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#07 夏の詩
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──瞬きの間に過ぎる季節。
夏の水
──朝。
柄杓から飛び出した水が放物線を描いてアスファルトの上で跳ねた。否、僕の靴の上で跳ねてジーパンに染み込んだ。
「あははー、ごめんねー。」
長谷部葉子という名のそいつは茶色の髪を揺らせながら笑い、何事もなかったかのように水を撒き続けている。
「乾くまで店の中に居なよ、どうせ暇でしょ? 少しならオマケしてあげるからさー。」
僕はため息を吐きながら看板を眺める。高級甘味一葉と書いてあるが、高級だと思った事は一度も無い。餅や豆がメインだと思う。人に訊けば茶の種類が多いとか紅茶が美味いとか言われる。紅茶と餅は合わないだろうと思うが、店主の趣味で出しているらしい。ならば洋菓子でも出せと言いたくなるが、それは隣の店で買うようだ。ぼんやりとそんな事を考えながら準備中の札が下げられたままの扉を開け店の中に入った。店の主と違って落ち着いた雰囲気の内装だ。カウンターに椅子が五つ、小上がりには四人ぐらいで使うテーブルが三つある。隅には座椅子も置いてあった。時間帯によっては全ての席が埋まる。老夫婦が散歩のついでに立ち寄ったり、学校帰りの学生が喋っていたり、そういえば仕事に疲れた小説家が死にそうな顔で蜜豆を食べていた事もあった。洒落た花瓶や何故か盆栽やら洋画が飾ってあったりするが、一応は馴染んでいる。どれも客が置いて行ったものだ。頼まれるまま張り付けたらしい地域の行事のポスターなどもある。店主曰く、立ち寄れば町の行事が大体分かる、だそうだ。
とりあえずカウンターの端に座り、靴を脱いだ。靴下まで濡れていた。
「怜はいっつも端っこだねぇ。空いてるんだから座敷に上がれば良いのに。」
「畳と座布団が濡れて良いならそうする。」
「あはは、今日は仕方ないか。」
僕がこの女に水をかけられるのは初めてではない、というより暑くなると通る度にかけられる。それ以外の時期は大体竹箒で襲われてそのまま店内に連行される。
「こうでもしないと客が来ないのか?」
「ううん。お爺ちゃんの頃からのお客さんも未だ生きてるし、団塊の世代っていうの? そういう暇な人もばっちり抑えたぜ。」
葉子はけらけら笑いながら言葉を選ばずに吐き出す。客のウケは良いらしい。僕は勘弁して欲しいが。
「そりゃ良かった。じゃあ僕は帰る。」
「えー? 良いじゃん、蜜豆あげるからゆっくりしてきなよ。」
そう言いながらお茶を入れてくれた。多分この店で一番安い葉だろう。
「豆かんにしてくれ。」
余り間食をする性質ではなかったが、葉子に絡まれるようになってから頻度が増えた。幸いな事にまだ体重には響いていない。
「あいよー、すぐ出してあげるからねー。」
やがて出されたのは豆と寒天の他に果物が入った蜜豆だった。もはや何も言うまい。一番上にあったサクランボをつまみ上げ、口に放った。
「そういえばさー、もうすっかり夏だね?」
打ち水をする程だ、そりゃ夏だろう。
「涼しいトコ行きたくない?」
ある程度察する事ができた。葉子の狙いは僕が商店街でやっていたくじ引きで当てて妹に渡した水族館の無料券で、その情報は当然妹から漏洩したのだろう。そして妹は僕が券を返せと言ったら見返りを要求する。余り財布に余裕がある訳ではないからできれば勘弁して欲しいが、無視をするほど関係が薄い訳ではない。
「分かったよ、全く。妹は何欲しがってた?」
「あはは、小物が欲しいって言ってたよ。」
当たっていた。しかも恐らく昼飯も僕の奢りになる。果物を口に運び、しかしため息が零れた。
「そこまで分かるなら先に誘ってくれれば良かったのに。」
珍しく葉子は視線を逸らして言った。何も答えられない。これは僕の含羞だ。
「ま、良いけどさ、んじゃお店開けるねー。」
そう言われてジーパンの裾を気にした。まだ乾いていないが、それ程目立つ訳ではない。この店には僕をからかいに来ているのかと疑いたくなるような輩も居るが、まぁ大丈夫だろう。何気なく眺めた、葉子が開けた扉の向こうに先程水を撒いた地面が見えた。そんなに悪いもんじゃないだろう。誰にとなくそう呟いて一人で頷いた。
オレンジの陽光
──光のある方へ。
やや視線を落として歩く俺の頭から背中にかけて夏の陽射しが伸し掛かっている。さっきまでコンビニの冷房に当たっていたのにもう汗が噴き出している。後数分で目的地に着くが、二リットルのペットボトルの中身はぬるくなって、アイスに至っては溶けているんじゃないかと思う。しかも重い。数十秒と経たないうちに馬鹿馬鹿しくなってきた。いっそこの重い荷物を放り投げて家に帰ってしまおうか。普段は電気代を気にして使う時間を制限しているクーラーも外が涼しくなるまで点けてしまって、その中で昼寝でもしてやろうか。しかし現実は残酷だ。家に帰るまで十分ほどかかる。荷物を投げ捨てて帰るよりも後一分程度で着いてしまう目的地へ向かった方が良い。それに、一度引き受けたのだし、礼を言われない訳でもない。まるで伸し掛かる陽射しに押し出されたようなため息が出た。やけに重くなった足を引きずり、短い日影の坂を登ると目的地に着いた。どうせすぐは出ないだろうと思いながら呼び鈴を鳴らす。時間にすればたっぷり一分程度、俺が三度目の呼び鈴を鳴らした後で漸く扉が開いた。
「あ、いらっしゃい。ありがとねー。」
当人は涼しい顔をしている。部屋から漏れ出して来たのも過剰な程冷えた空気だった。俺は無言で荷物をそいつに渡し、部屋に上がり込むと冷房の設定温度を三度程上げた。
「あー、そんなに上げたら暑いよぉ。」
渡会瑞穂という名のそいつはそう言って俺が買って来たばかりのアイスを頬張った。気が付けばウーロン茶もグラスの中で氷を浮かべられていた。
「そんなだから冷房病だとか言って具合悪くなるんだろ。」
とりあえず座布団の上に座り俺の前にも並べられたアイスをスプーンで掬った。矢張り少し溶け始めていた。
「にーちゃんはいつも意地悪だね。」
瑞穂は俺をそう呼ぶ。血の繋がりはないのだが、困る事もないから直そうとした事もない。
「この炎天下の中買い物させて言う事がそれか?」
「じゃあ訂正、一部意地悪だね。」
根本的な解決になっていないが、もう面倒だから何も言わなかった。代わりに目の前でアイスを胃に流し込んでいく少女について考える。もう二十歳を過ぎているのだから少女と言うと語弊がありそうだが、瑞穂を見ているとどうしても女性とは呼べない。一応職を持っていて一人暮らしの部屋もあるが、仕事以外では外に出ない。部屋に篭って何をしているのかと思えばホラー映画鑑賞かゲームだ。見た目も下手をすれば小学生で、ろくに気にしない服は実益しか考えてられていない。一応髪は気にしているらしい。朝に少しでも長く寝ていられるようにセットしやすい長さを保っているそうだ。
「ん? どうしたの?」
「いや? なんでもねぇよ。」
適当に言葉を返しながらテーブルの上に持ってきたDVDを並べる。
「ねぇね、明日休みだよね?」
何が言いたいのかすぐに分る。その為に荷物が増えて、俺の苦労も増えた。
「酒に付き合ってくれるのか?」
「えー?」
声の調子が軽いのは言いたい事が伝わって、俺が言った言葉には何一つ強制力がないからだろう。俺と瑞穂はそんな関係だ。
「偶には酔わせて悪戯してやろうか。」
だからこんな言葉にも軽い言葉が帰って来るだろうと思っていた。
「ん、えっと。」
言葉に詰まるのは珍しい事だった。いつもだったら適当に言葉を吐き出すか、面倒な時は面倒くさそうに天井を見上げる。
「冗談だ。」
瑞穂は上目遣いで俺を見ながら、それでも俺の疑問は理解したようだった。
「職場の人に、ね、にーちゃんの事喋ったら、」
そこで言葉に詰まったようだったが、察する事はできたからあえて訊こうとは思わなかった。
「ところで晩飯の食材はあるんだろうな?」
「多分あると思うけど。」
嫌な予感がしたから一応確認してみた。肉も魚も少しずつしか無かった。豆腐と乾燥わかめはあったが味噌が無かった。パスタはあったがソースは無かった。ソバはあるがわさびは無い。組合せればなんとかなりそうだったが、結局その場凌ぎにしかならない。
「夕方になったら買い物行くぞ。」
「えー? 折角にーちゃんに買い物頼んだのにさー。」
話題を逸らす都合もあって逐一説明してやった。瑞穂は少し思案顔を作った後で淀みなく言葉を吐き出す。
「納豆パスタにしちゃおう。もしくはピザでも取ろう。」
「却下だ。どうせ明日の朝になんでパンが無いんだって言うだろ瑞穂。」
今日は未だ口にしていなかった名前が妙な響きを持っているような気がして、少し温度の上がった部屋の空気も妙な感じに変わった気がした。耐え切れなくなって煙草と携帯灰皿を手にして立ちあがった。瑞穂が口を開いた。
「あ、ここで吸って良いよ。」
壁紙がどうとか気にする奴ではないが、匂いは気になると言っていた筈だった。
「だって、もしにーちゃんが。」
何となくそれ以上言わせるのは酷な気がした。
「気が変わった。今から買出しに行くぞ。」
「え? まだ暑いよ?」
「良いから行くぞ。」
煙草を胸ポケットに、財布をポケットにねじ込んで玄関へ向かった。瑞穂は渋々といった感じで付いて来た。外はさっきと変わらず伸し掛かるような陽射しがあった。瑞穂は膝に手をついてそれでも何故か恨めしそうな顔はしていなかった。
「にーちゃんと一緒だと、いつも明るいトコに行っちゃうね。」
普通に生活していたらいつでも感じられる程度の明るさだろうと思う。ましてや今は夏で、今日は十分すぎる陽射しがある。
「あはは、にーちゃんでも分らない事ってあるんだ。」
なんだか馬鹿にされている気がしたが、悪い気はしなかった。
「あ、確かそこの公園に灰皿あったよね。」
「瑞穂が外の事知ってるなんて珍しいな。」
「むぅ、しょっちゅう散歩しに来るじゃん。」
「俺が引きずってな。」
そんな事を言いながら公園の隅にある自動販売機コーナーへ向かった。瑞穂は炭酸を所望し、俺は仕方なく買ってやった。それから少し離れて煙草に火を点けたが、瑞穂はわざわざ俺の隣に来てジュースを飲み始めた。
「匂い付くぞ。」
「別に気にしないってば。」
瑞穂が何を考えているのかは大体分かる。認めたくない訳ではないし、迷惑でもない。ただ。
「無理はしなくて良いからな。」
「にーちゃんだって。」
両手で缶を抱えるその姿は、愛らしいと思う。
「暑い中歩くのは面倒だが、それは夏の所為で瑞穂の所為じゃない。」
瑞穂は少し嫌そうな顔をした。選んだ言葉がお気に召さなかったらしい。仕方なく俺は違う言葉を吐き出す。
「お前の為なら何でもやってやるから、遠慮するな。」
今度はお気に召したらしい瑞穂は俺に寄りかかって来た。
「私ね、太陽とか外の空気とか嫌いだから、にーちゃんと一緒じゃないと外に出ないから。だから、ずっと一緒に居てね。」
頷く代わりに吐き出した真っ白な煙はオレンジ色の陽光の中へ溶けるように消えていった。何だか妙に眩しいなと、そんな風に思った。
初夏の日
──愚か者に祝福を。
朝からずっと晴れていて昼前には暑いくらいになっていた。偶の休日だがする事はない。窓を開けて風を浴び、だらけていると時計の針は一時を指していた。昼飯を食っていない。もしかしたら朝飯も食っていなかったかも知れない。空腹は余り感じなかったからどうでも良いのだろう。時計の針はゆっくりと回る。そろそろ何か食べようかと思ったところで来客があった。隣に住んでいる娘さんだった。やや幼い感じのする顔に赤い縁の眼鏡を掛けていて、綺麗な黒髪が背中まで伸びている。年は確か十九だったか。僕より二つ下で大学に通っている筈だ。親同士の仲が良かった所為か顔を合わせる事が多かったが、僕の父が死んでからは足繁く通うようになった。母を早くに亡くし、祖父母も亡くなって久しい。姉も家を出たから、今はこの広いだけの家を僕一人で使っている。昔の馴染みとして心配してくれているらしい。
「お昼は食べましたか?」
当然のように台所でお湯を沸かし始めた娘さんがそう言った。恐らく今日は未だ使われていない台所が不満なのだろう。未だだと答えると蕎麦を茹でてくれた。皿の上の刻み海苔が乗った蕎麦と、鶏肉と葱の入ったつけ汁と、何事も無いように麦茶を飲む少女を順番に眺め、僕はため息を吐いた。
「なぁ、桔梗。」
彼女の名前だ。成程と思う程良く似合う、美しい花の名だ。
「何ですか? 食べ終わったら掃除をしたいので、早く食べちゃって下さい。」
「掃除はもう良いよ。」
何かを言いかけた桔梗を遮って続ける。
「引っ越そうと思ってるんだ。」
「何故ですか?」
もう随分と古くなった家だし、何よりも一人で使うには広過ぎる。幸いな事に父は遺産を残してくれたから、解体する費用はある。土地は、買い手がつくなら売ってしまおうと思っている。
「何故ですか。」
桔梗は強い口調で繰り返した。ここを離れようとしている本当の理由はこれだ。桔梗は、こんなあばら家で、僕なんかに構っているような女性ではない。
「分かりました。一人では広過ぎると言うならば私に部屋を下さい。」
「桔梗。」
「二人でも足りませんか?」
桔梗を宥めるのに蕎麦が伸びる程の時間を要した。温くなったつけ汁と一緒に胃に押し込んで、煙草を銜えてすぐに箱に戻した。
「吸って良いですよ。貴方の家じゃないですか。」
苦笑しながら煙草に火を燈した。煙はすんなりと入るのに、桔梗が言った「貴方の家」という言葉はなかなか咀嚼できなかった。この家の思い出というものを、僕は言葉にする事ができない。写真は長い間飾られてすっかり色褪せた物が壁に掛けられているだけだ。愛着と呼べるものは、どうやら一つとして持っていないようだ。
「それは、きっと貴方のお母さんが亡くなった時に。」
桔梗は気まずそうに俯いた。僕の母は自らその命を絶った。それだけだ。その事に関して僕は何も思わない。幽かに己の無力と浅はかさを恨んでいるだけだ。
「嘘です。」
その言葉よりも、桔梗の眼差しの真剣さに困惑した。
「それぐらいは分かりますよ。昨日今日の付き合いではありませんから。」
何を分かっているのかは知らない。認める心算もない。桔梗は悲しげな表情をした後で、一つ大きなため息を吐いた。
「もしかして、この家が私や貴方を縛っていると思っているのですか?」
僕の事はどうでも良いし、やや違っているような気もするが、的外れでもないか。桔梗は、僕に縛られ、傷付けられている。ならば僕が離れれば良い。
「貴方は愚かです。」
それは良く知っている。
「いいえ、貴方は何も分かっていません。傷付けるのも苦しめるのも当然ではないですか。貴方は人間ですよ? どんなものも傷付けずに居るなんて不可能です。むしろ私で良かったと思います。」
桔梗が僕の肩を掴んだ。
「そもそも何故私がここへ通っていると思っているのですか。」
それは恐らく哀れに見えるらしい僕への、
「愚か者!」
高く澄んだ大きな声だった。
「好いてもいない相手にここまでしませんよ。」
僕は、負けた。その声に、言葉に、涙に敗北した。
数日後、業者が見積書を持って来た。誰かが僕は拗ねているだけだと言ったが、それだけではない。長年の風雨に耐え、家族を守って来たこの家はもう限界を迎えている。単純な修理や、補強が必要な個所が多くあった。何故か立ち会った桔梗の強い要望で水回りは大規模なリフォームが施された。
「この縁側はこのままなんですよね?」
胡坐をかいて座る僕に寄り添って座りながら桔梗が言った。僕はそうだと答えた。
「覚えていますか? いませんよね。ずっと昔もこうしていたんですよ?」
ため息で答える。桔梗は不満そうに僕の目を見上げ、何かを了解したようだった。
「貴方は本当に愚か者です。」
桔梗が呟いたそんな言葉は、優しい響きを残したまま、初夏の空気の中に、僕の胸の中に溶けていった。
一瞬の旋律
──さようなら。
少しずつ陽射しの色が変わっていく。僕は縁側の柱に背中を預けて座り、ぼんやりとそれを眺めている。僅かに次の季節を含んだ風が流れて来て、そっと風鈴を鳴らした。もう外してしまおうかと思った。もう直ぐ現れる青く澄みきった高い秋の空の下で風鈴の音が響いてしまったら寂し過ぎる。僕は立ち上がって風鈴に手を伸ばした。毎年同じ場所に吊るしているから、沢山の思い出がある。その全てが過ぎ去ってしまった。何もかも、終わってしまった過去の事だ。風鈴を外してテーブルに置くまでの間に、また少し記憶の色が褪せたような気がした。気が付けば蝉の声も消えている。今年の夏もまたその名残と記憶があるだけになってしまった。棚から小さな箱を取り出して風鈴を仕舞った。或はこれで見納めになるのかも知れない。そう思いながら箱を閉じて棚に戻した。ふと、棚の中で傾いている小さな箱を見付けた。手に取ってみても中身が思い出せなかったから、取り出して蓋を開いてみた。中には紐状の緩衝材が敷き詰められていて、その上に小さなオルゴールが乗せられていた。僕は苦笑してそれをテーブルに乗せ、箱は棚に戻した。小さなハンドルを回すとシリンダーが回転して取り付けられたピンが櫛歯を弾く。そうやって音を鳴らす簡単な仕掛けのものだ。時の流れが櫛歯を僅かに錆びつかせていたけれど、儚げな音色はあの頃と変わらずに響いた。褪せた記憶の色がほんの少し鮮明になったような気がする。これはあの人が僕にくれたものだ。あの人、野村咲子は二つ年上の女性で、切っ掛けはもう思い出せないがあれこれと僕の世話を焼いてくれていた。互いに兄弟がいなかったから、その真似事でもしていたのだろう。互いに寄せ合っていた感情の正体さえ知らないうちに咲子はこの町を出て行った。その時に貰ったオルゴールだ。いつだったか、二人で町を歩いている時に見つけて買ったものだったと思う。一緒に買って僕が机に置いていた犬の置物は咲子が持って行った。それから五年になる。もう自分にどんな煩悶があったのかさえ覚えていないが、半年程は飾っていて鳴らしたりもしていたけれど、その後箱に納めて棚に仕舞いこんでいた。どうせ叶わないなら蓋をしてしまった方が良いと、恐らくそんな事でも考えたのだろう。そんな記憶も色褪せて薄れていく。今小さく跳ねる名も知らない旋律は空気に溶けるように流れるばかりで、どんな感情も連れては来なかった。そういえば最後に撮った写真もどこかに仕舞ったままだったな。その程度の感情だから仕舞いこんだだけで褪せてしまったのだろう。まぁ、良いさ。気が向いたら探してみて、見付かったら眺めてみよう。見付からなければ、それで良い。今更何をどうできる訳でもない。仄かに色の宿った記憶など風の中にある次の季節と同じだ。そう思えるだけで触れる事などできない。オルゴールを自室へ持って行き机に飾って庭に出た。秋と言うには熱が残り過ぎているが、夏と言うには足りない。よく晴れた晩夏の日と言うには少し雲が多いようだし、陽射しを遮って秋の支度をしている風でもない。いかにも中途半端なこの風景はどうにもならない僕には合っているようだった。時はただ流れ移ろい、僕はただここに居る。生きていると確信する事はできないけれど、心臓は確かに脈を打っている。ただそれだけの事だ。
本当にそうか?
いつも背後から僕を見ている誰かがそう言った気がした。僕は苦笑して煙草を銜える。何も知らない訳ではない。分かってるさ。僕は諦めている。言葉を積み上げ、足を動かし、手を振り回せば変わるかも知れない何かを諦めている。何も知らない訳ではないのだ。積み上げた言葉はやがて崩れ、歩き続けた足は痛み、振り回した手は僕自身と近くにいる誰かを傷付ける。例えそれで何か得る事ができたとしても、僕にはその何かに価値を感じる事ができない。人の地獄の上に天国を作るような神は嫌いだ。それならば僕は這い回る事さえできない怠惰な虫で構わない。そうやって全てを諦めた。季節外れの音色に新しい風景を探す事を、記憶に名前を付けて彩る事を、大切だった人へせめて祈りを捧げる事を、人らしく生きる事を、その全てを、僕は失くした。
風が吹いていつか好きだった花の香りを運んできた。静かに時間が流れてゆく。全ては一瞬の旋律でしかない。すぐに過去に変わって褪せてゆく。余りにも儚いそれを一つだけ伽藍堂の胸の片隅に仕舞い込み、暗がりの家へ戻った。
夏の水
──朝。
柄杓から飛び出した水が放物線を描いてアスファルトの上で跳ねた。否、僕の靴の上で跳ねてジーパンに染み込んだ。
「あははー、ごめんねー。」
長谷部葉子という名のそいつは茶色の髪を揺らせながら笑い、何事もなかったかのように水を撒き続けている。
「乾くまで店の中に居なよ、どうせ暇でしょ? 少しならオマケしてあげるからさー。」
僕はため息を吐きながら看板を眺める。高級甘味一葉と書いてあるが、高級だと思った事は一度も無い。餅や豆がメインだと思う。人に訊けば茶の種類が多いとか紅茶が美味いとか言われる。紅茶と餅は合わないだろうと思うが、店主の趣味で出しているらしい。ならば洋菓子でも出せと言いたくなるが、それは隣の店で買うようだ。ぼんやりとそんな事を考えながら準備中の札が下げられたままの扉を開け店の中に入った。店の主と違って落ち着いた雰囲気の内装だ。カウンターに椅子が五つ、小上がりには四人ぐらいで使うテーブルが三つある。隅には座椅子も置いてあった。時間帯によっては全ての席が埋まる。老夫婦が散歩のついでに立ち寄ったり、学校帰りの学生が喋っていたり、そういえば仕事に疲れた小説家が死にそうな顔で蜜豆を食べていた事もあった。洒落た花瓶や何故か盆栽やら洋画が飾ってあったりするが、一応は馴染んでいる。どれも客が置いて行ったものだ。頼まれるまま張り付けたらしい地域の行事のポスターなどもある。店主曰く、立ち寄れば町の行事が大体分かる、だそうだ。
とりあえずカウンターの端に座り、靴を脱いだ。靴下まで濡れていた。
「怜はいっつも端っこだねぇ。空いてるんだから座敷に上がれば良いのに。」
「畳と座布団が濡れて良いならそうする。」
「あはは、今日は仕方ないか。」
僕がこの女に水をかけられるのは初めてではない、というより暑くなると通る度にかけられる。それ以外の時期は大体竹箒で襲われてそのまま店内に連行される。
「こうでもしないと客が来ないのか?」
「ううん。お爺ちゃんの頃からのお客さんも未だ生きてるし、団塊の世代っていうの? そういう暇な人もばっちり抑えたぜ。」
葉子はけらけら笑いながら言葉を選ばずに吐き出す。客のウケは良いらしい。僕は勘弁して欲しいが。
「そりゃ良かった。じゃあ僕は帰る。」
「えー? 良いじゃん、蜜豆あげるからゆっくりしてきなよ。」
そう言いながらお茶を入れてくれた。多分この店で一番安い葉だろう。
「豆かんにしてくれ。」
余り間食をする性質ではなかったが、葉子に絡まれるようになってから頻度が増えた。幸いな事にまだ体重には響いていない。
「あいよー、すぐ出してあげるからねー。」
やがて出されたのは豆と寒天の他に果物が入った蜜豆だった。もはや何も言うまい。一番上にあったサクランボをつまみ上げ、口に放った。
「そういえばさー、もうすっかり夏だね?」
打ち水をする程だ、そりゃ夏だろう。
「涼しいトコ行きたくない?」
ある程度察する事ができた。葉子の狙いは僕が商店街でやっていたくじ引きで当てて妹に渡した水族館の無料券で、その情報は当然妹から漏洩したのだろう。そして妹は僕が券を返せと言ったら見返りを要求する。余り財布に余裕がある訳ではないからできれば勘弁して欲しいが、無視をするほど関係が薄い訳ではない。
「分かったよ、全く。妹は何欲しがってた?」
「あはは、小物が欲しいって言ってたよ。」
当たっていた。しかも恐らく昼飯も僕の奢りになる。果物を口に運び、しかしため息が零れた。
「そこまで分かるなら先に誘ってくれれば良かったのに。」
珍しく葉子は視線を逸らして言った。何も答えられない。これは僕の含羞だ。
「ま、良いけどさ、んじゃお店開けるねー。」
そう言われてジーパンの裾を気にした。まだ乾いていないが、それ程目立つ訳ではない。この店には僕をからかいに来ているのかと疑いたくなるような輩も居るが、まぁ大丈夫だろう。何気なく眺めた、葉子が開けた扉の向こうに先程水を撒いた地面が見えた。そんなに悪いもんじゃないだろう。誰にとなくそう呟いて一人で頷いた。
オレンジの陽光
──光のある方へ。
やや視線を落として歩く俺の頭から背中にかけて夏の陽射しが伸し掛かっている。さっきまでコンビニの冷房に当たっていたのにもう汗が噴き出している。後数分で目的地に着くが、二リットルのペットボトルの中身はぬるくなって、アイスに至っては溶けているんじゃないかと思う。しかも重い。数十秒と経たないうちに馬鹿馬鹿しくなってきた。いっそこの重い荷物を放り投げて家に帰ってしまおうか。普段は電気代を気にして使う時間を制限しているクーラーも外が涼しくなるまで点けてしまって、その中で昼寝でもしてやろうか。しかし現実は残酷だ。家に帰るまで十分ほどかかる。荷物を投げ捨てて帰るよりも後一分程度で着いてしまう目的地へ向かった方が良い。それに、一度引き受けたのだし、礼を言われない訳でもない。まるで伸し掛かる陽射しに押し出されたようなため息が出た。やけに重くなった足を引きずり、短い日影の坂を登ると目的地に着いた。どうせすぐは出ないだろうと思いながら呼び鈴を鳴らす。時間にすればたっぷり一分程度、俺が三度目の呼び鈴を鳴らした後で漸く扉が開いた。
「あ、いらっしゃい。ありがとねー。」
当人は涼しい顔をしている。部屋から漏れ出して来たのも過剰な程冷えた空気だった。俺は無言で荷物をそいつに渡し、部屋に上がり込むと冷房の設定温度を三度程上げた。
「あー、そんなに上げたら暑いよぉ。」
渡会瑞穂という名のそいつはそう言って俺が買って来たばかりのアイスを頬張った。気が付けばウーロン茶もグラスの中で氷を浮かべられていた。
「そんなだから冷房病だとか言って具合悪くなるんだろ。」
とりあえず座布団の上に座り俺の前にも並べられたアイスをスプーンで掬った。矢張り少し溶け始めていた。
「にーちゃんはいつも意地悪だね。」
瑞穂は俺をそう呼ぶ。血の繋がりはないのだが、困る事もないから直そうとした事もない。
「この炎天下の中買い物させて言う事がそれか?」
「じゃあ訂正、一部意地悪だね。」
根本的な解決になっていないが、もう面倒だから何も言わなかった。代わりに目の前でアイスを胃に流し込んでいく少女について考える。もう二十歳を過ぎているのだから少女と言うと語弊がありそうだが、瑞穂を見ているとどうしても女性とは呼べない。一応職を持っていて一人暮らしの部屋もあるが、仕事以外では外に出ない。部屋に篭って何をしているのかと思えばホラー映画鑑賞かゲームだ。見た目も下手をすれば小学生で、ろくに気にしない服は実益しか考えてられていない。一応髪は気にしているらしい。朝に少しでも長く寝ていられるようにセットしやすい長さを保っているそうだ。
「ん? どうしたの?」
「いや? なんでもねぇよ。」
適当に言葉を返しながらテーブルの上に持ってきたDVDを並べる。
「ねぇね、明日休みだよね?」
何が言いたいのかすぐに分る。その為に荷物が増えて、俺の苦労も増えた。
「酒に付き合ってくれるのか?」
「えー?」
声の調子が軽いのは言いたい事が伝わって、俺が言った言葉には何一つ強制力がないからだろう。俺と瑞穂はそんな関係だ。
「偶には酔わせて悪戯してやろうか。」
だからこんな言葉にも軽い言葉が帰って来るだろうと思っていた。
「ん、えっと。」
言葉に詰まるのは珍しい事だった。いつもだったら適当に言葉を吐き出すか、面倒な時は面倒くさそうに天井を見上げる。
「冗談だ。」
瑞穂は上目遣いで俺を見ながら、それでも俺の疑問は理解したようだった。
「職場の人に、ね、にーちゃんの事喋ったら、」
そこで言葉に詰まったようだったが、察する事はできたからあえて訊こうとは思わなかった。
「ところで晩飯の食材はあるんだろうな?」
「多分あると思うけど。」
嫌な予感がしたから一応確認してみた。肉も魚も少しずつしか無かった。豆腐と乾燥わかめはあったが味噌が無かった。パスタはあったがソースは無かった。ソバはあるがわさびは無い。組合せればなんとかなりそうだったが、結局その場凌ぎにしかならない。
「夕方になったら買い物行くぞ。」
「えー? 折角にーちゃんに買い物頼んだのにさー。」
話題を逸らす都合もあって逐一説明してやった。瑞穂は少し思案顔を作った後で淀みなく言葉を吐き出す。
「納豆パスタにしちゃおう。もしくはピザでも取ろう。」
「却下だ。どうせ明日の朝になんでパンが無いんだって言うだろ瑞穂。」
今日は未だ口にしていなかった名前が妙な響きを持っているような気がして、少し温度の上がった部屋の空気も妙な感じに変わった気がした。耐え切れなくなって煙草と携帯灰皿を手にして立ちあがった。瑞穂が口を開いた。
「あ、ここで吸って良いよ。」
壁紙がどうとか気にする奴ではないが、匂いは気になると言っていた筈だった。
「だって、もしにーちゃんが。」
何となくそれ以上言わせるのは酷な気がした。
「気が変わった。今から買出しに行くぞ。」
「え? まだ暑いよ?」
「良いから行くぞ。」
煙草を胸ポケットに、財布をポケットにねじ込んで玄関へ向かった。瑞穂は渋々といった感じで付いて来た。外はさっきと変わらず伸し掛かるような陽射しがあった。瑞穂は膝に手をついてそれでも何故か恨めしそうな顔はしていなかった。
「にーちゃんと一緒だと、いつも明るいトコに行っちゃうね。」
普通に生活していたらいつでも感じられる程度の明るさだろうと思う。ましてや今は夏で、今日は十分すぎる陽射しがある。
「あはは、にーちゃんでも分らない事ってあるんだ。」
なんだか馬鹿にされている気がしたが、悪い気はしなかった。
「あ、確かそこの公園に灰皿あったよね。」
「瑞穂が外の事知ってるなんて珍しいな。」
「むぅ、しょっちゅう散歩しに来るじゃん。」
「俺が引きずってな。」
そんな事を言いながら公園の隅にある自動販売機コーナーへ向かった。瑞穂は炭酸を所望し、俺は仕方なく買ってやった。それから少し離れて煙草に火を点けたが、瑞穂はわざわざ俺の隣に来てジュースを飲み始めた。
「匂い付くぞ。」
「別に気にしないってば。」
瑞穂が何を考えているのかは大体分かる。認めたくない訳ではないし、迷惑でもない。ただ。
「無理はしなくて良いからな。」
「にーちゃんだって。」
両手で缶を抱えるその姿は、愛らしいと思う。
「暑い中歩くのは面倒だが、それは夏の所為で瑞穂の所為じゃない。」
瑞穂は少し嫌そうな顔をした。選んだ言葉がお気に召さなかったらしい。仕方なく俺は違う言葉を吐き出す。
「お前の為なら何でもやってやるから、遠慮するな。」
今度はお気に召したらしい瑞穂は俺に寄りかかって来た。
「私ね、太陽とか外の空気とか嫌いだから、にーちゃんと一緒じゃないと外に出ないから。だから、ずっと一緒に居てね。」
頷く代わりに吐き出した真っ白な煙はオレンジ色の陽光の中へ溶けるように消えていった。何だか妙に眩しいなと、そんな風に思った。
初夏の日
──愚か者に祝福を。
朝からずっと晴れていて昼前には暑いくらいになっていた。偶の休日だがする事はない。窓を開けて風を浴び、だらけていると時計の針は一時を指していた。昼飯を食っていない。もしかしたら朝飯も食っていなかったかも知れない。空腹は余り感じなかったからどうでも良いのだろう。時計の針はゆっくりと回る。そろそろ何か食べようかと思ったところで来客があった。隣に住んでいる娘さんだった。やや幼い感じのする顔に赤い縁の眼鏡を掛けていて、綺麗な黒髪が背中まで伸びている。年は確か十九だったか。僕より二つ下で大学に通っている筈だ。親同士の仲が良かった所為か顔を合わせる事が多かったが、僕の父が死んでからは足繁く通うようになった。母を早くに亡くし、祖父母も亡くなって久しい。姉も家を出たから、今はこの広いだけの家を僕一人で使っている。昔の馴染みとして心配してくれているらしい。
「お昼は食べましたか?」
当然のように台所でお湯を沸かし始めた娘さんがそう言った。恐らく今日は未だ使われていない台所が不満なのだろう。未だだと答えると蕎麦を茹でてくれた。皿の上の刻み海苔が乗った蕎麦と、鶏肉と葱の入ったつけ汁と、何事も無いように麦茶を飲む少女を順番に眺め、僕はため息を吐いた。
「なぁ、桔梗。」
彼女の名前だ。成程と思う程良く似合う、美しい花の名だ。
「何ですか? 食べ終わったら掃除をしたいので、早く食べちゃって下さい。」
「掃除はもう良いよ。」
何かを言いかけた桔梗を遮って続ける。
「引っ越そうと思ってるんだ。」
「何故ですか?」
もう随分と古くなった家だし、何よりも一人で使うには広過ぎる。幸いな事に父は遺産を残してくれたから、解体する費用はある。土地は、買い手がつくなら売ってしまおうと思っている。
「何故ですか。」
桔梗は強い口調で繰り返した。ここを離れようとしている本当の理由はこれだ。桔梗は、こんなあばら家で、僕なんかに構っているような女性ではない。
「分かりました。一人では広過ぎると言うならば私に部屋を下さい。」
「桔梗。」
「二人でも足りませんか?」
桔梗を宥めるのに蕎麦が伸びる程の時間を要した。温くなったつけ汁と一緒に胃に押し込んで、煙草を銜えてすぐに箱に戻した。
「吸って良いですよ。貴方の家じゃないですか。」
苦笑しながら煙草に火を燈した。煙はすんなりと入るのに、桔梗が言った「貴方の家」という言葉はなかなか咀嚼できなかった。この家の思い出というものを、僕は言葉にする事ができない。写真は長い間飾られてすっかり色褪せた物が壁に掛けられているだけだ。愛着と呼べるものは、どうやら一つとして持っていないようだ。
「それは、きっと貴方のお母さんが亡くなった時に。」
桔梗は気まずそうに俯いた。僕の母は自らその命を絶った。それだけだ。その事に関して僕は何も思わない。幽かに己の無力と浅はかさを恨んでいるだけだ。
「嘘です。」
その言葉よりも、桔梗の眼差しの真剣さに困惑した。
「それぐらいは分かりますよ。昨日今日の付き合いではありませんから。」
何を分かっているのかは知らない。認める心算もない。桔梗は悲しげな表情をした後で、一つ大きなため息を吐いた。
「もしかして、この家が私や貴方を縛っていると思っているのですか?」
僕の事はどうでも良いし、やや違っているような気もするが、的外れでもないか。桔梗は、僕に縛られ、傷付けられている。ならば僕が離れれば良い。
「貴方は愚かです。」
それは良く知っている。
「いいえ、貴方は何も分かっていません。傷付けるのも苦しめるのも当然ではないですか。貴方は人間ですよ? どんなものも傷付けずに居るなんて不可能です。むしろ私で良かったと思います。」
桔梗が僕の肩を掴んだ。
「そもそも何故私がここへ通っていると思っているのですか。」
それは恐らく哀れに見えるらしい僕への、
「愚か者!」
高く澄んだ大きな声だった。
「好いてもいない相手にここまでしませんよ。」
僕は、負けた。その声に、言葉に、涙に敗北した。
数日後、業者が見積書を持って来た。誰かが僕は拗ねているだけだと言ったが、それだけではない。長年の風雨に耐え、家族を守って来たこの家はもう限界を迎えている。単純な修理や、補強が必要な個所が多くあった。何故か立ち会った桔梗の強い要望で水回りは大規模なリフォームが施された。
「この縁側はこのままなんですよね?」
胡坐をかいて座る僕に寄り添って座りながら桔梗が言った。僕はそうだと答えた。
「覚えていますか? いませんよね。ずっと昔もこうしていたんですよ?」
ため息で答える。桔梗は不満そうに僕の目を見上げ、何かを了解したようだった。
「貴方は本当に愚か者です。」
桔梗が呟いたそんな言葉は、優しい響きを残したまま、初夏の空気の中に、僕の胸の中に溶けていった。
一瞬の旋律
──さようなら。
少しずつ陽射しの色が変わっていく。僕は縁側の柱に背中を預けて座り、ぼんやりとそれを眺めている。僅かに次の季節を含んだ風が流れて来て、そっと風鈴を鳴らした。もう外してしまおうかと思った。もう直ぐ現れる青く澄みきった高い秋の空の下で風鈴の音が響いてしまったら寂し過ぎる。僕は立ち上がって風鈴に手を伸ばした。毎年同じ場所に吊るしているから、沢山の思い出がある。その全てが過ぎ去ってしまった。何もかも、終わってしまった過去の事だ。風鈴を外してテーブルに置くまでの間に、また少し記憶の色が褪せたような気がした。気が付けば蝉の声も消えている。今年の夏もまたその名残と記憶があるだけになってしまった。棚から小さな箱を取り出して風鈴を仕舞った。或はこれで見納めになるのかも知れない。そう思いながら箱を閉じて棚に戻した。ふと、棚の中で傾いている小さな箱を見付けた。手に取ってみても中身が思い出せなかったから、取り出して蓋を開いてみた。中には紐状の緩衝材が敷き詰められていて、その上に小さなオルゴールが乗せられていた。僕は苦笑してそれをテーブルに乗せ、箱は棚に戻した。小さなハンドルを回すとシリンダーが回転して取り付けられたピンが櫛歯を弾く。そうやって音を鳴らす簡単な仕掛けのものだ。時の流れが櫛歯を僅かに錆びつかせていたけれど、儚げな音色はあの頃と変わらずに響いた。褪せた記憶の色がほんの少し鮮明になったような気がする。これはあの人が僕にくれたものだ。あの人、野村咲子は二つ年上の女性で、切っ掛けはもう思い出せないがあれこれと僕の世話を焼いてくれていた。互いに兄弟がいなかったから、その真似事でもしていたのだろう。互いに寄せ合っていた感情の正体さえ知らないうちに咲子はこの町を出て行った。その時に貰ったオルゴールだ。いつだったか、二人で町を歩いている時に見つけて買ったものだったと思う。一緒に買って僕が机に置いていた犬の置物は咲子が持って行った。それから五年になる。もう自分にどんな煩悶があったのかさえ覚えていないが、半年程は飾っていて鳴らしたりもしていたけれど、その後箱に納めて棚に仕舞いこんでいた。どうせ叶わないなら蓋をしてしまった方が良いと、恐らくそんな事でも考えたのだろう。そんな記憶も色褪せて薄れていく。今小さく跳ねる名も知らない旋律は空気に溶けるように流れるばかりで、どんな感情も連れては来なかった。そういえば最後に撮った写真もどこかに仕舞ったままだったな。その程度の感情だから仕舞いこんだだけで褪せてしまったのだろう。まぁ、良いさ。気が向いたら探してみて、見付かったら眺めてみよう。見付からなければ、それで良い。今更何をどうできる訳でもない。仄かに色の宿った記憶など風の中にある次の季節と同じだ。そう思えるだけで触れる事などできない。オルゴールを自室へ持って行き机に飾って庭に出た。秋と言うには熱が残り過ぎているが、夏と言うには足りない。よく晴れた晩夏の日と言うには少し雲が多いようだし、陽射しを遮って秋の支度をしている風でもない。いかにも中途半端なこの風景はどうにもならない僕には合っているようだった。時はただ流れ移ろい、僕はただここに居る。生きていると確信する事はできないけれど、心臓は確かに脈を打っている。ただそれだけの事だ。
本当にそうか?
いつも背後から僕を見ている誰かがそう言った気がした。僕は苦笑して煙草を銜える。何も知らない訳ではない。分かってるさ。僕は諦めている。言葉を積み上げ、足を動かし、手を振り回せば変わるかも知れない何かを諦めている。何も知らない訳ではないのだ。積み上げた言葉はやがて崩れ、歩き続けた足は痛み、振り回した手は僕自身と近くにいる誰かを傷付ける。例えそれで何か得る事ができたとしても、僕にはその何かに価値を感じる事ができない。人の地獄の上に天国を作るような神は嫌いだ。それならば僕は這い回る事さえできない怠惰な虫で構わない。そうやって全てを諦めた。季節外れの音色に新しい風景を探す事を、記憶に名前を付けて彩る事を、大切だった人へせめて祈りを捧げる事を、人らしく生きる事を、その全てを、僕は失くした。
風が吹いていつか好きだった花の香りを運んできた。静かに時間が流れてゆく。全ては一瞬の旋律でしかない。すぐに過去に変わって褪せてゆく。余りにも儚いそれを一つだけ伽藍堂の胸の片隅に仕舞い込み、暗がりの家へ戻った。
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