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#07 夜の空気
しおりを挟む──黒く赤く色付く。
潜む影
──君の後ろにも。
日中の物陰と、夜の物陰と、どちらが怖いだろうか。陽があるうちの物陰には物理的な恐怖がある。不快な外見の虫が潜んでいるような、或いは邪な思いを持った人間が隙を窺っているような、そんな恐怖だ。夜の物陰には正体の掴めない恐怖がある。蛍光灯や街灯の光がはっきりと境界線を引いてしまうからだろう。街灯が途切れる場所に、建物の隙間に、或いは扉の向こう、廊下の隅に、否、僕の背後、ベッドと壁の間にある僅かな隙間に、居る。
閃光の中に
──闇夜を引き裂く光に乗って。
雷が鳴り響く夜は嫌いだ。寝床に入る前に去ってくれれば良いのだが、部屋の灯りを消した後も続いていると気が滅入る。ずっと目を閉じていれば良いのだが、粘る湿気を嫌がって寝返り打つ瞬間にふと目が開いてしまう。そこにあるのは雨音と夜の闇だけではない。丁度窓をすり抜けて入って来た閃光に影が浮かび上がる。無機質な直線に混ざって輪郭がぼやけた何かがある。灯りを点けて確かめてみようとは思わない。それはただそこにあるだけで今のところ害はない。もしその正体を掴み、それが害になったらと思うと、僕は浅い眠りへ逃げ込む方を選択してしまうのだった。
夜の音
──何か聞こえる、何だか聞こえる。
聞き慣れた音であっても夜の闇の中では違う響きを持つ事がある。例えば風の音。何かが飛ばされているのか、足音が混ざっているように思える。例えば雨の音。幾つもの雫が跳ねるその音は誰かが囁く声のように聞こえる。例えば、猫の鳴く声。少し抑えた様なその声は、「ねぇ、」と呼びかける君の声のようだ。
雨の向こうに
───白い服。
煙草の箱が空になったのは夜の庭に雨が降り出した時だった。家から歩いて数分のところに自動販売機があるからと傘を差して家を出たのだが、雨脚が一気に強くなり、半分も歩かないうちに女々しくも後悔し始めた。寝るには未だ早い時間だが何か作業をしていた訳ではない。こんな雨の中を歩くくらいならば寝床に入ってしまって、明日の朝仕事へ行く前に買えば良かった。しかし今更戻るのも馬鹿馬鹿しく思え、顔をしかめたまま雨の中を歩いた。辿り着いた自動販売機で煙草を買い、早く帰ろうときびすを返すと、通って来たばかりの道に白い色があった。少しずつ近づいてくるそれは白い服を着た女性のようだった。見慣れない人だし、何の用事かは知らないが俺と同じ不幸に巻き込まれたらしい。ほんの少しだけ気が楽になって、すれ違う直前に軽く会釈をすると、そいつはほんの少し顔を上げて、
「腕が見付からないの。」
と言った。驚いて振り返るとそれは雨の中へ溶け込むように消えて行った。傘を持っている手はあったような気がするが、もう片方はなかったような気がする。誰も信じてくれないが、俺は今でも雨の夜は外出を控えるようにしている。
青空の裏側
──空の皮膚のその下に。
眩しそうに青空を見上げる人が羨ましい。僕は晴れた日はいつも視線を下げて歩いている。太陽の眩しさが嫌いな訳ではない。手を翳して光を除けながら見る空はきっと輝いて見えるのだろう。けれど僕は恐らくもう二度と自分からそうする事はないだろう。あれはいつだったか。何年か前の、やけに暑い夏の日だったと思う。僕は手を翳して、その向こうの青空を見上げた。真っ青な空の真ん中に歪なひし形の黒があって、その向こうから大きな目玉が一つ、こっちを見ていた。以来僕は晴れた日は真上を見る事ができなくなってしまった。今日も、きっと僕が見上げる青空の真ん中には。
掌
──くっきりと。
長い梅雨が漸く明けたから居間の窓を掃除する事になった。俺は余りやる気は無かったのだが、恋人が窓は綺麗な方が良いからと言うので仕方なく道具を揃えて庭に立った。雨雲の消えた空からは容赦なく熱い光が降り注ぎ、蝉が短い夏を一瞬でも逃さぬように泣き喚いていた。俺はぼんやりと窓を眺める。それ程汚れているようには見えない。桜が咲いた頃に同じ理由で掃除をして、その後はかなり雨が当たっていたような気はするが、それ程埃が飛んで来なかったのだろう。丁度目の位置に掌の後が付いているだけで他に目立った汚れは無かった。恋人か、近所の子供が居間で居眠りをする俺を起こす時に付いたものだろうと思い、特に何も考えずに柄の長いモップをバケツの水に浸して拭き取った。何も気にせずに作業を続けていたら妙な思いはせずに済んだのだろうが、何故か俺はその汚れの元が気になった。乾いた泥のように見えるが、それにしては色が濃い。拭き取ったモップを顔に近づけて何があるのか確認した。
「おー、ついにやる気になったんだね。」
声がした方を向くと恋人が居た。様子を見に来たらしい。俺は無言のままモップをバケツに入れて上下左右に動かした。
「うわ、何それ?」
恋人が驚くのも無理は無い。バケツの水は真っ赤に染まっていた。汚れの大きさや濃さを考えれば異常な染まり方だった。
「ペンキでも付いてたんだろう。」
さっさとバケツの水を流し場に捨て、モップも水で流した。真っ赤な色は暫く流れていたが、その後で嘘のように消えた。
「ねぇ、ペンキってそんな匂いだっけ?」
「知るかよ。もう流れたんだ、気にするな。」
辺りには錆びた鉄のような匂いが漂っていた。それもやがてやってきた風に流れて消えた。例えばそれが血の匂いであったとしても、俺には確認のしようがない。確認のしようはないが、夜に居間のカーテンを開ける事だけは絶対にしないと心に決めた。
影
──後ろに。
前に伸びる影ならば恐怖は感じないけれど、背後に伸びる影ならば違う。僕の輪郭から作られた筈のそれは、本当に僕の輪郭を引き伸ばしただけだろうか。例えば、時折顔を出す癇癪が角になって頭から生えていないか。例えば、逃避癖を映して飛ぶ事のできない形ばかりの翼など生えていないか。否、それ以前に、僕の背後に伸びる影は人間の形をしているだろうか。例えば地を這うのろまなナメクジのような、例えば死骸に湧いた蛆のような、そんな形になっていないだろうか。だから僕は背後の影を振り返れない。けれど覗かなければ問題は無い。例え今、背後でがさがさと蠢く音が聞こえていたとしても。
隙間
──僅かに開いた。
幼い頃、実家の一番奥の部屋に近寄るのが嫌だった。来客が泊まっていく時に眠る部屋で、普段は誰も使っていない。その部屋の襖は、冬の間はぴったりと閉められていて、夏になると風を通すために開け放される。そういう状態ならば良いのだが、時折ほんの少しだけ開いている時がある。そんな時は絶対に近付かなかったのだが、ある時、母に奥の部屋にある電気スタンドを取ってくるように頼まれた。冬の終わり頃だったから、襖はぴったり閉められている筈だった。けれど、その時に限って少しだけ開いていた。そのまま開ければ何もなかったのかも知れないが、僕はその隙間に吸い寄せられるように顔を近づけてしまった。薄暗い部屋の中が見える筈だったのに、隙間の向こうには目があった。驚いて悲鳴を上げながら尻もちをつくと、母が駆け寄ってきた。目の事を話すと母が襖を開けたが、そこには何もなかった。
今日、十数年ぶりに実家に帰って来た僕は奥の部屋に荷物を置きながらそんな事を思い出した。子供らしいと思う。怖がってばかりいるからそんな物が見えたのだろう。居間へ戻ろうとすると、襖が少しだけ開いていた。丁度これぐらいの高さだったかな、等と思い出しながらこちら側から向こうを覗いてみる。そこには恐怖に見開いた少年の目があった。
虚構の町
──夢と現実の隙間に。
不思議な夢を見た。生々しいその感触と紫色の花びらは残っているが、自宅のベッドの上で目が覚めたのだから夢だったのだろうと思う。
その時俺は暗闇を流れる光の渦を見ていた。夜空の星を見ている風ではない。そこには未だ何の実感も感触も無く、流れる色は沢山の色を持っていた。故障したディスプレイか、拡大したブラウン管テレビの画面か、そんな光が僕の視界の右上から左下へ流れている。目を擦ったような気がする。けれど指にその感触は無く、光は一瞬も途切れる事なく続いていた。瞬きさえしていないのだろうか。そう思った時、光は目の前の一点に集約し、弾け飛んだ。真っ白になった視界が再び捉えたのは柔らかな緑色だった。草原だった。足元を見ると脛辺りまで伸びた夏草が見えた。それがどこまでも広がっている。彼方には緑の地平線と色の褪せた空がある。今度は立っている実感があった。風が吹いて俺の前髪を揺らした。髪が肌の上を滑る感触もある。
「ねぇ、」
声が聞こえたから振り返ると、大きな麦わら帽子が見えた。真っ白なワンピースを着た少女がそこに居た。
「何をしているの?」
左手で帽子のつばを押し上げ、少女は俺を見上げた。背が低い少女だった。何か応えようと思って困ってしまった。俺は何をしているのだろう。ここはどこだろう。
「また、迷ってしまったのね?」
そう言って少女はくすくすと笑った。真夏らしい陽射しが降り注いで、暑さを感じた。
「この花に道を教えて貰うと良いわ。貴方はまた忘れてしまうけれど、それでも私達は忘れずにいてあげるから。」
右手で紫色の花を差し出す少女の茶色がかった瞳が俺の目の底を、頭の中を覗いたような気がした。そして、俺は自宅のベッドの上で目を覚ました。
夢だったんだろう。最後に受け取ったような気がする花は数枚の花びらだけを残して消えていた。けれど、最後に触れた指先の熱と、花が咲くような少女の笑顔は覚えている。
シーツの上の花びらを集めてテーブルの上に置いた。何気なく巡らせた視線の先に、小さな額に入れられた写真があった。十年も前に死んだ姉の写真だ。姉は優しげに微笑んでいて、右手で紫色の花を持っていた。
夜に鳴くもの
──ギィ。
月の無い夜に灯りの無い道を歩いている。周囲にはまばらに木が生えていた。平行して車道が伸びているらしく、時折車の通り過ぎる音と光が木々の隙間をすり抜けてくる。それ以外には音の無い、静かな夜だった。私は暗がりの道を真っ直ぐに進み、やがて差しかかった分かれ道で足を止めた。はてと首を傾げる。この道は一本道だった筈だ。否、そもそもとっくに木々を抜け、広く明るい通りに出ている筈ではないか。冷たい風がふわりと私の頬を撫でた。思わず身を硬くする。車道からの音と光も途切れて久しい。未だそんな時間では無い筈だ。暗闇に慣れた視界にはぼんやりと霧がかかり始めていた。
また、冷たい風が吹いた。
ギィと枝が鳴った。反射的に見上げると何かが枝にぶら下がっていた。細長い、真っ黒な塊のようだ。風に揺られたのか、ゆっくりと左右に動いていて、端に至る度にギィと鳴る。私はぼぅっと立ち尽くしたままそれを見上げている。それは暫く振り子のように速度を落としながら揺れた後、枝から垂直になる形で止った。
「おい、」
そんな声を聞いた気がする。辺りを見渡しても、誰も居ない。
「おい、」
それでも確かに声は聞こえる。
「何、見てるんだ?」
ずるりと黒い塊が落ちた。脛の辺りに鈍い痛みを感じた。その痛みと黒い塊が太ももを過ぎた頃、私の意識は途絶えた。
今日も冷たい風が吹いている。
私の体が振り子のように揺れる。
振れる向きが変わる瞬間、僅かに緩んだ首元から声が零れる。
「ギィ。」
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