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#16 降る雨
しおりを挟む──紫陽花見上げる空の下。
細かい雨が幾つも幾つも風に乗って流れて来る。私はギアの下で其れを見ている。傘を差しても濡れるだろうな。そう言えばもう五月雨の頃か。一月か、其れ以上か。去年は夏らしい夏の日は数える位しかなかった。いつの間にか秋の風が吹いて、知らぬ間に冬になっていた。
今年は如何だろう。
どんな日に、どんな雨が降るだろう。
ぼんやりと立ち尽くしたまま、想う。
遠い記憶の風景だろう。すっかり古ぼけて、相手の像さえ結べない。強い雨の音だけは覚えている。雷の音はなかったと思う。初夏の夕暮れに降った、驟雨の音。どんな言葉を交わしただろうか。どんな仕草をしただろうか。もう、何も思い出せない。
傘の角度が妙に気になった。漸く花を開いた紫陽花の葉の上に蝸牛が居る。少女がしゃがみ込んでそれを見ている。邪魔をする気は無いけれど、雨に濡れてしまうのは良くないだろう。だから俺は差し出した傘を動かしている。少女が顔を上げた。
「あ、俊ちゃん。でんでん虫。カワイイね?」
「ああ。カタツムリだから濡れた方が良いか?」
「そうだねぇ、もうちょっと傘後ろかなー?」
言われた通りにする。蝸牛は雨を浴びて、少し首を空へ伸ばした。
「ふふっ、雨、良いよね?」
「そうだね。あっ、ツノに雨粒当たって驚いたな。」
丁度ツノに雨粒が当たった蝸牛が驚いたように動いた。
「にひひ、愛い奴だのー。」
「ちょっと意味が違うぞ。」
「うん。知ってるー、この前教えて貰ったもんね?」
それでも少女はそれで良いのだろう。俺は少し笑って、立ち上がった。促す。時間は有限で、今日もやる事がある。
「勿体ないけど、そろそろ行こうか。」
俺の言葉に花のような笑顔を咲かせた少女が立ち上がる。雨は暫く止みそうにない。傾けていた傘の角度を元に戻して、歩き出した。
引き裂くような雨が降って居る。未だ少し幼い双眸が私を見上げている。時計の針は午後六時を回って居た。何時もより早く暗くなっていくのが不安なのだろう。蛍光灯を点して外をカーテンで遮る。テレビが賑やかな声を上げた。漸く笑顔が咲いた。気が付けばテーブルの上に瓶挿しの紫陽花があった。陽の光の中とは少し違う。霧吹きで水でもかけてみようと思ったが、止めた。早い宵闇への恐怖にもテレビの音にも興味を失ってしまったらしい少女が紫陽花を見ている。その瞳の煌めきを見れば、もう後は何かをする必要は無いだろうと思えた。そのまま夕餉の支度を始める。簡単な食事を作る短い時間なら、紫陽花に任せてしまって大丈夫だろう。
タバコの煙が流れる先に紫陽花があった。雨は少しだけ勢いを弱めたようだ。それでも未だ大きな雫は紫陽花の葉の上で跳ねている。腕にしがみ付く少女が居る。何度諭しても離れてくれない。ならせめて紫陽花に煙が当たらないようにと煙草を消そうとすると、それも嫌なのだそうだ。ならば初めから、そう言うと頬を膨らませた。仕方なく二本目のタバコに火を付ける。雨がまた少し勢いを強めた。どうか、紫陽花に当たる前に煙を全て掻き消してくれ、とだけ願った。
走る。地を這うように、飛び跳ねたりもしながら、走る。もう誰が何を言っても止まってやらない。バカめ。降る雨が顔に、服に当たる。スカートが重くなる。でも止まらない。会いに行く。誰が止めても、例えばあの人が止まれって言っても。走る。青い紫陽花が咲いていた。あの人が好きな色だ。もう止まらない。待ってろ畜生め、どんな顔をするだろう。多分また困ったみたいに笑うんだろう。良いよ。もう、考えるのは止めだ。
煙のような霧が後ろへ抜けて行く。どんな道を辿ったのか、どこまで行くのかは知らない。助手席では漸く像を結んだ女性が居眠りをしている。当然か。時計の針は午前零時に近付いている。雨はもう直ぐ降り出すらしい。何も変わらないか。丁度良さそうな休憩スペースがあったからそこへ車を止めた。赤い紫陽花が咲いていた。似合うのかも知れない。行き先の無い僕らと、当ても無く降り始めた雨と。巡り着く場所は同じだろう。赤い赤い花の下だ。
ため息ばかりが多くなる。纏わりつくような弱い雨は未だ止まない。面倒は無限と思える位に増え続ける。止めてしまっても良いだろう。誰にも聞こえない声で雨に問い掛けても当然ながら返事は無い。また、ため息を吐いた。それでも、未だマシかも知れない。真冬の冷たい風に浮かべた真っ白なため息は何にも成れなかった。違うか。俺はそれを形にできなかった。
「またため息ですか。福が逃げますよ?」
隣では相変わらず強い目が俺を見上げている。
「もうお前が逃げなきゃどうでも良いよ。」
「そうですか。なら、良いです。ボクは逃げませんから。」
またため息を吐く。色が少し違うようだった。目の前の二色の紫陽花。どっちの色が似合うだろう。赤で良いか。
「兄さん?」
「いや? それより、どうする? 雨だぞ? それ、安くないだろ。」
一瞬だけ何かを考えた少女は何も考えていない様にくるりと回って見せた。
「問題ありませんよ。手入れの方法はばっちり覚えましたから。」
「そうか。」
それだけ応えて軽く頭を叩いてやった。少女が何かを喚く。気にしない。雨も遠慮したようで漸く上がった。遠くでは雲を割いた光が落ちていた。
いつの間にか雨粒が消えていた。庭に咲いた紫陽花の葉の上にだけ痕跡が残った。それでも雲は変わらずに流れているようだった。次に降るのは陽光か雨か。どちらでも良いか。風に揺れる葉も雫も、どうやら美しいもののようだった。
(了)
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