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#02 瑕だらけのラプソディ
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──冬の日の。
聞こえる。聴いている。積み重なる時間は世界の色を変えた。それでもそれは変わらずに流れている。葦原愛美。歌っているのはそいつだろう。俺の頭を太腿に乗せて、癖のある長い髪が近い。赤い縁の眼鏡の向こうの目は、多分瞑ったままだ。俺が目を開ければそいつの目も開いて、薄い紅を塗った唇から小言が零れ出す。それならば眠っていた方が良い。
そう思って不貞寝を続けて何時間経ったのだろう。痺れを切らしたのは愛美の方だった。
「あら、夕飯の時間ねぇ、困ったわぁ。」
間の抜けた声が聞こえる。仕方なく目を開ける。その目蓋は俺を真上から見ていた。少し遅れてそれが開いて、眠たそうな目になる。
「おはよう。よく眠れたかしら?」
何も言わずに体を起こす。害悪でしかない。その感情は俺ではない誰か、もっと質の良い奴に向けられるべきだ。
「顕ちゃん?」
何が不満かと問われれば全てだ。俺自身も、この状況も、俺なんかに構っている愛美も、全てが気に食わない。
「未だ居たのか。食い物なんざねぇからさっさと帰れ。」
「はいはい。買い出しね。腐りやすい物は止しましょう。また捨てる事になっちゃうから。」
恐らく愛美は俺の話の半分も聴いていない。
「勝手にやって来いよ。俺はコンビニの弁当でも食ってる。」
それでも。俺の言葉に傷付いたような顔をするその人を放って置こうとは思えなかった。頭を掻く。窓の外を見る。雲が広がる真冬の空が見えた。その向こうに居るんだろう? 人がズタズタになった姿を見てケラケラと笑う性も質も悪い神様が。
「分かった。分かったから、そんな顔するな。」
「顕ちゃんが冷たいから。です。」
「悪かったよ、ったく、休みの日ぐらい休ませろよ。」
「疎かだからそうなるんでしょう? やっぱり顕ちゃんって不思議よねぇ? 真面目で稼ぎも悪くないのに、なんでそんなに人間が下手なの?」
答えは持っていない。
「俺だから、位だろうな。」
「調子は良いみたいねぇ。希望があれば沿うようにするわよ?」
髪を掻き毟る。その言葉は、その笑顔は、俺に向けられるべきものではない。言っても無駄だろうから諦めてもいる。
「仕事。」
「今日はお休みです。」
「趣味。」
「顕ちゃんの世話を焼く事かしら?」
ほら見ろ、無駄だ。外は寒い。コートを羽織って、ポケットに財布をねじ込む。愛美はゆっくりとした動作で応じる。真っ白なコートが揺れる。もう僅かに暮れかけた陽の中に真っ白な雪が舞ったように見えた。
「顕ちゃん?」
「いや?」
もう何度こんな意味の無い言葉を交わしただろう。愛美は口元を隠して笑う。俺は不満そうに頭を掻く。意味は、無いのだ。昼が終わり夜が来る。それだけだ。
「顕ちゃん、手、いい?」
それでもそれは隣に居る。俺は応える代わりに手を握る。一々断りを入れるな、とは言えない。頭へ向かいかけた手で柔らかくて、でも細い指をさらう。どうしても言えない。どうしても捨てられない。
だから、愛美は俺に振り回される。
眠そうな細い目が偶に間抜けそうにも見えるが、基本的には美人だと思う。鼻筋が通っていて、瑞々しい唇には常に微笑みがある。その下は言うまでもない。コートの上からでも分かる。俺みたいな男じゃなければとっくに食われていただろう。
「ねぇ、もっといやらしい目で見ても良いのよ?」
「止めとく。止まらなくなるから。」
「相変わらずねぇ。」
愛美は相変わらず口元を隠して笑う。見上げる空は相変わらずの鉛色。予報は降ると言っていた。どうだろうな。降っても文句は言えない。住宅地の端にある安アパートからこじんまりとしたスーパーマーケットまで徒歩で十三分。一人なら五分で歩ける。降り出したら置いて行こうか。できもしない事を考えて、少し笑った。
「顕ちゃん?」
「いや? 何でもないよ。急ごう。降りそうだ。」
「予報、どうだったかしらぁ?」
一々立ち止まって、ゆっくりと携帯端末を取り出す。だから遅くなるんだ。
「夜には降るってさ。ほら、急ぐぞ。」
手に力を込める。愛美は何度か表情を変えた。それがまた時間がかかる。
俺の所為だろ。
それを一つでも見逃したくない。
そうやって愛美に付き合わされる。
「ふふっ、そうねぇ、行きましょう。」
いっそ進んでくれたのなら。いつもの小言を零してくれたのなら。俺はその手を払って最後の言葉を吐き出せる。けれど、今日も愛美は俺の隣を俺の足の先を見ながら歩く。
結果は想像するまでもない。そんな事を繰り返して、二つの大きなビニール袋を下げた俺は恨めしそうに鉛色の空を見上げる。愛美は何もない風で真っ白な息と言葉を吐き出す。
「降って来ちゃったわねぇ?」
「まぁ、雪なら大丈夫だろ。」
「ちゃんと払ってから家に入るのよぉ?」
子供をあやす母親のようだった。実際その通りか。俺はいつまでも子供のままで、その所為で大人になるしかなかった愛美は俺をあやしている。
「顕ちゃん?」
違うか。俺は子供で居たかっただけか。付き合ってくれているのは愛美の方だ。なら尚の事。腹が立つ。いつまでも甘えたままで、何もなっちゃいない。
「愛美、お前、今日はもう帰れ。」
「え? 晩ご飯、顕ちゃん作ろうともしないでしょう?」
「いいよ。勝手に作って勝手に食うから、もう帰れ、ほら、すぐそこだろ?」
ぶら下げた袋で背中を押してやる。愛美は何度か迷ったような仕草をした。止めを刺そうと思えば、多分、いや、無理か、俺じゃあ。
「もぉ、分かったわよぉ、ちゃんと作って食べるのよぉ?」
「ああ、有難うな。」
搾り出す様に言うのが精一杯の、やっぱり俺はただの子供だった。愛美は何度か表情を変えて家に帰って行った。
俺は、愛美から見えなくなるまで歩いた。
それが精一杯だった。
厭だった。愛美にあやされるのは。
嫌だった。愛美が居なくなるのは。
簡単な問題の簡単な解さえ導き出せない。思い通りにならなくて、腕を振り回すだけの子供。しっくりきすぎてそれも嫌になった。踏み外した訳じゃない。日常は明日も巡る。でも、どうやら? いつか誰かが言った通り俺はまともではないようだ。
足と腕が重い。当たり前だ。愛美が嫌って程食料を買い込んだ。このまま抱えられる訳なんてなかった。
「畜生め。」
空を見上げる。さらに暗くなった空から雪が落ちて来る。畜生。居るんだろ。そこに。愉しいか? 笑えるか? ほら、お前の望み通り愛美を振り払ってやったぞ。繰り返して繰り返して最後まで行ってやる。笑えよ。糞の価値も無い神とかいうゴミ野郎。
掻っ攫われた。いや、後ろからあったかい何かが突っ込んで来た。
「ごめん、顕ちゃん、やっぱり、それは、放っておけない。」
奥歯を噛んだ。それしかできなかった。
「馬鹿野郎。」
両手と足に力が戻っていた。真っ白な息を吐きながら踏み止まる。
そして、愛美は真っ白な吐息と一緒に言葉を吐き出した。
「私、は、居なくならないから。ずっと、顕ちゃんの傍に居る、から、あんな顔しないで? お願い。」
ああ、コートが鼻水まみれになる。まぁ、良いか。
「愛美。」
「なぁに?」
「じゃあいいよ、ずっと傍にいろ。」
そうだったか? 憶えていない。恥ずかしくて忘れたか。畜生め。後ろで愛美が笑っている。
大きく真っ白な溜息を吐いた。
向き直る。そうして何かを言った。何を? 知るか。莫迦め。
聞こえる。聴いている。積み重なる時間は世界の色を変えた。それでもそれは変わらずに流れている。葦原愛美。歌っているのはそいつだろう。俺の頭を太腿に乗せて、癖のある長い髪が近い。赤い縁の眼鏡の向こうの目は、多分瞑ったままだ。俺が目を開ければそいつの目も開いて、薄い紅を塗った唇から小言が零れ出す。それならば眠っていた方が良い。
そう思って不貞寝を続けて何時間経ったのだろう。痺れを切らしたのは愛美の方だった。
「あら、夕飯の時間ねぇ、困ったわぁ。」
間の抜けた声が聞こえる。仕方なく目を開ける。その目蓋は俺を真上から見ていた。少し遅れてそれが開いて、眠たそうな目になる。
「おはよう。よく眠れたかしら?」
何も言わずに体を起こす。害悪でしかない。その感情は俺ではない誰か、もっと質の良い奴に向けられるべきだ。
「顕ちゃん?」
何が不満かと問われれば全てだ。俺自身も、この状況も、俺なんかに構っている愛美も、全てが気に食わない。
「未だ居たのか。食い物なんざねぇからさっさと帰れ。」
「はいはい。買い出しね。腐りやすい物は止しましょう。また捨てる事になっちゃうから。」
恐らく愛美は俺の話の半分も聴いていない。
「勝手にやって来いよ。俺はコンビニの弁当でも食ってる。」
それでも。俺の言葉に傷付いたような顔をするその人を放って置こうとは思えなかった。頭を掻く。窓の外を見る。雲が広がる真冬の空が見えた。その向こうに居るんだろう? 人がズタズタになった姿を見てケラケラと笑う性も質も悪い神様が。
「分かった。分かったから、そんな顔するな。」
「顕ちゃんが冷たいから。です。」
「悪かったよ、ったく、休みの日ぐらい休ませろよ。」
「疎かだからそうなるんでしょう? やっぱり顕ちゃんって不思議よねぇ? 真面目で稼ぎも悪くないのに、なんでそんなに人間が下手なの?」
答えは持っていない。
「俺だから、位だろうな。」
「調子は良いみたいねぇ。希望があれば沿うようにするわよ?」
髪を掻き毟る。その言葉は、その笑顔は、俺に向けられるべきものではない。言っても無駄だろうから諦めてもいる。
「仕事。」
「今日はお休みです。」
「趣味。」
「顕ちゃんの世話を焼く事かしら?」
ほら見ろ、無駄だ。外は寒い。コートを羽織って、ポケットに財布をねじ込む。愛美はゆっくりとした動作で応じる。真っ白なコートが揺れる。もう僅かに暮れかけた陽の中に真っ白な雪が舞ったように見えた。
「顕ちゃん?」
「いや?」
もう何度こんな意味の無い言葉を交わしただろう。愛美は口元を隠して笑う。俺は不満そうに頭を掻く。意味は、無いのだ。昼が終わり夜が来る。それだけだ。
「顕ちゃん、手、いい?」
それでもそれは隣に居る。俺は応える代わりに手を握る。一々断りを入れるな、とは言えない。頭へ向かいかけた手で柔らかくて、でも細い指をさらう。どうしても言えない。どうしても捨てられない。
だから、愛美は俺に振り回される。
眠そうな細い目が偶に間抜けそうにも見えるが、基本的には美人だと思う。鼻筋が通っていて、瑞々しい唇には常に微笑みがある。その下は言うまでもない。コートの上からでも分かる。俺みたいな男じゃなければとっくに食われていただろう。
「ねぇ、もっといやらしい目で見ても良いのよ?」
「止めとく。止まらなくなるから。」
「相変わらずねぇ。」
愛美は相変わらず口元を隠して笑う。見上げる空は相変わらずの鉛色。予報は降ると言っていた。どうだろうな。降っても文句は言えない。住宅地の端にある安アパートからこじんまりとしたスーパーマーケットまで徒歩で十三分。一人なら五分で歩ける。降り出したら置いて行こうか。できもしない事を考えて、少し笑った。
「顕ちゃん?」
「いや? 何でもないよ。急ごう。降りそうだ。」
「予報、どうだったかしらぁ?」
一々立ち止まって、ゆっくりと携帯端末を取り出す。だから遅くなるんだ。
「夜には降るってさ。ほら、急ぐぞ。」
手に力を込める。愛美は何度か表情を変えた。それがまた時間がかかる。
俺の所為だろ。
それを一つでも見逃したくない。
そうやって愛美に付き合わされる。
「ふふっ、そうねぇ、行きましょう。」
いっそ進んでくれたのなら。いつもの小言を零してくれたのなら。俺はその手を払って最後の言葉を吐き出せる。けれど、今日も愛美は俺の隣を俺の足の先を見ながら歩く。
結果は想像するまでもない。そんな事を繰り返して、二つの大きなビニール袋を下げた俺は恨めしそうに鉛色の空を見上げる。愛美は何もない風で真っ白な息と言葉を吐き出す。
「降って来ちゃったわねぇ?」
「まぁ、雪なら大丈夫だろ。」
「ちゃんと払ってから家に入るのよぉ?」
子供をあやす母親のようだった。実際その通りか。俺はいつまでも子供のままで、その所為で大人になるしかなかった愛美は俺をあやしている。
「顕ちゃん?」
違うか。俺は子供で居たかっただけか。付き合ってくれているのは愛美の方だ。なら尚の事。腹が立つ。いつまでも甘えたままで、何もなっちゃいない。
「愛美、お前、今日はもう帰れ。」
「え? 晩ご飯、顕ちゃん作ろうともしないでしょう?」
「いいよ。勝手に作って勝手に食うから、もう帰れ、ほら、すぐそこだろ?」
ぶら下げた袋で背中を押してやる。愛美は何度か迷ったような仕草をした。止めを刺そうと思えば、多分、いや、無理か、俺じゃあ。
「もぉ、分かったわよぉ、ちゃんと作って食べるのよぉ?」
「ああ、有難うな。」
搾り出す様に言うのが精一杯の、やっぱり俺はただの子供だった。愛美は何度か表情を変えて家に帰って行った。
俺は、愛美から見えなくなるまで歩いた。
それが精一杯だった。
厭だった。愛美にあやされるのは。
嫌だった。愛美が居なくなるのは。
簡単な問題の簡単な解さえ導き出せない。思い通りにならなくて、腕を振り回すだけの子供。しっくりきすぎてそれも嫌になった。踏み外した訳じゃない。日常は明日も巡る。でも、どうやら? いつか誰かが言った通り俺はまともではないようだ。
足と腕が重い。当たり前だ。愛美が嫌って程食料を買い込んだ。このまま抱えられる訳なんてなかった。
「畜生め。」
空を見上げる。さらに暗くなった空から雪が落ちて来る。畜生。居るんだろ。そこに。愉しいか? 笑えるか? ほら、お前の望み通り愛美を振り払ってやったぞ。繰り返して繰り返して最後まで行ってやる。笑えよ。糞の価値も無い神とかいうゴミ野郎。
掻っ攫われた。いや、後ろからあったかい何かが突っ込んで来た。
「ごめん、顕ちゃん、やっぱり、それは、放っておけない。」
奥歯を噛んだ。それしかできなかった。
「馬鹿野郎。」
両手と足に力が戻っていた。真っ白な息を吐きながら踏み止まる。
そして、愛美は真っ白な吐息と一緒に言葉を吐き出した。
「私、は、居なくならないから。ずっと、顕ちゃんの傍に居る、から、あんな顔しないで? お願い。」
ああ、コートが鼻水まみれになる。まぁ、良いか。
「愛美。」
「なぁに?」
「じゃあいいよ、ずっと傍にいろ。」
そうだったか? 憶えていない。恥ずかしくて忘れたか。畜生め。後ろで愛美が笑っている。
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