アイロニー・シンフォニー

笹森賢二

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#14 ある部屋の風景

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    ──徒然と。


 南向きの筈なのに日当たりが悪く、その分涼しい。二十四時間換気のせいかも知れないが、最早初夏と言える頃にしては涼し過ぎる。少し寒いと思う事もある位だ。家具らしい家具は無い。布団と、ケトルが一つあるだけだ。コンロもレンジもないからまともな調理はできない。そんな部屋で暮らしている。


 酷い幻視だ。壁一面を小さなクモがはい回っている。確かめようと伸ばした腕にも。どうせ幻視だ。すぐに消える。けれど、いつまでも消えない、足を浮かせたまま部屋をうろついている白い服の女は何だろう。


 眠れない。酒が回ったせいか手の震えは止っていた。代わりに聞こえる妙に高い血流の音にも慣れた。けれど、眠れない。目を閉じると聞こえてくる。普段は聞こえない換気扇の回る小さな音。それに混じり込む誰かの声。何かを言っている。知った事か、早く眠って、朝になれば全て消える。けれど、時間が過ぎるほど聴覚は異常な程鋭くなっていく。声が少しずつ鮮明になっていく。耳を塞いでも消えない声が問い掛ける。
「ねぇ、一緒に死にましょう?」


 そんな暮らしでも悪い事ばかりではない。酷い寝汗をシャワーで流して扇風機で熱を飛ばす。そんな事をしなくても直ぐに涼しくなるのだが、少しぐらいは髪を乾かしたかった。それも程々にして外に出る。普段は駐車場の隅で煙草を吸うのだが、昨日からあいにくの雨だった。仕方なく少し歩いて階段の下に入る。ここは良い風が抜けて行く。心地良く思うべきなんだろうが、考えるのは死ぬ事ばかりだ。雨のせいだろうか。ため息を吐くと小さな声が聞こえた。
「おはようございます。」
 中学生くらいだろうか、少女が会釈をしながらそう言ってくれた。小さな声で返す。最近ろくに喋っていないせいかそんな声しか出なかった。それでも少女は微笑んでくれた。せめて今日ぐらいは生きていようと思った。


 ホウキを当てたばかりのフローリングの床に仰向けに寝転がった。弛緩した体はもう動かない。指先に力を入れようとしても、うまくいかない。腕や足など尚更だ。頭の中に霧がかかっているような気もするが、意識は鮮明に、体を動かそうとする。喉が渇いた。それでも体は動かない。空気もフローリングも冷たく、呼吸は深く回数は少ない。
 これが望んだ生活か。そうだろう。何もできず、呼吸と心臓の音だけを聞く。希望も絶望も消えうせた。眠れもせず、起き上れもせず、ただそこに在る。


 酒。昔は酔う事が楽しかった。いつからか精神的苦痛を忘れる為になった。苦しい日常の苦しい夜の必需品になっていった。当然体は壊れ始める。酒のせいだけではないだろうが、何れその苦痛を和らげる為だけに飲むようになった。最早酔うという感覚すら薄い。手の震えを止める為、喉の回りの苦痛を止める為、倦怠感とあらゆるものへの漠然とした不安を除く為に酒を飲むようになった。それが緩やかな自殺と知って尚、今日も酒を飲む。


 今日も来客はない。連絡は更生の為に必要な事務的な物が一件。打ち捨てられるようにこの部屋に辿り着いた俺に用がある人間など居ない。天井を見上げる。少し外へ、と思って止めた。俺が用のある人間もまた居ない。


 夢見が悪い。それはごちゃごちゃに混ぜられた過去だったり、いつか見聞きした怪談話や、どこかで見た写真の風景だったが、どれも気味の悪い感じしかしなかった。何よりあの足を浮かせる白い服の女が夢の中にまで入り込んでいるのが厭だった。


 夕暮れも夜明けにも似たようなものだ。闇に蠢く幻視と幻聴の訪れか、耳を塞ぎたくなる人々の喧騒の訪れか、どちらも同じだ。


 煙が駐車場の方へ流れて行く。苦笑した。実家に居た頃は灰が散っても気にしなかったというのに、今でも灰一つ落さないように気を使わなくてはいけない。それだけだ。


 タオルを三枚ほど割いて輪とそれを手すりに繋ぐように結ぶ。やり方は知っていた。高さはいらない。上半身の重さがあれば足りる。鍵は開けておこう。ゴミも片付けた。さぁ、これでも良いだろう。


 原稿用紙の残りも少ない。話はこれくらいにしよう。もう二度と会う事もないだろう。最後に何かを残すなら。そうだな。「さようなら。」か。
(了・初夏の頃)



「だから、生きるのも止めようと?」
 君は俺がタオルを裂いて作った輪を切り刻みながら言った。呆れた様子は無く、無表情だが怒って居る様だった。最早用を成さなくなった布切れをゴミ袋に放る。ビニールがガザガザと云う音を吹き荒れる北風が掻き消した。
「そろそろ雪でも降るかねぇ?」
 始末を終えたらしい君はウイスキーの瓶と水差しをテーブルに並べた。初冬の早い夕暮れが部屋に入り込み始める。雲が多いらしく既に薄暗くなって居た。電気を点けてカーテンを閉める。君はグラスを二つ並べて、台所へ向かい今度は呆れたような溜め息を吐いた。
「この前私と買い出しに行ってからコンビニしか行っていないね? まともな食材がありゃしない。」
 コンロが火を吹き出す音、レンジが動く音が聞こえる。程無くして雪菜のお浸しの小鉢と皿に移した冷凍食品が並べられた。俺はと言えばグラスにウイスキーと水を放って既に半分以上空にしていた。
「君、せめて作り終えるまで待つとかは無いのかね?」
 頼んでやって貰って居る訳ではない。君が勝手にやって居るだけだ。其れでも仕方なくもう一つ水割りを作った。
「君、私がどんな気持ちでこの部屋の扉を開けて居るか解るかい?」
 グラスの縁に口を付けながら君がぽつりと言った。
「箱の中の猫、だろう?」
「なんだ、解って居たのか。」
 遠い昔の思考実験だ。箱の中の猫は生死の確率が半々。箱を開けるまでどちらの状態でも存在するが、箱を開ければどちらかに決定する。
「せめてもう少し、ねぇ?」
 君は解凍したから揚げに箸を突き刺した。俺の生死の確率はどうだろうな。どちらかに傾いて居る様には思える。誰かさんの所為で傾いて居る様な気もするが。
「じゃあ、次のモデルは君にしようか。」
 趣味だけで文字を書き綴って居る。一銭の価値も無い。最近は其れさえ滞って居る。
「ホラーじゃ無いだろうね。祟り殺されるのは御免だよ。」
 肴に箸を付ける。返事はしなかったが、視線で気付かれたようだった。
「まぁ、好きにすれば良いさ。少なくとも書き上げるまで死ぬなよ。」
 曖昧に返事をしてグラスの中身を呷る。君も同じ様にアルコールを呷って、今度は丁寧に肴に箸を付けた。
(了・死を待つ午後)
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