架空の夢

笹森賢二

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#11 風の行方

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   ──或る渇望。


「君よ、君ねぇ? こう言うのを矢鱈手の込んだ自殺と言うのだよ?」
 灰皿には吸い殻の山が、足元には酒の空き缶や空き瓶が転がって居る。肴になるような物の残骸も少しは在ったが、酒の残骸と比べれば極端に少ない。
「そうだろうな。」
 全て初夏の連休の前日に買い込んだ物の残骸だ。
「はぁ、此れでは何を言っても無駄の様だね。」
 北川女史は諦めた顔で背中まである長い黒髪を縛った。空調を止め、窓と言う窓を全て開け放った。空調で快適に保たれて居た部屋に湿気と熱が滑り込んで来る。
「おい、」
「昔はこうして暮らして居たのだよ。其れに、換気扇で間に合うような汚れっぷりじゃないだろう。」
 今や技術は進歩し、昔は昔になったのだ。動けば埃は舞うが、大人しくして居れば其れ程でも無い。
「そうかねぇ? 此れから掃除を始めるのだが。」
 女史は先ず俺の周りに散らばった塵を丁寧に分別しながら袋に詰めて行った。洗う必要のある物は一度狭い台所へ誘拐された。俺は、原稿用紙の上にボールペンを放った。
「台所は矢鱈綺麗だね、碌に食べて居ないのだろう? 掃除が終わったら何か作ろう。」
 缶や瓶を洗う音、掃除機の音、纏わりついて離れない初夏の熱。もう続きを書く気には成れなかった。
「趣味で書いて居るだけなのだろう? そんなに成ってまでする事かね?」
 女史の切れ長の目と片眉が釣り上がって居た。相当に機嫌が悪いらしい。口元は、きつく結ばれている。歯に悪いだろうな。けれど、仕方が無い。俺は酒と煙草が無いと物が書けないし、他に趣味も無い。
「何時からだろうねぇ?」
 切欠は幾つも在ったのだろう。其れは切欠とは言えない、と言うならばそうだろう。日々は淡々と流れ、人は徐々に俺から離れて行った。女史とだって先週偶然同じアパートに越して来るまでは碌に連絡すら取って居なかった。何年だろう。俺はその間中文字が作る物語と酒とタバコの煙の中に沈んで暮らして居た。女史の言う通り、酷く手の込んだ自殺の様な毎日を続けていた。希望も不安も不満も無い。死へと至る苦痛への恐怖が在るだけだった。だから、千切れはぐれた雲が空に消えて行くように。
「止し給えよ。」
 用事を済ませたらしい、白く長い指が伸びて来た。俺の頬に触れた。少し冷たい。
「君はもう忘れて仕舞っただろうがね、私を生かしたのは君だよ。」
 高校の頃だったか、女史の話し相手は俺だけだったそうだ。
「此の顔で趣味が妖怪の研究だからね、私自体が妖怪だと言われた事さえ在った。」
 俺は女史も其の研究も面白かった。
「ああ、そうそう。」
 女史は掃除したばかりのテーブルに鞄を乗せ、青い色のファイルを取り出した。
「怪奇物を書くならば面白い資料が沢山あるのだがね。」
 未だ開け放たれたままの窓。その向こうに青い空が在る。其処に小さな雲が二つ並んで浮かんで居た。上空は殆ど風が無いのだろう。殆ど止まって居るように見える。その行方は。
「君?」
 未だ知る必要は無いだろう。
(了・“雲”)


 九月十七日。午前五時八分四十秒。ベランダから眺める町は青く染まって居るように見えた。煙草を咥えて、思う。風は流れて居ない。
「換気扇回してキッチンで吸ったら?」
 振り返ると同居人が居た。同棲して居るだけで特別な関係では無い。古くからの知り合いで、彼女の案で部屋を借りる事になった。家賃、食費、水道光熱費は折半。部屋は二つ、広いダイニングスペースと別に台所がある。彼女が言うには綿密な計算の結果部屋を一つ減らして一人で住むより、全てにおいて安く済ませられるらしい。彼女の両親は反対するだろうと思ったが、何故か快諾された。私の両親は既に亡く、姉は遠くの街へ嫁いで行った。
「起きて居たのですか。」
「うん。それに、換気扇の音ぐらい気にしないで良いよ。ベランダで吸われる方が周りの迷惑じゃない?」
 煙の行方には気を使って居る。二階の角部屋、風向きを見れば問題は無い。
「別に部屋で吸っても良いし。」
 もし出る時のクリーニング代も折半する事になって居る。出来る限り避けられる傷は避けたい。
「其れに、煙草を吸うのが目的では無いよ。」
「知ってるけどさ。」
 彼女の小さな、其れでも温かな身体が隣に来た。其れを待って居たかのように風が流れ始めた。其れでも、煙草は箱に戻した。
「それは、ボクへの配慮?」
 何も応えなかった。少しずつ薄れて行く町の青を眺めて居た。
「だとしたら嬉しいな。」
 美しい町並みと色彩だ。
「見逃しちゃいそうだよ。こんな綺麗な景色も。」
 溜め息を一つだけ落した。
「さて、賭けでもしましょうか。」
「うん? ああ、今日の天気だね。良いよ、でも、」
 途切れた言葉、彼女の眼は私の顔を真っ直ぐに見て居た。
「何を、賭けるの?」
 もう朝の喧騒が近い。
「勝った方が決めれば良いでしょう。」
「そう、なら、良いよ。ボクは雨に賭ける。」
「では、私は晴れに。」
 天気予報は、余り当てにして居ない。どう成るのだろうな。青の消えた町に背を向けながら私は、然程何も考えて居なかったのかも知れない。
(了・“煙“)
 
 


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