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#17 降り注ぐ白
しおりを挟む──雪降る朝に鐘の音を。
それとこれの関係が如何なのかは知らないし、興味は無い。何度話して聞かせても分かっちゃくれない。
それはベッドの一角を占領していて、膝の上に雑誌を広げている。違うか。一角を雑誌で埋め尽くしている。どうでも良い。久々の連休だ。例え安くて狭くて汚い部屋でものんびりと過ごしたい。その要望は伝えてあるが、女史は理解していないようだ。
「兄さん、ここなんかどうでしょう?」
後頭部の上、赤い布で根元を留められた見事な黒髪の先が揺れる。磨かれた眼鏡の奥に在る少女のような目で俺を見たまま開いた雑誌を突き出して来た。それ程遠くない山間部の温泉宿だが、誰も知らない場所じゃないし、その山間部自体がこの時期は人で溢れ返る。
「今日予約して明日泊まれるようなトコじゃないぞ。」
「兄さん、さっきからそればっかりです。」
僅かに唇を尖らせる。さっき急に広がった雨雲のせいで暗くなった部屋に照明を点けたからか、それが妙に煌めいて見えた。
「折角のクリスマスですよ? それに、もしかしたら何かネタになるかもしれないじゃないですか。」
女史の小説のネタにされるのは、まぁ、悪くないが、それとこれは話が違う。
「じゃあ、兄さんは明日、何かしたい事、ありますか?」
本当の事は言わない事にした。
「一々世間に付き合ってられるか。来週はまた遠くで仕事だ。酒でも呑みながらゆっくり休むよ。」
女史の目が煌めいた。成程、その為にそんなに本を、と思ってから気が付いて頭を掻いた。一冊引っ掴んで裏返すと去年の日付が発行日だった。女史は真っ赤な舌の先を唇の間から覗かせた。演技はどこまで続ければ良いのだろう。
「それなら、私も付き合いますよ。買い出しもお任せ下さい。兄さんの好みもばっちりですし、僕、これでも結構力はあるんですよ?」
とりあえず脱力したフリでもしてやる。
「厭、ですかね?」
女史は少し俯いて声のトーンを落とした。どうせ後ろ手に目薬でも持って居るのだろう。まぁ、良いさ。
「分かった分かった。女史の好きにして良いって言ったろ? 買い物も付き合うよ。」
「だって兄さん、歯ブラシ置くのさえ嫌そうだったじゃないですか。」
理由は別だと説明した。少し時間を置いたせいか今度は女史も理解してくれた。
「てっきりウザいと思われるのかと。」
「女史が? まぁ、他の奴が毎日居たらウザいかも知れんけど、女史なら毎日居て欲しい。」
女史は身の置き所も無い位喜んでくれた。
「分かりました、分かりました。えへへ。一緒にお買いものですね。何を買いましょう? お酒と、何を作りましょうかねぇ~。あ。でもその後ですね。薄い方が良いんでしょうか?」
気付いてしまった。から、黙らせた。
「避妊は大事なんですよっ!?」
知っている。知っているから考えてはいる。だからこれ以上余計な事を言うな。
「女史は毎度毎度一言余計なんだよ。折角美人なんだから少し位自重しろ。」
一瞬の静寂の間に女史は二つか三つくらい表情を入れ換えた。
「にひひ。美人ですか、そうですか。有難う御座います。それに、相手もしてくれるんですよね? うふふ。折角のクリスマスですもんね。大丈夫です。兄さんになら、僕、何をされても平気、というか、嬉しいですから。」
いよいよ夜になるな。まだ雪は降っていないようだ。カーテンを閉める。暖房を少し強くする。
「時に兄さん、それは、僕の為でもあるんですかね?」
にやにやと笑いながら言う。なら、俺にだってすべき事がある。
「女史よ、お前は若くて美人で、気立ても良いな? そんな奴がここに居たら如何なるか、分かってやってんのか?」
また表情が四つぐらい入れ換わった。
「兄さんは、」
「あ?」
「兄さんは、」
後に続く言葉を言わなかった。言わなかったから、応える事にした。耳元にだけ一つ二つと言葉を並べてやる。
「……なら、僕はそれで良いです。えへへ、いつも言ってるじゃないですか。」
震える手を握ってやる。
「お前だけは何をしても嫌いにならない。だから、逃げても良い。でもその顔は止めろ。俺が不安になる。」
「兄さんでも、不安になるんですね。」
「当たり前だろ。これでも人間だぞ。」
預けられた暖かい塊を抱き締めたままベッドに仰向けになる。
「兄さんがまともな人間とは知りませんでした。」
「俺は知らん。俺は明日の朝にまた太陽が昇れば其れで良いと本気で思ってる人間だ。」
少し複雑だったかも知れない。けれど俺の上でうつ伏せになっている女史は正確に理解したようだった。
「はい。明日も、明後日も、こうしていましょう。好き、なんです。兄さんと、この部屋と、こうしているの。」
顔が近い。一応飾っているらしい唇がやけに眩しく見えた。
「さっきのお返しです。兄さん? 僕は、」
あどけない顔が、瑞々しい唇が動いて俺の耳元で何かを言った。応えないでおく。この先は、今夜は未だすべきじゃないし、すべき事は他にある。
「さぁ、買い出しに行こうか。今夜を怠惰に過ごす為に。」
二人分の体を持ち上げる。不満そうな顔をされた。俺だって厭だ。けれど、人は生活をしなければ死んでしまう。例外は無い。
「ふむ、兄さんはリアリストですね。お陰で僕の生活は楽しいのですけれど。」
コートを着せる。俺もコートを羽織ってポケットに財布を突っ込んだ。
「ふふっ、カッコいいですよ兄さん?」
女史が手を伸ばす。触れて、握る。気付いた。そこらに放り投げていた手袋を填めさせる。
「兄さん、嗚呼、兄さん、僕は兄さんの温もりが欲しいです。」
珍しくはっきり言われたが論点はそこではない。
「俺の熱じゃまかないきれんわ。大人しく文明に染まってろ。」
「足りると思いますけどねぇ?」
「日本の冬舐めんなよ。防寒はちゃんとしないとダメです。」
外に出ると想像通りの寒々しい世界だった。明日の朝には雪でも降りそうだ。
「うわ、兄さんの言う通りでしたね。」
「まぁ、厭じゃないよ。」
手袋の上から手を握る。
「あ、兄さん兄さん、それでも足りないです。」
そのままコートのポケットに二人分の手を入れた。
「えへへ、兄さんは信じないと思いますけど、僕は今とても幸せです。」
「そうか。良かった。」
女史がすり寄る。俺はそう言えば女史の一人称は僕だったなとどうでも良い事を考えた。町外れには枯れたような木と冷たい風があるだけだった。それで良かった。もう少し歩けば町場に入る。そうじゃなくても、隣にはあたたかな子が居る。
「月子。」
一瞬だけ世界が止まった。いや、止まったのは女史だけなんだろうが、世界が止まったように見えた。ああ、そうか。俺は女史しか見ていないのか。
「に、あ……。」
女史が複雑そうに表情を入れ替える。俺は足を止めてそれを見ている。愉しい。
「浩司、さん。」
「ああ。なんだ?」
「ふふっ……。いえいえ、なんでもありませんよ?」
何でもない風ではなかったが、良いだろう。行先は決まっていて、隣に女史が居れば何も考えなくて良い。
「あ、買い物、増やして良いか?」
「ええ。何を買い足すんです?」
「ベルみたいなの、クリスマスだから。どこ行けばいいんだ?」
「ふむ。ああ、それなら、右折ですね。ケーキ屋さんなんですけど、小物も出すって言ってましたから。」
「ああ、あ。いや、別の店で。」
女史は確信犯だった。
「そうです。浩司さんの同級生の方が店主なお店です。」
「離せ、女史、厭だ。」
「うふふふ。月子って呼んでくれても離しませんよ!」
結局散々に弄られた。悪くは無いだろう。雪は朝を待てずに降り出した。小さな金色のベルは月子の細く白い指に在った。買い物も済んだ。後は帰ってだらけるだけだ。
「浩司さん?」
「何だ、月子。」
「うふふっ、何でもないですよ?」
「そうか。何でもないのに呼ばれて嬉しいのは月子だけだ。」
仄かに赤く染まった頬がある。嬉しそうな笑顔と、前髪が跳ね上がっていた。手を伸ばして直してやる。
「ふぁっ、」
調子の外れた声が零れた。
「何を期待しやがった?」
「う、いえいえ、な、なにも。」
笑ってやる。雪は風に踊りながら淡々と落ちる。
「積もりますかね?」
「さぁね、俺は知らんし、どっちでも良い。」
「むぅ、僕はホワイトクリスマスの方が良いです。」
理由は分からなかった。月子の唇に触れた。そうすべきだと思った。
「へっ? えっ!?」
「ああ、保証がないから、これはやっとく。うん。それぐらいの。」
「こ、ここここ、浩司さん! 不意打ちはダメですってば!」
「厭か?」
止まる世界に真っ白な雪が敷き詰められていく。
「……厭な訳ないじゃないですか、もぉ、ずるいです。僕を殺す気ですか。」
「死なれちゃ困るな。」
温かな身体を引き寄せる。
「こ、う、じ、さん……。」
聞こえないフリをして、頭を撫でる。まぁ、そうか。ちゃんと決めてなかった。
「これぐらいしかないけど、一緒に居てくれないか? できれば一生。」
「ふぁ、ぁ、……当然、ですけど、どうしたんです?」
「いや? 月子とならクリスマスにベル鳴らしても悪くないかなぁ、と。」
「もぉ、分かりましたよ。浩司さん? 好きなので、明日の朝は一緒に過ごして下さい。」
「ああ。俺も月子が好きだから、明日の朝は一緒に過ごそう。」
「はい。」
雪は町に敷き詰められた。明日はホワイトクリスマスだ。月子は満足そうに笑っている。ある筈の無い確信があった。明日もきっと幸せだと思って過ぎるのだろう。雪降る朝に鳴る小さな鐘の音と一緒に。
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