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#12 巡り来る秋と過ぎ去る夏に
しおりを挟む──寄り道の途中。
影を見ている。嗚呼、そうだ。影を見ている。何時からだろう。母と二人、あの金色の山の駐車場に取り残された夕暮れから? 其れよりも前? 人の死の後? 思う程遠くないのかも知れない。はっきりと文字を書き始めた日、虚ろに生きて、確実と負けたと知った午後からか。
如何でも良いか。
私は影を見ている。
其れは異形であったり、有り触れた、見慣れた形であったりする。愛車のルームミラーの向こうに、仕事で使う資材の隙間に、自宅にぶら下げた暖簾の隙間、嗚呼、ほら、もう目の前に。
「ほら、もう骨になっちゃったのよ。」
あの時母が泣きながら教えて呉れた。人は死ねばその身を焼き尽くされて骨になる。誰だったか。誰だろう。記憶は酷く混濁していて、その像を結べない。祖母の骨は余り残っていなかったように記憶しているから、今、其処に見える其れとは違うのだろう。其れははっきりとした髑髏だった。一本だけ歯が欠けている。ずっと昔に喧嘩をして、その時に折ったのだったか。其れ以来乱暴な事を止めたらしい。忘れないように差し歯も入れ歯もしなかったらしい。そうだ、此れは伯父だ。其の人との記憶は幼少の頃のものしか無い。すらりとして、格好の良い大人、ぐらいにしか憶えていない。
「胸の傷は治ったのですね。」
揃った肋骨を見て、意味は無いと知りながら問い掛けた。伯父は困ったように笑って、少しだけ生前の姿を見せて呉れて、そのまま消えてしまった。
其れでも未だ影は付いて回る。
祖母だろう。良い人、だと人は言う。私は、如何思っているのだろう。良く分からない。珍しい、致命的な病を患って、其のまま死んだ。良く分からないから見舞いには一度も行けなかった。其の頃、私は岐路に立って居た。結局何一つ成せず仕舞いだ。怒られこそすれ感謝される事は無いだろう。今になって思えば好いては居なかった。よく母と何だか不思議なぶつかり方をしていた。人間が合わなかったのだろう。恨む程思っている訳でもない。世間はそんなくだらない事ばかりだ。
其れなら、ソファの端、猫を撫でているのは母だろう。全てを恨んで、全てを捨てた。己の命さえも。今更如何にもならない。好事家は私に「家族の中に自殺した者は?」と訊いた。素直に母だと答えた。今更。もう影になった其れに何を思えと言うのだろう。どうせ碌な思い出も無い。後悔と不安があるだけだ。
其れでも影は付いて回る。
私は其れを引き摺って歩く。
此処にはもう絶望も悲嘆も無い。寝苦しい悪夢に魘される夏はもう終わる。代わりに母が死んだ秋が来る。少しずつ冷えてゆく空気は嫌いじゃない。そっと彩る花達も手を伸ばす程度には好いている。
けれど、嫌いだ。秋の雨は悲惨な記憶ばかりを連れて来る。
だから彼は言った。否、私が言わせたのか。
「秋は好きですが、如何にも、嫌いなのですよ。悪い事ばかり起こるもので。」
其の言葉を受け取った名前の無い二人の少女はどんな顔をしたのだったか。憶えていないし、其れが映す影の表情は見て取れない。
息苦しくなってガラス戸を引いた。
外は雨だった。其れ程強い雨ではない。辺り一面をゆっくりと濡らす雨は擦れる様な音を立てながら降って居た。
私は何を思ったのだろう。
私は何を思って居るのだろう。
「まーた沈んでるんですか? 全く、先生も暇ですねぇ?」
不意に聞こえた声に意識が引き戻される。此処は郊外にある小さなアパートの一室で、私はパソコンに向かって原稿を書いていた。其れさえ苦しくなってガラス戸を開けたのだったか。振り返ると艶のある黒髪を頭の上で纏め、赤い縁の眼鏡を掛けた少女が居る。童顔だろうと思う。顔の通りの体格だ。か細く、小さい。それでも目だけはしっかりと力を持っていて、時折私の目の底を睨む。
「ああ。ああ、希か。気にすんな。何時ものこった。」
「はいはい。今日は? ……お母さんの事ですか?」
其の少女、鏑木希は私の大体を知っている。
「其れも、否、今日は然程。思ったより私は人と会って居たのだね。」
「当たり前です。ご飯は? その調子じゃ、食べないみたいですね。作りましょう。ちゃんとお腹に収めて下さいね。」
苦笑しながら狭い台所を駆け回る。少女との思い出は殆ど其れかも知れない。私は記憶に物語を探す。少女は此の部屋に物語を探しながら料理を振舞い、笑う。
「未来の作家様が餓死じゃ立つ瀬ないありませんから。ほら、食べた食べた。」
「ふむ、過去にも未来でも作家ではないけどね。頂くよ。」
味は殆ど感じない。呑気に食事をしている場合ではないのだ。其れでも、旨いと思えた。気遣いが嬉しいと思えたのだろう。
「ねぇ、先生? どうしてそんななんですか? 立派に仕事して、立派に人間してるじゃないですか。」
「私は。」
仕事は執筆ではない。趣味の範疇を抜けられない其れを支える為に仕事場の一角に陣取っている。安く使われているとも、過剰な金を貰っているとも思っていない。適正だ。
其れでも。
立派とは思えない。人間とも思っていない。私は其の思い出の全てを殺した。今更人間らしい顔をして人間らしく笑う事などできない。
「こりゃ、益々私が頑張らないといけないですねぇ。お姉ちゃん達もそう言ってましたし。」
希には二人の姉が居る。雫と雅だったか。二人とも美人で、想う人が居る。なら、希もそうすべきだろう。
「はいはい。もぉ、分かってますよ。先生? 貴方次第、なんですからね?」
「私は。」
唇に人差し指を当てられた。
「言い訳は要りませんよ。何だってそう面倒なんですか? 貴方がボクをどうしたいのかじゃなくて、貴方がボクにどうして欲しいのかだけ、教えて下さい。」
瑞々しい指を離して、ため息を吐いた。もしも、ならば思う事は在る。
「ずっと其処に居て呉れ。」
「はいはい。進展するのは難しいですねぇ? 洗い物も終わりです。お望み通り、ですね。」
いつの間にか小さなテーブルの前に並んで座っていた。手元には紅茶と珈琲がある。砂糖とミルクたっぷりの紅茶は希が飲む。濃さだけで味を作った珈琲は私が飲む。
「巧くはいきませんねぇ?」
「此の珈琲は旨いがね。其の紅茶もそうだろう?」
「ふふっ、そういう冗談は好きですよ、先生。」
だから、私は言わなければならない。人間を分類する方法は幾らでも在るが、私は只其の人間が死ぬべきか生きるべきかしか考えない。彼女は生きるべきで、私は死ぬべきだ。ならば、
「先生。本当に怒りますからね。というか姉が殴りに来ますよ。」
「未だ言ってないだろう。」
「未だ、と言う事は矢張りそうですか。マジでぶん殴りますよ。ボクが。」
少女は何も無い風で紅茶を嚥下した。
「そう云えばボク、は止めたんじゃなかったのか?」
珈琲を呷る。好みの濃さだった。
「貴方の所為です。ぜーんぶ。ふん、先生なんて姉に蹴られてドブにでも捨てられて下さい。」
一瞬、妙な間があった。
「まぁ、その時はボクも一緒ですけどね。ちゃーんと、考えて下さい。お願いはしません。そうしてくれたら、ボクにもできる事はありますから。」
殆ど反射的に頭に触れていた。撫でようと思う前に希が頭を動かした。
「んふふ。先生ですもんねー。そうするでしょう。でも、ボクもそうされたいんです。いい加減に諦めて下さいよ。先生が先生である限り、ボクは諦めませんから。」
此処に居る希は影ではない。けれど、思い出になった、あの日初めて私に遭った時の希は影となって私の背後に居る。私は其れを引き摺り続けている。その正体さえ私は知っている。
其れは私の後悔だ。
何もなければ、希は彼女らしい幸せを手にして居ただろう。何もなければ、私は今頃冷たい石の下だ。其れで良かった。其れで良かったのに、希は私と出遭い、幸せになる機会を棒に振っている。
「先生?」
「私の人生は後悔ばかりだよ。」
「知ってますよ。人の不幸まで一緒にしょいこんで後悔してくれる、好い人。今更なんです?」
そっと私の肩に手を置いたのは、母だろうか。名前の無い少女の姉の方か? 黒い毛の猫は窓辺へ向かった。其の猫を抱き上げる少女は、嗚呼、睨んで居る。其れどころではないだろう。
「嗚呼、そうだね、有難う。」
「どう致しまして。もう夜ですね。雨も止んだみたいです。」
姉妹揃って後ろ髪は短い。長姉は額を出していて、次姉は前髪が両目に掛かっていて、可愛らしいと思えた。
「先生? 姉達はボクと違って恋人さん居ますからね?」
希は鋭い。
「どんな髪型だったか思い出していただけだよ。」
「なら、思い出す必要のないボクを見れば良いじゃないですか。」
口をへの字に曲げた。希は右目の上で髪を分けている。また頭を撫でる。
「先生?」
「ん? いや、金木犀が咲いたようだね。」
「季節ですけど。また夢じゃないですか? 少し早いような?」
名前の無い少女の妹に話した事があった。春先の陽射しに触れる金木犀が花を湛えたように見えたのだったか。希が窓を開けると十分な香りが流れ込んで来た。
「わお、本当でしたね。」
私は見比べる。かつての記憶と、目の前の少女。どれがどれだけ優れて居ても関係はないようだった。
「希。」
「はい?」
手を伸ばした。希は少しだけ困ったように笑った後で私の胸に収まった。其れで良いのだろう。夏は終わり、影は夜に帰る。私は暖かな少女を抱き締めたまま天井を見上げた。
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