架空の虹

笹森賢二

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#04 浅い眠りの其の後で

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   ──daydream.

 
 望みも願いもしなかった。どうでも良かった。今日が一日、明日が一日。それがあれば良かった。だから、今は不満だ。
「ちょっと、狭いんだからもっと詰めなさいよ。」
「えー? 良いじゃんよぉ、いつもはもっとゆったりなんだよ?」
 姦しい。三人寄ればだったか。もう一人も居るな。
「はいはい。ご飯もできたから、皆仲良く、ね?」
 テーブルに料理が並べられる。俺はため息を吐く。二人は何故かはしゃいでいて、もう一人は困ったように笑った。もう一度ため息を吐いた。温められた室内では白く濁らない。不満だ。気付いた誰かがまた困ったように笑った。


 思う程人は人を想っていない。思う程人に価値は無い。例えば今日俺が死んだって誰も困らないし、明日お前が死んでも大した事じゃ無い。そりゃありふれた悲しみはあるんだろうが、数日過ぎれば諦めもつく。その程度だ。
「そうねぇ、そうかも知れないけれど。」
 葦原愛美は頬に指を当てて、呆れているようだった。背中にかかるまで見事に伸ばした癖のある黒髪に赤い縁の眼鏡。大人びた口元に黒子がある。絵に描いたような美人だからどっかへ行けと言ったのだった。ここには何も無い。ガラクタの様な、人間の様な姿のゴミが転がっているだけだ。
「ねぇ、顕ちゃん、そんな風に考えても、愉しくはならないわよ?」
 必要が無い。愉しかろうが詰まらなかろうが時は巡るのだ。ならば無駄は少ない方が良い。
「困ったわねぇ。」
 それも必要無い。だったら困らない場所へ行けば良い。俺とお前と、一緒である必要は無い。
「ねぇ、顕ちゃん? 好きな人に、幸せでいて欲しいと思う事に、理由は必要?」
 目を伏せる。それは、もっと良い奴に言ってくれ。割れてしまった心には優しさでさえ沁みるのだ。愛美は知っている。だから、それ以上何も言わないし、しない。それが良かった。それで良かった。


 そう言えばどこで割れたのだったか。
 母が自ら命を絶った日か。祖母が死んだ夜か。父が横死した朝か。それとも報われない人生? いや、そもそも産まれつき?
「何考えてんのー?」
 鈴音が俺を見上げた。数日前に拾った少女だ。姓も年齢も知らない。眠たそうな目をしている。茶色かがった髪がそれを隠している。長い後ろ髪は適当に買って来たフリル付きのゴムで縛った。ろくに食っていなかったらしく細いが胸だけはでかい。
「何でも良いだろ。十時だな。何か食うか?」
「ん。ポテチ、と、甘いコーヒー。」
「はいはい。カステラは? 明日にするか?」
「ん。だね。」
 それぐらいならさっと準備できる。割れていようが歪んでいようが人の形はしている。その程度だ。


 それについては理解不能だった。恐らく俺とは対極の位置に居る。金があって、人望があって、地位もあって、未来も目の前も開けた黒髪の美人。いや、美少女か。身長だけは足りないようだった。まぁ、女性ならそれでも良いだろう。
「ちょっと、何黙ってんのよ。」
 口は悪いか。鈴音は部屋の隅のソファに避難した。愛美は薄汚いキッチンに籠っている。喋る事なんか一つもない。あるとすれば、放っておけ。それだけだ。
「西園寺。」
 髪の毛に癖が無い。西園寺涼子は薄い紅を引いた唇を動かして応える。
「何よ。」
「お前も少し黙れ。五月蠅い。もう鈴音が昼寝する時間だ。」
 鈴音が大きく背を伸ばした。毛布を出してやる。鈴音は小さく何かを言いながらこの世から逃げ出した。羨ましい。
「その子にはやたら優しいわよね。」
「そうか?」
 テーブルに戻ると原稿用紙がある。しまったな。隠すのを忘れていた。
「で?」
「何だよ?」
「何を書くの?」
 厭だ。鈴音を散歩に出してやって、少し何か書こうとしたら愛美が来て、西園寺が来た。そうこうしている間に鈴音も戻って来た。誰かに見られるのは厭だ。誰にも知られない場所で誰も知らない物語を。そう思って書き始めたのだから、そこに誰が居たって似合わない。言っても伝わらないだろうな。ため息を吐く。
「何でも良いだろ。それより、用が無いなら帰れよ。」
「あら、用事がなければ居ちゃいけないの?」
 どうせ書けないか。原稿用紙とボールペンを揃えて端に寄せた。
「勝手にしろ。」
 不満そうな顔をされようが咎めるような愛美の声が聞こえようがどうにもならない。書けないものは書けないし、ならば退屈な休日にする事は一つだ。


 だから、何故こうなるのか。退屈凌ぎに酒の匂いでも撒き散らせば誰もが辟易する、筈だった。鈴音は俺の膝の上に陣取って、顔を近付けている。右には頬を赤らめた愛美が、左では西園寺がより小さくなっている。
「おい。」
「ぁー、残念。兄ちゃんが悪いよねー、これは。」
 鼻先で鈴音の唇が動く。酒臭い。
「そうねぇ、顕ちゃんがお酒なんて出すから。ふふっ、久しぶりに、酔っちゃったわぁ。」
 この人は本気なのか冗談なのか分からない。
「ね、ねぇ? 今なら、言えるから、きいてくれる?」
 西園寺はもうダメだ。
「酔っ払って言ったってロクな事ねぇぞ。」
「しょ、しょうがないでしょ!?」
 とりあえず西園寺は無視して、鈴音をいなしながら考える。俺はウイスキーの水割りを呑んでいた。いつも通りだ。鈴音は匂いを嗅ぐだけで、愛美は呆れる。西園寺も帰る筈だった。
「あら、カクテルの材料もあったのねぇ?」
 愛美がそんな事を言わなければ。
「んー? カクテルって甘いの?」
「ええ。鈴音ちゃんでも呑めるわよ。」
 焼酎は常備してあったし、ウォッカは棚に隠していた。冷蔵庫には鈴音が飲む炭酸飲料がある。最悪な事に何を考えたのか西園寺がライムやらレモンやらを買って来ていた。料理に明るい愛美が酒まで知っているとは、その時は知らなかった。スクリュー・ドライバー。ウイスキー・コーク。ウォッカ・ライム。焼酎に炭酸水とレモン。次々に作られるアルコールが三人の胃の中へ消えて行った。
「大体アンタが悪いのよ! 何よ、測ったように出て来て。」
「知るか。」
「そうよねぇ? 顕ちゃんは、いっつもして欲しい事をしてくれるものねぇ?」
「んー。たらしかな?」
 こいつらが話しているのは交差点での事だろう。際どいタイミングだった。歩行者用の信号が点滅を始めた。車道は少し込み合っていて、右折をしたがっている奴が居た。俺は足を止めた。急いだってロクな事は無い。その時は名前も知らなかった西園寺は慌てた様子で横断歩道へ飛び乗った。腰まであるような長い黒髪がゆらりと揺れた。完璧すぎるタイミングだった。対向車ばかり見ていた運転手はやたら長い髪に気づいていない。馬鹿は車なんぞ見ていない。点滅が終わる前に車の列が切れた。走り出す。どうだろうな。
「馬鹿野郎!」
 誰に言ったのかなんて覚えていない。西園寺を掻っ攫いながら跳ね飛ばされた俺の右足は見事に折れた。医者がレントゲン写真を見ながら言ったんだから間違いない。
「いやぁ、見事な完全骨折だねぇ?」
「あれはお前も悪い。小学校で教わらなかったか?」
「う、うるさい!」
 それから何があったか。何も無い。運転手は免許を取り直す羽目に合い、俺は数日入院した。愛美と西園寺が何回か菓子と果物を持って来た。松葉杖を着いて仕事をするのは大変だったが、一月もすれば元に戻った。金を動かせと言われたが面倒だから止めた。やたら感謝された気もするが、まぁ、お互い犬に噛まれただけだろうと言った、と思う。
「ねー、兄ちゃんさぁー。」
 鼻先で鈴音が言う。
「誰にでもそんな事すんのー?」
 大分人聞きが悪い。例えば百貫デブが轢き殺されそうになったら。俺はそれを蹴り飛ばすだろう。流石にそこまで力はないからデブも轢かれるだろうし、その場に残るだろう俺は轢死体になる。それも良いか。
「良くありません。」
 何故か愛美が噛みついてきた。身体を寄せるもんだから胸が当たっている。
「顕ちゃんはどうしていつもそうなのかしら?」
「そうと言われてもね。」
 グラスを空にする。何故か西園寺が次を作ってくれた。
「おい、流石に濃過ぎる。」
「え? さっきもこれぐらいでしょ?」
 グラスの半分くらいがウイスキーで埋まっている。飲めなくはないが、好みではない。それならいっそロックの方が良い。そう思っていたら何時の間にか離れていた鈴音が氷を落としてくれた。
「こう?」
 今更だが、悪くない。
「そうだな。」
 鈴音はそのまま抱きつくように俺の上に収まった。首に腕を回して、肩に顎を乗せている。軽い。それでも十分に柔らかく、温かな塊は耳元で囁く。
「眠くなっちゃった。後は好きにして?」
 好きも何も無い。一度グラスはテーブルに預けて、鈴音をソファに転がしてやって毛布を掛ける。凡そ三秒程度で鈴音はこの世から逃げ出した。本当に羨ましい。
「ほんと、その子にだけは優しいのね。」
 西園寺はそればかり言う。優しくしているつもりはない。
「普通匿おうなんて思わないわよ?」
 匿っている、のだろうか。腹を空かせた猫を拾った。経緯なんて難しい言葉なんて知らないだろう。狭くて汚い部屋だが気に入ってくれたようだ。なら、その他に考える事はない。
「アンタ、聖人か何かなの? それとも詐欺師のカモ?」
「どっちも厭だ。」
 俺は俺にしかならない。
「顕ちゃんはいっつもそれね。そして人の形をしたゴミだ、なんて言うんでしょう?」
 愛美が横槍を入れる。
「そう言えば、愛美さんとコレってどういう関係なんですか?」
「う~ん、そうねぇ?」
 体を寄せて俺を見上げる。酒が回ったのか熱っぽいような目をしていた。
「腐れ縁だよ。それもかなり性質の悪い。」
「もぅ、またそんな事言うのね。」
「事実だ。」
「じゃあ、振り払えば良いじゃない。」
「払えないから腐れ縁ってんだ。愛美が離れろよ。」
「い~や。顕ちゃんが振り払うなら構わないでいてあげる。」
 払えない、払えなかった。ある時、何もかもを失った俺の隣に残ったのは愛美だけだった。もう良いと言った。一人にして欲しいとも。けれど愛美は離れなかった。「私は、貴方を残して死ぬような事はしないから。」そう言ったのだったか。けれど、先は見えない。酒ばかり飲んでいる俺はいつ死んでも文句は言えないし、愛美だって病で死ぬかも知れない。鈴音もあのまま飢えて死んだかも知れなし、西園寺を救えたのだってただの偶然だ。
 つまり、俺は絶望している。
 日常は薄氷の上にあり、踏み抜けば終わる。だったら、一人でだらだらと時間を潰して終わってしまう方が良い。
「矛盾だらけね。」
「そうかしら? 優しいだけよ。他人に対してだけだけれど。」
 頭を掻きながら立ち上がる。煙草とライターをついでに拾った。
「あら、ここで吸って良いわよ?」
「私も大丈夫よ。お酒と煙草ならつきもの、でしょう?」
 盛大に頭を掻き散らした。
「外の空気吸ってくる。」
 騒ぐ女どもを適当にいなして外に出た。いつのまにか真冬になっていたらしい。玄関にある錆びた鉄の柱に背を押し当てて煙草を咥える。火を点して煙を吸い込む。吐き出すものが白いのはそれが煙だからか、外気に触れた息が曇ったのか、判断はしなかった。どっちでも良い。
 そして彼は真白の吐息を。
 少し笑った。上で見てるんだろう。適当な運命ばっかり押しつけやがるゴミの価値もない神様とやらは。愛美と俺を鎖で縛り、鈴音を放り投げ、西園寺を殺そうとした神様だ。見たくもない。会いたくもない。顔でも出そうものならぶん殴ってやる。
「ぉー、兄ちゃん顔怖いー。」
 いつの間に這い出して来たのか、鈴音が俺を見上げていた。
「眠れなかったか? 悪かったな、うるさくして。」
「うぅん。もう少し飲みたいだけ。煙草吸ったら戻ろう?」
「ああ。」
 頭を撫でる。温かく、柔らかい感じがした。
「兄ちゃん?」
「ん?」
「ボク、まだここにいて良い?」
「好きなだけ居ろ。食いたい物があれば言え。作れるものなら作ってやる。無理なのは買ってくるか、どっかに食いに行こう。」
「うん。」
 アレは鈴音にだけ優しいと言うが、違う。甘えているのは俺の方だ。助けて欲しいのは俺の方だ。どうにもならないものを鈴音に押し付けている。
「にひひ、兄ちゃん? ボクは幸せだよ?」
「そうか。なら、良い。」
 煙草を携帯灰皿に押しつける。
「戻るか。」
「だね。」
 部屋に戻って直ぐに時計を見た。それ以外に見れるものがなかった。午後二時を回った辺りだった。
「何かつまみでも作るか。」
「ん。」
 愛美と西園寺は酒の力ですっかり仲良くなったらしい。西園寺は奔放に、愛美はそれでもしとやかに酒を呷っていた。
「何か手伝う?」
 鈴音は赤い顔をしていたが、少し戻ったようだった。
「いや? 一緒に呑んでろよ。その方が助かる。」
「うぃ。」
 鈴音はスクリュードライバーを注文した。恐らく濃いだろうが、もう気にならないだろう。俺は濁らない溜息を吐きながら揚げ豆腐をグリルに掛ける。ついでにフライパンも火に掛けた。油が熱くなるまでに長葱を刻んでウインナーと一緒に放り込む。長葱は半分程残しておいて、揚げ豆腐が焼き上がってから鰹節と一緒にその半分をふりかける。春雨もあったな。湯を沸かして鳥がらの粉末と水で洗った塩ワカメと一緒に放り込んでやる。春雨が戻ったら卵と長葱をとき込んでやれば良い。
 こんなもんか。こんなもんだろう。
「あらぁ、顕ちゃんおつまみ作ってくれたの?」
 大分酔っ払ったらしい愛美が背中に抱き付いて来た。
「ああ。持って行って食って呑んでさっさと潰れろ。」
「うーん、涼子ちゃんはもうすぐかしらねぇ? 鈴音ちゃんはまだまだよぉ?」
 愛美も未だ未だ呑めそうだった。盛大に溜息を吐いてやって、また席に収まる。
「ふふっ、お酒くさぁ~い。」
「いつものこったろ。ったく、今日は愛美もだよ。」
「そうねぇ、こんなに楽しいなら、顕ちゃんと一緒に呑んじゃうのも良いかも知れないわねぇ。」
 愛美と酒を呑むのは今日が初めてだ。いつも咎めるばかりで相手はしてくれなかった。
「止めとけ、止める奴が居なくなる。」
「ふふっ、そうねぇ? ……ねぇ?」
 顔が近い。
「愛美?」
「ちゅっ。」
 触れるだけの、マセた子供みたいな仕草だった。
「止まらなくなっちゃうものね?」
「愛美が止まらなくて誰が止まるんだよ。」
「私だって。」
 言葉を遮って、同じように唇を重ねた。それは今言う言葉じゃない。
「そうねぇ、二人も待ってるものね。」
 視線を巡らせれば真っ赤な顔の西園寺と不満そうな鈴音が居る。面倒だな。
「なっ、なっ、」
 西園寺は言葉を喋れなくなっていた。
「やっぱたらしだね。」
 鈴音はむくれていた。
「ねぇ、兄ちゃん? ボクも。」
「はいはい。とは言えないか。」
「でしょうね。」
 鈴音と二人で少し笑った。今度は愛美がむくれた。
「本当に顕ちゃんは鈴音ちゃんを掌中の珠みたいに扱うのね。」
 鈴音はカラカラとグラスの中身をかき混ぜながら天井を見上げた。
「んー? 兄ちゃんの娘? ぅーん、良いけどさぁ。」
「そ、そういえば、」
 西園寺はもう終わったらしい。大分重いらしい目蓋を無理矢理こじ開けている。
「無理しないで寝た方が楽だぞ。」
「うるさい。鈴音ちゃん、は?」
「んー。助けてくれて、飼い主? かな?」
 猫みたいだからな。見上げる鈴音の頭に手を当ててみる。すり寄せるように甘える。うん。猫だ。
「ほんと、幸せよね、ここ。」
 西園寺は諦めたようにソファで横になった。鈴音が丁寧に毛布を掛けてやった。西園寺にしては珍しく数秒でこの世から逃げ出した。
「ねぇ、顕ちゃん? 鈴音ちゃんが娘なら、涼子ちゃんも娘で良いんじゃない?」
 意図は読まなかった。それはどうでも良い。
「顕ちゃん?」
「困ったな。」
 ある筈の無い世界は、やはり存在し得ない。幾ら強く願おうが、どんな努力をしようが、初めから全て決まっている世界には抗えない。幸せなのは今だけだ。明日か、明後日か、その次の日か、必ず終わる。
 愛美と鈴音が顔を見合わせた。それで良いさ。呆れてくれ。居なくなってくれ。
「顕ちゃん?」
「兄ちゃん?」
 両耳に酒臭い息がかかった。何だってんだ。俺が諦めたのだからそれで良いだろう。
「い~やっ!」
「嫌だよ。」
 両脇から温かくて柔らかい塊が抱き付いて来た。
「前にも言ったわよね? 絶対離さないから。」
「ボクも、この幸せから離れたくないよ。」
 奥歯がかち合った。俺は絶望している。それを幸せだと思って欲しくなかった。
「顕ちゃん、酷い顔。」
 視界は真っ暗になった。ただ温かくて、柔らかい。柑橘類のような匂いがするから愛美だろう。
「いっつも無理ばっかりして。人を助けて、自分の事は知らんぷり。」
「だねぇ?」
 鈴音は俺の左腕を抱き締めているらしい。見えないが、温かくて柔らかい。
「いつから困らなくなっちゃったのかしらねぇ?」
「困る?」
「そぉ、昔は自分も困って悩んでたのに、今はもう、自分の事だけ蚊帳の外。他人が幸せならそれで良いと思ってるのよぉ。」
「ぁー、なる。そんな感じだねぇ、ボクの事も、愛ちゃんも涼ちゃんも。」
 違う、だろう、と、思う。諦めただけだ。俺はもうどうにもならない。なら、せめて他の誰かが幸せであれば良い。鈴音を拾ったのも、「お陰で普通の生活に戻れます。」なんて言葉を聞きたかっただけだ。西園寺を助けたのだって、轢き殺された西園寺を見て魘されたくなかっただけだ。
「それだけでこんな事してられるなんて、兄ちゃんは本当に聖人だね。」
「顕ちゃんは懐の痛みにも身体の痛みにも慣れちゃってるものねぇ?」
 いい加減に引っ剥がした。苦しい。
「ったく、どうでも良い事だろ。」
 二人が一瞬だけ顔を見合わせた。いや、何か合図でも送ったのか? 二人に押し倒された。色々と温かくて柔らかい。
「何を言っても無駄ねぇ?」
「寝ちゃおう。」
「ったく。」
 意識は眠りの中へ沈んで行く。誰かが何かを言った。知るか。もう限界だ。


 少しだけ夢を見ていた。いつもと変わらない。愛美が料理を作っていて、西園寺は細かくメモを取っている。鈴音は窓辺で背を伸ばしていた。俺はそれを見ている。ずっと、見ている。


 終わりを。決めるべき時になったのだと思う。誰の所為でもないし、誰の所為にもしない。けれど、醜く沈んだ過去から足を引き抜くのならば、それは当然の事なのだと思う。いや、そうしなければ抜け出せない。
「兄ちゃんがそう思うなら、そうしないとダメなんじゃない? ボクは、それで良いよ。」
 そう言う鈴音の頭を撫でる。鈴音は背を伸ばして次を催促する。掌が温かい。あやしていたのではい。俺が温められていた。最初からずっと。
「兄ちゃん? ボクは幸せだよ? 兄ちゃんは? ボクはもう大丈夫だよ?」
 温もりを離せないまま目を伏せた。離れたくなかった。


 白昼夢は唐突に終わった。鈴音は職を見付けて小さな部屋を借りた。西園寺には恩を売る気は無いと言って遠ざけた。良い歳の、魅力的な女性だ。正しく相手を見付けただろう。愛美だけは離せなかった。今日もキッチンで鼻歌を歌っている。
「寂しくなっちゃったわねぇ?」
「そうか? いつもこうだっただろ?」
「そうねぇ。」
 白昼夢は終わった。筈だった。
「ふぃー、疲れた疲れた。かーちゃんお水ちょーだい。」
 鈴音が当然のように玄関から入って来る。
「はいはい。お疲れ様。レモネードでも良いかしら?」
 愛美が当然のように応じる。
「うぃー。」
「全く、いい加減にもう少し良い部屋に越したら?」
 鈴音が閉め忘れた扉から西園寺が滑り込む。
「うっせぇ、つーか、何なんだよお前ら。」
「何、と言われても、私は西園寺涼子よ?」
 長い髪が揺れた。
「ボクは鈴音だね。」
 目を隠す様に前髪が動いた。
「私は葦原愛美、貴方は笹山顕ちゃん。他に何か必要?」
 頭を掻いた。ソファに凭れる。くるくると動き回った鈴音が週刊の漫画雑誌を手に俺の膝に乗った。愛美と西園寺が料理を並べる。
「お前らなぁ、」
「はいはい。鈴音ちゃん、本はしまって座って頂戴。」
「はぁ~い。」
「アンタも、折角愛美さんが作ってくれた料理なんだから。」
 西園寺は少し丸くなったのだろうか。どうでも良い。鈴音の小さな部屋は俺の部屋の隣にあって、西園寺は何故か逆隣に越して来た。社会見学だそうだ。
「あら? 私が住む場所なんて私の自由でしょう? 何か文句でもあるの?」
 そう言っていた。返す言葉は持っていない。だからと言って暇があれば俺の部屋で料理教室を開くのは勘弁して欲しい。
「明日の朝は涼子ちゃんに頼もうかしら。」
「ええ、お休みなので、私が作ります。」
「あ、だし巻きたまごー。」
「それなら焼き鮭も付ければ良いわね。 サラダは? 何か希望ある?」
「んー、おまかせで。」
 随分と仲良くなったらしい。愛美特製和風ドレッシングサラダとやらを習っていたから千切りキャベツとざっくり切ったトマトにでも添えて出るんだろう。
「ふふっ、顕ちゃんも愉しそうで嬉しいわぁ。」
「うるせぇ、黙ってろ、その方が可愛いから。」
 愛美が何故か襟を直しながら席についた。鈴音と涼子は不満そうに座った。
「たらし。」
 二人で勝手に声を合わせて勝手に笑っている。良いさ。好きにすれば良い。
「頂きます。」
「いただきまーす。」
 今度は三人で勝手に合わせて勝手に笑っている。
 理由も無く愛美を見た。
 笑った。
 見事な癖のある黒髪を、よく似合う赤い縁の眼鏡を、口元の黒子、もう何度も触れたのに、また触れたい薄い紅を塗った厚い唇。
「顕ちゃん?」
 穏やかで鮮やかな春風のような声。
「いや? さっさと食べよう。ボードゲーム、またやるんだろ?」
「ええ。そうね。」
「次はボクが勝つだよ。」
「あら、この前の借金、返して貰ってないのだけれど?」
 ため息を吐きながら窓の外を見る。季節は、変わったか? どうでも良いか。姦しい室内に目線を戻す。
「とーちゃん、借金はゲーム終わればチャラだよね?」
「持ち越しでしょう?」
「はぁ、まぁ、持ち越しで良いんじゃないか? まだそんな大きくないし。」
「そうねぇ、鈴音ちゃんは運も良いし、そこまで大きなハンデじゃないでしょう?」
「むぅ。」
「ふふ、じゃあ、決まりね。」
 クリームパスタを頬張る。スープはアサリと玉葱だった。旨い。サラダは千切りキャベツにワカメ、プチトマトとベーコンが添えられていた。これも旨い。
「良い食べっぷりね。誰が作った時もそうだけれど。やっぱりアンタって聖人か詐欺師のカモ?」
「それ気に入ったのか? どっちにもならねぇっての。それに、不味かったら素直にそう言う。」
 西園寺が少しだけ身を引いた。
「そう、じゃあ、この前のも嘘じゃないのよね?」
「嘘吐く意味もねぇだろ。」
 最近は西園寺が朝食を作る。素直に旨い。愛美先生の腕が良いからだろうと思うだけだ。
「んじゃ、もっと頑張る。」
「そうか。頑張れ。」
「む、ボクも作る。」
 鈴音が背を伸ばした。伸ばしたが、小さい。
「はぁ、好きにしろよ。葦原先生でも西園寺先生でも好きな方選べ。」
「じゃぁ、西園寺先生、おねがいします。」
「ふふっ、私も習ってるところだけれど、一緒に上手になりましょう?」
「うぃ。」
 愛美は二人を眺めて、笑っている。上品にスープを啜った。白昼夢は終わった。何だかよく分からない現実が残った。
 悪くはないんじゃないか?
「ふふっ、そうねぇ?」
「ん? 何が?」
「二人だけの会話は二人だけの時にしてくれません?」
 またため息を吐く。良いよ。分かったよ。日々は巡る。あの白昼夢の様な時を過ぎても。これからも、ずっと。
 
 
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