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#11 深海魚
しおりを挟む──虚ろな思考。
大きなだるまストーブの上で大きなやかんが湯気を上げている。僕はそれを見ていた。徐々に暮れてゆく大きな部屋の中で、僕は確かにそれを見ていた。
目が覚めると見慣れた天井があった。また同じ夢を見ていたらしい。寝床から抜け出してすっかり冷たくなった朝の空気の中に向かって背を伸ばす。今日は休みだ。すべき事もやりたい事も無い。昨日、仕事の帰りに買い物も済ませてしまったから、冷蔵庫の中には酒もある。なんて幸せなんだろう。苦笑しながら適当に食べ物をテーブルに並べてウイスキーの水割りを作った。忘れてしまいたいのだ。失くしてしまいたいのだ。そう言えない代わりにアルコールを呷った。記憶とは一体何だろう。背後に張り付いたままの影がそう問いかけてきた。僕は答えない。レンジで温めただけの揚げ物を胃に放り込む。何故記憶は人を苦しめるのだろう。歩き回る影が問う。僕は答えない。アルコールを胃に流し込み、酔いが回るのを待っている。あの日、君を切り裂いた言葉と記憶は、いつになったら消えるのだろう。僕の真横に立つ影がそう言った。僕は苦々しく笑い、煙草を銜えた。言葉にする程気に病んでいる訳ではない。ただ忘れられないだけだ。否、それも違うか。普段はすっかり忘れている。けれど時折烏の羽を広げた何かが降り立って、僅かばかり苦々しい言葉を囁く。ただ、それだけだ。それは僕が持っている日常に傷をつける事はしないし、僕も一時間に満たない時間でそれを忘れる。今日だって、昼前に酔いが回りきって惰眠を貪る頃には忘れてしまっているだろう。それまで、ただ只管虚しいだけだ。
ふと、呼び鈴が鳴った。誰かと会う約束はしていない筈だし、集金の類も来る時期ではない。誰かと思って応じると、寝癖だらけの頭が立っていた。
「おはようさん。」
茅原陽菜は身なりを全く気にする様子も無くそう言った。学生時代からの友人で、隣の部屋に住んでいる。休日ならば平気で夕方まで眠っているような奴だ。
「なんだ、もう雪が降るのか?」
「ひどいなぁ、ボクだって偶には朝に起きるんだよ?
訊けば珍しく早く起きたものの部屋に食べ物がなかったらしい。ネットゲームの中では消費アイテムを切らす事等ないらしいが、現実では真逆だ。
「頼むよぅ、死因が餓死なんて笑えないよぅ。」
別段断る理由がなかったから部屋に上げて残り物を食わせる事にした。陽菜はよろよろといつもと同じ椅子に座った。朝に来るのは珍しいが、食べ物をあさりに来るのは珍しい事ではない。
「あらあら、朝から飲んでたのね。」
陽菜が何気ない様子でそう言った。僕は特に考える事もなく応える。
「食うのは無料だが酒は金払えよ。」
「相変わらず基準が分かんないなぁ、発泡酒ある?」
冷蔵庫から缶を取り出してやると、陽菜はそのまま飲み始めた。コップを寄越せとは言わない。
「それにしてもさぁ、相変わらず殺風景だねぇ?」
僕の部屋の事を言っているらしいが、心当たりはない。本棚には暇を潰せる程度の本があるし、隅には弦が錆びたギターもある。
「そういうんじゃないよ。なんかさぁ、こぉ、ねぇ?」
何を言いたいのか見当もつかなかった。
「まだ、引きずってんの?」
アルコールを呷る。言葉にする程でもない事だ。
「別に、機会と必要がないだけだ。」
「ふぅん?」
陽菜は不満げに惣菜のメンマを頬張った。
「なんだったらボクが代わりやってあげようか?」
何度も聞いた言葉だった。背後の影が何かを囁く。僕は煙草を銜える。茅原明菜。そんな名前を思い出した。陽菜の双子の姉で、あの記憶の中にいる人だ。
「代わりねぇ?」
明菜は、少なくとも寝癖も直さずに男に会うような事はしないだろう。
「あ、今絶対馬鹿にしたでしょ、心の中で。」
双子の姉妹だが、何もかもが違う。僕さえ騙せない陽菜と違って、明菜は恐らくこの世の男なら全て騙せるだろう。今も、きっとどこかで幸せを貪っているのだろう。
「ああ、明菜なら実家に居るよ。バチでも当たったのかね。会ったらびっくりするよぉ、げっそりしてるから。」
なら尚の事、代わりをして貰う必要はなさそうだ。陽菜の言葉に全く動かなかった心に驚きながらそう思った。
「あらら、もうホントに明菜はどうでも良いって感じなんだね。」
「何度も言っただろ、そんなに気にしてないっつの。」
「ふぅん?」
陽菜は矢張り不満げに発泡酒の缶を空にした。
「じゃあなんでこんなに殺風景なのサ?」
「お前は飯をたかりに来て半裸の女とでも鉢合わせになりたいのか?」
「そういうんじゃないけどさぁ。」
何となく分かる。それは僕の周りに張り付いた、どうにもやる気のない影と同じだ。ただ虚ろにまとわりつくだけで、苦しくも痛くもない。
「じゃあこうしよう、ボクを抱き給え。何か変わるかも知れない。」
「突飛過ぎてついていけないぞ」
「心配しなくても予想通りボクは初物だ、病気の心配はないよ。」
基準が分からないのは僕だけはないようだ。
「そんな心配してないし、経験がなくても病気にはなるぞ?」
「え? そうなの?」
「銭湯とかプールとかな。まぁ、お前は行かないだろうが。」
陽菜は何か不思議な笑い方をした。
「で? どう?」
「どうと言われてもなぁ。」
この部屋の景観の魅力がないならば、陽菜の女性としての魅力もない。
「それはほら、ボクだって気を使ってるんだよ。ちゃんとすると明菜に似ちゃうからね。ああ、でももうそれは良いんだっけ。」
今の明菜を聞かされて何とも思わなかった心だ。恐らく次に夢を見ても、明菜の顔は思い出せないだろう。ただ僕はあの場所に居ただけで、あの風景も懐かしい記憶でしかない。ただ一つだけ、虚ろな何かがあるだけだ。
「なら話は早いじゃないか。次は変身して来るから、君も部屋を飾り給えよ。」
何だかよく分からない。
「あれ? 知らなかったっけ? ボクが明菜に譲ったのは君だけで、それがあんな結果になって、だからボクはずっと出番を待っていたのだよ。」
矢張りよく分からなかった。
「もうそろそろ、もう一回だけなら女を信じられるでしょ?」
ため息を吐きながら額を突いてやった。
「いったいなぁ、もぉ。」
額を押さえる陽菜を尻目に棚から小さなアクアリウムの置物を出して、テーブルに置いた。
「捨てずにちゃんと持ってたんだ?」
あの頃、陽菜に貰った土産物だ。
「ほら、飾ってやったぞ。お前はいつ変身するんだ?」
「えー? これ一個でー?」
生憎他に手ごろな物はないし、そもそも知識がない。
「んじゃ次の休みにでも買い物行こう。その時ちゃんと変身するからサ。」
いつの間にかテーブルの上の食べ物はなくなっていた。空腹が満たされたらしい陽菜は勝手に出してきた発泡酒を飲みながら眠そうな目になっていた。
「起きれるのか?」
「失敬だなぁ、君がちゃんと構ってくれるならボクは頑張るよ。」
それではまるで今までが。まぁ、そうか。何もかも曖昧な箱の中に仕舞っていた。面倒になって、何も見えないフリをしていた。或はフリですらなかったのかも知れない。目を開く切掛けもどうやら曖昧なものになりそうだが、まぁ、良いか。
「でも嬉しいな、ちゃんと持ってたんだねぇ、コレ。」
白い指先が置物を撫でた。
「とりあえず慰めてはくれたからな。」
「ああ、そうだったっけ。覚えてないや。もう忘れちゃったよ。」
目を開いても、記憶は鮮明にはならない。それはもう過ぎ去って、触れる事さえできない。
「んね、明日の朝までここに居て良い?」
「好きにしろよ。どうせ隣だろ。」
目を開けば今は鮮明になるが、未だ良いだろう。もう少しだけ、曖昧な世界に触れている事にしよう。
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