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#03 四季彩姫
しおりを挟む──日々を彩る。
朝。私は扉を開ける。私はカーテンを開ける。私は薄い色に包まれる。今だけは、この部屋の空気も、窓の向こうを漂う空気さえ、誰のものでもないような気がする。今なら私でも色を重ねる事ができる気がする。薬缶の中の深い青を、炎の赤を、紅茶に注いだミルクの白を。混ざり合う色はまた朝の空気に薄められて、私の名前と同じ色になる。今、ゆっくりと開いた扉の向こうで、眠そうな顔を微笑ませる貴方が好いてくれる色に。
降り積もった雪が月明かりに照らされ、どこか青を帯びたような不思議な色になっていた。私はリビングの窓辺に立ってそれを見ている。真夜中の空気は噛み付くようだったが、指先一つ動かせなかった。見惚れていたのだ。寒さを苦痛に感じられぬ程、その光景は美しいものだった。
「お父さん?」
振り返ると愛娘が目を擦っていた。薄闇に目を凝らしているのか、単に眠いだけなのかは分らなかった。
「何やってるの?」
片脇に熊のぬいぐるみを抱えていた。何度目かの誕生日に私が買い与えたもので、夜に歩く際は必ず抱えている。
「雪が綺麗だから見ていたんだよ。」
娘は大きなスリッパでパタパタと音を立てながら私の隣に収まり、小さな掌を冷たい窓硝子に当てた。私は寝具の上に羽織っていたシャツを脱ぎ、娘の肩にかけてやった。
「さぁ、風邪をひかないうちに寝なさい。」
娘は一度私を見上げ、また名残惜しそうに窓の外を見た。燦々とした瞳を見付けた時に気付いてはいたが、暫くの間は動いてくれそうにない。私は仕方なくヒーターのスイッチを入れ、小さな体に我が身を寄せた。
「きれいだね。」
娘の言葉に私は苦笑し、頷く代わりに細い肩を摩ってやった。程なくしてヒーターが熱を吐き出し、仄かな熱が窓辺に溜まり始めた。
ゆらゆら、ゆらゆらと蝋燭の炎が揺れている。私は唯それを見ている。ゆらゆら、ゆらゆらと揺れる。その度に闇と、赤い光に切り取られた風景が形を変える。人の心と似ている。容易く揺らぎ、形を変え、ほんの一吹きで闇に飲まれる。再び火を灯せる事も、たった一生を燃やし尽くして終わる事も。あの日、貴方の一生は余りにも呆気なく燃え尽きてしまった。その時からずっと、私の心は変わり続けた。少しずつ、一つずつ、息をする度に、秒針が進む度に、貴方を忘れていった。あの頃、あんなにも近くに感じていた貴方の心が、今はもうとても遠くに行ってしまったように思える。写真を眺める程、貴方を思い出す程、この枯れ木のような腕を振り回してもがく程に、貴方が少しずつ遠くなってゆく。
それでも、たった一つだけ変わらないものがあった。私の人生で、恋人と呼べるのは貴方一人。多少なりとも努力はしてみたけれど、どうしても貴方の影を追ってしまう。こんなにも薄れて、今にも消えてしまいそうな貴方の影を。きっと私は、死ぬまで貴方の影を見続けるのでしょう。もし、その不幸に私が耐えきれなくなったら、どうか、どうか許して下さい。貴方の愛してくれた私を殺してしまう事を。
ゆらゆら、ゆらゆらと蝋燭の炎が揺れている。私は、嗚呼、その揺らめきの中にさえ貴方の影を見ている。
どんな記憶の中にもその赤い色はある。それは確か僕が十五の時に買ってやった物だからそれ以前の記憶には無い筈なのに、幼少の頃の記憶にさえ鮮明な赤がある。今、ウイスキーで満たしたグラスを傾けながら見る景色でも、その色はやや褪せてはいるが消える事無く揺れている。だらだらと酒を飲む僕に横顔を向けて狭い台所に立っている女性、その人の長い黒髪を束ねている布がそれだ。確か誕生日の贈り物だった筈だが、何と言って渡したのかは覚えていない。ゴムではすぐに伸びてしまうし、金具があっては邪魔だろうとか思ったのだったか。何にせよ五年以上も使って貰えるならもっと良い物にすれば良かったか。
「なぁ。」
「なぁに?」
問いかければ優しい調子の声が返ってくる。
「髪留め、いい加減に新しいの買ってやろうか?」
その人は微笑みながら戻って来て、自分のグラスと小皿を幾つか小さなテーブルに並べてくれた。
「そろそろ似合わない年になったかしら?」
この部屋に居る時、彼女はいつもその布を付けている。
「似合っちゃいるけど、もう随分古いだろう?」
「貴方が嫌がるから外では付けないわよ。それに、」
そう言って布を解いて、端を僕の小指に巻き付けた。
「ね?」
「いや、分からないけど。」
頬を膨らませるその姿は、愛らしい。
「これは貴方と私を結ぶ赤い糸だから。」
もう片方を自分の小指に結んで言う姿に、そう思ってくれるその人に、嗚呼、記憶の中だけでなく、目の前の古ぼけた赤さえも鮮明になってゆくようだった。
時計の針が午後三時を回った頃に雨が降り出した。大きな雫は漸く暖かく感じられるようなった空気を切り裂き、幾つも幾つも叩きつけるように降り注いだ。緑を湛えた木々に、敷き詰められた砂利に、石灯篭に、コンクリートに、次々と暗い色が広がっていく。僕は縁側に立ってそれを見ている。僅かな湿気と、濡れた土の匂いが舞い上がって来た。つい最近まであった冬の所為か、出不精な自分の性質の所為か、その匂いが酷く久しく、懐かしいもののように感じられた。これから来る初夏の雨、梅雨の雨。夏の夕立と順に眺める頃にはもうそんな感触は無くなっているかも知れない。すでに僕は去年の今日を忘れている。煙草を取り出し、一本銜えて火を燈した。この雨の匂いの中に、煙草の匂いを混ぜてみたいと思った。
「降ってきましたね。」
気が付くと隣に儚げな少女が立っていた。慌てて煙草の火を消そうとすると、彼女はすっと僕の袖口を掴んだ。
「消さないで下さい。」
僕は仕方なく煙草を銜え直し、雨粒の中へ煙を流した。まるで雨に打ち消されるように消えてゆく煙を眺めて、少女は不思議そうな顔をしていた。
「なんか綺麗ですね。」
僕は否定も肯定もしなかった。代わりに違う言葉と煙を吐き出す。
「何か欲しい物はあるか?」
「急に何ですか?」
「煙草を吸うのを許してくれる代わりに、」
少女は無邪気な声で笑った。
「ここは貴方の家でしょう? でも、くれるのなら貰っておきます。」
そう言って少女は煙が消えた先の、雨雲を見上げた。
「明日も変わらずに居て下さい。私に遠慮しないで、好きにして下さい。雨は。」
そこで一度言葉が途切れた。
「すぐに流れて、乾いて、消えてしまうので、貴方はそうならないで下さい。」
僕は頭を掻きながら、それが一番難しいと答えた。少女は変わらぬ無邪気な笑みを向けてくれた。僕はため息を吐きながら、それでもこの変わり者の少女と明日も変わらずに生きていく。
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