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#03 雪灯籠
しおりを挟む──幻想の白と黒。
雪が降っていた。街灯の光の中をふらふらと、幾つも幾つも真綿のような雪が落ちてくる。雪は時折光を返して、それが糸を引いて落ちた。僕は道の真ん中にぼんやりと立ち尽くしている。車は通る気配すらなかった。信号機も電気が通っていなくて、黒い円が三つ並んでいるだけだった。まるで僕の他には誰も居ないような気がした。それでも雪は、光は降り注いでいる。深くため息を吐いた。いつだって同じだったじゃないか。背後にいるような誰かがそう言った。いつだってこんな風に物を見て来たじゃないか。そこに誰が居ても、お前はその人を見なかったじゃないか。一羽、兎が降り積もった雪の上を跳ねた。後ろ足で蹴り上げられた雪は光の中を一瞬だけ舞い、僕の足元の暗がりへ落ちた。少し先、兎は新しい雪の上で僕を見ていた。僕は足を進める。まるで鉛のように重く感じられた。直ぐに後ろへ流れ去る筈の景色は長く視界の両脇に残っていて、酷く焦れるような不快さを与えてきた。それでも、兎は少しずつ近くなっている。僕は足を引きずる。兎は先程と違ってゆったりと雪の上を歩いた。時折僕を振り返って、兎も焦れているのか退屈そうに耳を撫でた。そうやってどれくらい歩いたのだろう。兎は細い路地へ入って行った。慌てる程足は重く、景色の粘り気も増していく。漸く路地へ入ると、兎の姿は無かった。言い様のない疲労感が肩口から僕を押しつぶそうと伸し掛かって来た。膝に手を着き、足元の雪を睨みつけてからもう一度顔を上げたけれど、矢張りそこに兎の姿は無かった。それどころか路地さえ無かった。僕の両脇には雪が高く積み上げられていて、その雪の壁に沿うように神社にあるような灯篭が並んでいた。それは石ではなく雪でできていて、中にはオレンジの光が灯されている。灯篭は等間隔でどこまでも並んでいる。一瞬断頭台へ続く道のように思えたが、オレンジ色の光が直ぐに安心させてくれた。大丈夫。先で兎が待っている。僕はぼんやりと歩いた。足の重さは消えていた。灯篭は流れるように後ろへ消えていき、前からは次々に新しい灯篭が滑り込んでくる。自分が歩いているのか、灯篭が流れているのか分からなくなった頃、雪の壁を滑る影を見付けた。人の形をしている。時折じゃれ合うように折り重なりながら、僕の歩みよりも早く後ろへ流れていく。嗚呼。僕はその影の一つ一つを知っている。もう二度と触れる事は無い。もう二度と、その鮮明な面影を思い出す事さえ無い。これは僕の過去だ。自転車で走った春を、麦藁帽子と虫取り網の夏を、落ち葉を救い上げたその指を、真っ白な雪をかき分けて遊んだ頃を、あの鳥籠の中の自由を、放たれた日の不安と希望を、僕は失くした。ついに雪灯篭が途切れた頃、兎が僕を見ていた。赤い二つの瞳が僕を見ていた。僕は何かを叫んだような気がする。兎はそんな僕の近くで、何を思ったのだろう。赤い瞳に見守れたまま、全て朝の光に溶けてしまった。
目覚めは最悪だった。時計で確認する。休日で良かったと安堵する。こんな酷い気持ちでは外へ出る気さえ起らない。ふと、テーブルの上にある見慣れない物に気づいた。小さな球体のようだ。真っ赤で、光沢があって、記憶違いでなければ南天の実だろうと思う。実家の庭には植えてあった気がするが、僕が住んでいるアパートの周りには無かった筈だ。慌てて昨晩の記憶を辿る。まさか酔い潰れた挙句にどこか余所の家に忍び込んで、と考えかけて直ぐに昨日は酒を飲む暇もなかった事を思い出した。週末の残業をこなして、夜遅く帰って来て倒れるように眠ったのだった。僕は二つの実を掌に乗せて窓を開けた。見渡す限り雪を被った風景が広がっている。真冬の冷たい風に交じって粉雪が舞っていた。さっきまで見ていた夢は、と思いかけて直ぐに止めた。有り得ない事だし、有ったから如何だと言うのだ。何が変わる訳でもない。この世界は規則的に明日へ向かうだけだ。何一つ変わらずに、何も成せずに。窓を閉めて珈琲を淹れた。南天の実は、テーブルの端に乗せたままにした。何故か捨てる気にはならなかった。
昼過ぎになって手紙が届いた。差出人と内容は言えない。ただ僕は穏やかな気持ちで週末を過ごす事ができた。
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