徐々に量を増す砂に取られる。いつの間にか降り注いでいた陽射しが重たい。目眩がする。空を見上げた。深い赤い空が広がっていた。また誰かが足を掴み、俺を砂の中に引きずり倒した。赤い瞳が近付いてくる。開いた口から妙に鮮明な声が吐き出された。
「ほぉら、あなたも。」


「君、君ねぇ、そりゃ私と朝から小旅行なんざ魅力的ではないだろうから、寝坊の一つもするだろうがねぇ。」
 平川は赤い縁の眼鏡を直しながら大変不機嫌そうにそう言った。
「とりあえず遅れた事は謝るし、お前さんは割と魅力的だ。」
 平川はもう一度眼鏡を直した。照れているらしい。
「ふん、煽てたって無駄だよ。まぁ、怒ってもも仕方がないから今日は君の家でゆっくりさせて貰うがね。」
「そりゃ構わんが。」
 漸く平川は俺の異変に気付いたようだった。
「ところで君、君は朝から布団の中で砂遊びにでも興じていたのかい?」
 先程、約束通り午前七時丁度にやって来た女史の鳴らすチャイムの音で目覚めた俺は、玄関に倒れていて、全身砂まみれの有様だった。勿論昨晩は平川との約束を覚えていたから、酒も呑まずにあばら家の一番の奥の部屋の布団で眠りに就いた筈だった。
「ふむ、成程、とりあえず信じてみるとして、一つ気になるのだが。」
 一通り説明すると女史は少し意味のありそうな表情で顎に白い指を当てた。
「なんだ? 俺はとりあえず風呂に入って着替えたい。」
「まぁまぁ、時間は掛からないよ。最後に君に襲い掛かった人物、で良いのだろうか、まぁ、それについてなのだが。」
 平川は妙なところに鋭い。
「顔は見えなかったよ、それより風呂に。」
「それ、私だったのだろう?」
 返す言葉を考えたのが失敗だった。平川はそれを肯定と受け取ってしまった。実際流れる砂の向こうに居た人物が誰なのか、はっきりと答えられる訳でもない。あの目と声では分からない、分からないが、確かに今平川が着ている服と同じ物を来ていたような気がする。
「まぁ、どちらでも良いさ。私であれば君がそう感じている部分があると云う事だろうし、他人であれば。」
 平川は妙な笑い方をしながらそこで言葉を切った。
「ふふっ、さぁ、風呂を浴びて綺麗になって来給えよ。」
 俺は夢と現実のどちらが怖いのか判らなくなってしまった。
 
 


 水
   ──そこかしこに。

 視界のどこかに必ず水がある。道の両脇には水路が走り、透明な鉱石で作られた空中水路が架けられ、噴水や小型の人工滝も見える。その隙間にある建物や樹木は青く染まっているようだった。道を横断する暗渠の上部も透明な素材になっていて、足元も仄かに青白く光っている。
 そんな場所を歩く俺の喉は妙に乾いていた。どこにでも水はあるのに、飲み水らしい飲み水がないのだった。公園のような場所ならば蛇口があるだろうか。小さな滝の隙間を抜けてそれらしい場所に入ってみる。そこは水のカーテンに囲まれた円形の庭だった。背丈ほどの位置に滝の始まりがあり、その上には緑が見える。カーテンの裾はどうやら暗渠へ飲み込まれて行っているようだ。
そんな庭園の中央に小さな白いテーブルがあった。その周りには二つ椅子があって、一つに線の細い女性が座っていた。真っ白なドレスを纏っている。
「お座りになられますか?」
 勧められるまま座る。
「あの、この町は、」
「綺麗でしょう?」
 女性は幽かに微笑んだ。
「ええ、まぁ、でも、」
 僅か、女性の表情に不思議な色が混じり込んだ。
「待っていますね。」
 女性がそう言うと辺りから一斉に水が溢れ出してきた。俺は一気に水の底へ沈められ、女性は高い空へ向かう水面へと浮かんで行った。必死に手足を振り回しても体は一向に浮かばず、視界は徐々に青い色が深く濃く変わってゆく。女性の白が見えなくなるのと同時に俺の視界も意識も真っ暗な世界に沈んだ。


 目が覚めた。丁度夜が明けるところだった。辺りには青と白の混ざり合う海面がゆらゆらと揺らいでいる。水はそこかしこにあるのに、飲み水はない。救命ボートでの漂流は今日で何日目だろう。波に揺られ婚約指輪を見つめながら、俺を待つ真っ白な服の人を想い泣いた。
 
 


 夢
   ──進まない時計。

 暑さのせいで目覚めが悪い、どころの話ではなかった。シャツは大量の汗でぴったりと体に張り付いて、髪は塩で焼かれたようになっている。呼吸は荒く、暫くは治まりそうにない。酷い気分だった。最悪なのは時計の針が三十分しか動いていない事だった。もう何度目だ。合間にある悪夢はいよいよ酷く、起きる間隔も段々短くなってきている。
 それよりも。
 夢の内容が段々悪化している。最初はどこかで何かに追われる誰かを傍観しているだけだった。同じような場面を繰り返すうちに、段々と俺が追われるようになった。学校かどこかで化け物じみた何かに食われかけたり、工場らしい鉄の階段の上から巨大なドラム缶が転がって来て潰されそうになったり、真っ白な螺旋階段の上から叩き落とされたり。流石に痛みまでは感じなかったが、妙な現実感は徐々に増していた。
 体を起こしてため息を吐いた。時計の針は午前二時を指している。シャワーでも浴びたいが、流石に近所迷惑だろう。仕方なく着替えだけをして、台所へ向かった。椅子にもたれて作り置きの麦茶をコップに注いだ。
 喉を鳴らす。
 少し気分が落ち付いた。けれど寝室に戻って寝直す気にはならなかった。幸い、少しだけ贅沢をしていて、寝室の他に広いスペースがある。テレビやソファはそこにある。自分の趣味で見る事は余りないが、勧められたり人気があるらしいものは少しでも目を通す様にしている。棚には気に入った映像作品が収まっている。数はそう多くないが、そう言えば買ったばかりの物があったな。最新とは言わないまでも、そこそこの性能のデッキにディスクを入れる。そういえば缶入りのアイスコーヒーもあったな。取り行くついでにスナック菓子も見付けた。どうせろくに眠れやしないんだ。缶も袋も開けてしまって、ソファに身を沈める。この為だけにイヤホンのコードはやたら長くしてある。
 一時間と少し、眠るより有意義に時間を使えたと思えた。
 そろそろ少し眠れるだろう。空になった缶と袋を片付けてしまって、テレビもデッキも電源を落とした。寝室へ向かう一つ目の扉を開ける。廊下があるだけだ。部屋の電気は切ってしまっても、廊下には小さな常夜灯が一つだけ点いている。寝室は直ぐそこだ。扉に手を掛けた瞬間、真後ろに吹き飛ばされた。扉はただ消えていた。その向こうに、何かが居る。常夜灯も消えてしまった。何か灯りを、そう思って手を振り回していると、聞こえた。
「逃げるな。」


 目が覚めた。寝室のベッドの上だ。状況は何も変わらない。時計の針は、五分と進んでいなかった。呼吸が荒くなる。デスクの上には小さなライトがある。いや、それも? タオルケットを被って丸くなった。朝が来れば終わる筈だ。肩を掴まれた。また、聞こえる。
「逃げるな。」
 
 
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