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#04 翡翠
しおりを挟む──鮮やかな宝石か窓辺の鳥か。
日常は嫌になる程退屈で大変だった。仕事は漸く落ち付いて来たが、体調はすこぶる悪い。酒の飲み過ぎか、本当に神経をやられているのか、まぁ、良いよ。別に今すぐ死にそうになっている訳じゃない。
「なんでいつもそうなのかなぁ?」
人付き合いは苦手だ。できれば一人で居たい。休日ならば特にそう思うのだが、樋口翡翠なんて大層な名前のソレは今日も窓辺に置いた椅子を占拠して眉を吊り上げていた。ボブカットだったか? そんな長さの髪が忙しなく揺れている。
「君、君よ、君ねぇ?」
原因は俺だ。宙に浮いた理由とこの手の置き場を分かっていない。でも、だからと言って誰かを困らせている訳でも誰かを苦しめている訳でもない。ならば少しぐらいの粗相や愚痴には目を瞑って欲しい。けれど、無理だな。コレには。
「佐原君、佐原健一君。聞いてるのかな?」
聞いちゃいないし、聴く気なんてさらさらない。コレと俺の関係はかなり古いが、きっと昔からそうだった。何故かソレはいつも俺の隣に居て、いつも俺に目くじらを立てている。
「いっそ君が死んでしまったのならね、私も一緒に死んでしまえるんだけどね?」
「なんでお前まで一緒に死ぬんだよ。」
「君は覚えちゃいないだろうけど、私が生きてるのは君の所為だよ? 私は、私の名前だけならまだしも大切なものまで壊そうとする世界なんか大嫌いだ。居たいなんて思ってない。」
一度だけ頭を掻きむしった。それができるのは多分この瞬間だけだと思った。ソレは何も言わずに何かを考えていた。その隙に棚に置いたままになっていたそれ程高くないスコッチの水割りを二つ作った。ソレがまた呆れ顔を作ろうとしたからグラスを一つ渡した。少しだけ零れた。勿体ないとは思わなかった。必要な犠牲なのだろう。
「翡翠も呑め。その後なら話も聴いてやる。」
ソレがグラスを受け取ってから、次の言葉が零れるまで少し間があった。
「ねぇ、もう一回翡翠って呼んで?」
「翡翠。」
ソレは少しの間だけ目を閉じた。俺は構わずにスコッチの水割りを胃に押し込む。跳ね返るような感触はなかった。今日は上手く酔えるかも知れない。ソレは一度俺の顔を見た。目の底を睨んだのだと思う。
それは彼女の世界の中だけの悲劇で、誰もそれを大事にしようとは思わなかったし、できれば時計の短針が六を過ぎる頃には忘れたかったんだろう話だろうが、その結果の責任を俺に問うならば俺は何か返事をしなければいけない。それ位の覚悟はしたから先に頭を掻きむしった。後は答えるだけだ。
「お前が嫌いな誰かはやっつけた。お前もお前が嫌いだけど、俺にはやっつけられないからほっとく。後は好きにしろ。」
「ねぇ、健ちゃん?」
「ん?」
「どうしてそんなに優しくしてくれるのに、君は君には嫌な事ばっかり言うのかなぁ!?」
白くて細い指が伸びて来て、頬を抓る。抵抗はしなかった。その答えも、ソレの問いの答えもここにある。あるけれど、上手く伝えられない。だから何度も同じ話を繰り返している。
「さぁ? 俺だから、ぐらい?」
「明瞭じゃない。」
呆れたように指が離れた。
「俺は俺の事嫌いだから。か。しっくり来るだろう?」
「私は健ちゃんの事好きなのに?」
一瞬のシジマに一瞬だけ混乱した。その後は笑えるだけだった。
「何がおかしいのサ?」
とりあえずソレを手で制して笑えるだけ笑う事にした。ソレは少しの間だけ怒りに身を震わせて、何かを諦めたようだった。
「それで?」
彼女が吐き出した言葉の意味は過不足無く理解できていると思う。
「樋口翡翠は佐原健一が好きで樋口翡翠は嫌い。佐原健一は樋口翡翠が好きで佐原健一は嫌い。」
「全く、うまくいかないもんだねぇ?」
そう言って翡翠はグラスの中身を一気に飲み干した。空のグラスを叩きつけて咽た。目は相変わらず俺の目の底を睨んでいるが、口元には微笑があった。なら、それで良いか。
「まぁ、うん。そうだね、健ちゃんと一緒に居るならそれ位許してあげなきゃね?」
また頭に向かいかけた手を止める。俺がそういう動作をするのは困った時か呆れている時か悩んでいる時で、それは今出すものじゃない。
「いいよ、いいよ。ごめんね、もっと違う言い方すれば良いんだもんね? そうだねぇ、」
「月が綺麗ですね。」
言う予定はなかった。翡翠は俺がその一言の意味を知っている事を知っている。ほら見ろ、変な顔で笑ってやがる。やっぱり俺みたいなろくでもない奴のろくでもない口は縫ってしまった方が良い。
「それは健ちゃんからの言葉、って事でいいよね?」
仕方なくなってまたスコッチの水割りを二つ作った。黙って差し出すと翡翠は今日一番の笑顔になってくれた。
「でも、一つだけ不安なんだよね。」
グラスの縁を指でなぞっている。言いにくい事を言う時の仕草だ。
「なんだ?」
少し間があった。グラスの中身を少し口に含んで飲み込む。翡翠も同じ動作をした。水で薄めたアルコールはそれでも結構な刺激のあるものだった。翡翠も同じ感想だったのだろう。次の言葉は冗談じゃ済まない。
「私の名前と、私の目の色、健一君は、本当に好いてくれる?」
わざわざ高校時代の呼び方しなくても分かってる。それが原因でいじめられて、それがかなりエスカレートした時に俺が暴れた。その頃にはもう何がどうでも良かった。ただ、色の違う髪を校則に合わせて染色して、カラーコンタクトまで着けていた奴の目に無理やり指を入れてそれを盗ろうとする奴らには我慢がならなかった。
殺してしまっても構わないと思った。自称育ての親と毎日ボクシングに励んでいたのが功をそうした。俺には何もないし、いっそそれならその方が良い。
それから少し暮らしが変わった。良く分からない場所で良く分からない事を言われたが一つも理解できなかった。自称育ての親とはあれから一度も会っていない。それで自称なんだと知った。
そうして一人で暮らし始めた俺の部屋の隣に翡翠が引っ越して来た。その先は、今夜みたいな事をずっとやっている。それで良いと思う。ああ、そうだよ。ずっとこうしていたい。
「樋口翡翠。ロシア人とのハーフ。結局金髪に青目か。良く似合ってるよ。俺なんかを好いてくれてありがとうな。」
ゆっくりと時間をかけてテーブルを迂回して来た暖かい塊が俺に抱きついて来た。俺はこの青い目の少女に翡翠と名付けた人の心境を考えていた。願いは、叶ったのかも知れない。もうこの世には居ないその人の事を考えながら、催促する翡翠の頬に触れた。
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