逆針の羅針盤

笹森賢二

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#13 初冬

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    ──その幻。


 朝だろうか。南の稜線から太陽が昇った。雨は休みらしい。本日休業の張り紙を背負った雲が流れて行った。あくびをしながらキッチンへ向かう。炊飯器はもう湯気を上げていて、鍋の中では水と出汁が沸騰していた。乾燥ワカメもすっかり戻っていた。寝癖頭を掻きながら火を落として味噌を溶かし込む。待ちくたびれたらしいフライパンは勝手に火を点けていて、口を開けた冷蔵庫からハムと卵が飛び出して来た。フライ返しが蛇口を捻って計量カップが受けた水をフライパンに流し込むと蓋が飛び降りた。遅れて飛び出して来た豆腐は空中で割れながら鍋に飛び込んだ。
「起きるの遅いわよ。」
 今朝の役割を終えた冷蔵庫が呆れたように言った。
「クマの話長いんだもん。寝不足だよ。」
 食事を済ませて歯を磨いているとクシとヘアスプレーが髪を直してくれた。
「ほら、さっさと着てよ。」
 制服が鞄を持って来てくれる。パジャマはそろそろ洗濯かな。洗濯機に放り込む。それなりに溜まっていたらしく洗剤と柔軟剤を口に含んだ洗濯機が面倒臭そうに回り始めた。
「あ、掃除機君は今日休みね。」
 働き者なのは良いがちゃんと言わないと毎日動き続けてしまう。
「んじゃ、行ってきまーす。」
 部屋中から返事が返って来る。外に出ると鍵が掛かった。紫の空の下を歩く。バス停で待っている間に明日の端末会話に返事をしておく。バスはそれなりに混んでいた。降車ボタンの隣にある時計を二十分戻す。これで間に合うだろう。ふと鞄が動いた。開けてみるとクマが居た。
「もぉ、付いて来ちゃダメだってば。まだ話し足りないの?」
 珍しく黙っているクマの視線の先にタヌキがいた。でも残念ながらタヌキはフェレットに夢中だ。
「いい加減諦めなさいな。」
 クマはとんでもなく不機嫌そうに私を見てふわりと消えた。部屋に戻ってウサギに愚痴でも言いに行ったのだろう。
「報われないねぇ?」
 ウサギはクマの事が好きなのだった。
 学校には間に合った。早速好き勝手に歩きまわる文字達の交通整理をして、気が付けば昼だった。屋上でお弁当を食べながら空を見上げる。もう緑色になっていた。午後は、他の誰かに任せよう。図書館に忍び込んで本達と遊ぶ。偶に悪戯をされる。文字の順番が違う。もうすっかり慣れた。ページに手をかけると元に戻った。脅迫だ。破るぞ、と。そうこうしているうちに空がまた紫になっていた。そろそろ帰ろう。電車をに乗った。今度は鞄から兎が出て来た。また長い愚痴が始まる。
 部屋に戻ると兄が居た。夕飯の支度をしてくれたらしい。
「今日は早かったね。」
「ああ。漸く機材が機嫌直してくれてね。」
 言いながら兄が苦笑いをした。一度機嫌を損ねると大変な事になるらしい。私にはよく分からないけれど。椅子に座って兄が作った料理を食べる。ペスカトーレのパスタにサラダと玉葱のスープ。
「ああ、昨日の片付けは頼むな。」
「うん。やっとく。」
 今日は休みだ。食べ終わったらさっさと済ませてしまおう。明後日は何をしようか。そんな事を考えながらフォークが巻いてくれたパスタを頬張った。
(了・ある一日)


 地図に無い町。町の無い地図。どうやら迷ったらしい。胸ポケットから飛び出した箱を捕まえて、タバコを一本引き抜く。街灯が狙いすましたようにタバコの先に光で打ち抜く。ため息と一緒に煙を吐き出す。ポケットから取り出したコンパスが笑う。北へ進めば西へ、東は北、南は東。見上げる空はエメラルドグリーン。時計は、ダメだな、秒針と長針が喧嘩をしていて、短針が呆れている。どうせ太陽も月も気紛れに顔を出すだけだから、時間が分かった所でどうにもならないのだが。
「ねぇ、そろそろ降っても良い?」
 視界の横から降って来た雪が何度目になるか分からない同じ問いをくり返した。
「仕方ないか。良いよ。待ちくたびれたろ?」
「もう少しなら待っても良いけどサ。」
 頭上、少し上、粉雪が渋滞を起こしていた。何人かは呆れて帰ってしまった。さて、どうしたものか。
「あっちじゃない? ほら、赤い服のあの子。」
 公園の針葉樹が問いかけてきた。違う。
「んじゃ、あっちの黒いスーツの人?」
 歩行者用信号の青い方が言った。それも違う。
「あ、ここに居た。方向音痴め。」
 済んだ声に振り返ると白い服の少女が立っていた。渋滞していた粉雪達が彼女の麦藁帽子の上から螺旋を描きながら降り、歩道のタイルに落ちた。僕はタバコを消そうとして、煙に睨まれた。
「良いよ、ほら、行こ。」
 小さな手が僕の手を引く。信号が色で行き先を教えてくれた。
(了・白とエメラルド)


「何これ? あの人、ついに気が触れちゃったの?」
 羊皮紙に書かれた文字を読んだウミネコちゃんが赤い実を突きながら笑った。
「さぁねぇ? まぁ、でも言葉なんて全部紛いサ。」
 アタシは青い実を突きながら応える。
「ふぅん、じゃあ、現実も?」
 少し考える。
「どうかねぇ? 時にウミネコちゃんは時間って何だと思うかね?」
 今度はウミネコちゃんが少し考えた。
「昨日から今日、今日から明日に進むもの、じゃないの? 時計なら右回り。」
「まぁ、そうサねぇ。でも、こうも言えないかね? そうだと思えば都合が良い物。」
 ウミネコちゃんは羊皮紙を塒に放り込んだ。
「世界なんて全部後出しだって事?」
「そうサねぇ、大概はそう考えたからそうなったんじゃなくて、それを考えたらそうだったってだけサね。」
「ふぅん。」
 余り興味がないらしく、嘴で白い翼を整え始めた。
「ま、だから何だって言われても当たり前だってだけサね。」
「だろうね。ほら、ちゃんと太陽は西に沈むよ。」
 遠く水平線の向こうへ赤い太陽が沈んで行く。西の空は赤く、東の空は濃藍色から夜の黒に変わり始めている。真上は、混ざったような色。
「あの人にはそれが幸せじゃないのサね。」
 ウミネコちゃんが盛大にため息を吐いた。今日も世界は夜を迎える。
(了・丘の上の二羽)
 
 
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