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#09 見下ろす景色
しおりを挟む──其れは色褪せた。
橋の欄干に肘を着けて大きな河の流れを見て居た。夕暮れの風と太陽は背後から水の流れをなぞる様に、過ぎて行く。僅か、視線を上げれば紫から黒へ変わって行く空。僕は煙草を銜えたまま呆けた顔をして居るだろう。其れでも、脳は身体を巡る血を吸い上げ、意識を消させては呉れない。記憶は、空想は、願望は、妄想は、苦悩は、懶惰さえ河を流れる一枚の葉の様に意識に染み込んだままだ。
朝は苦手だった。時間より早く眼が醒めても何時も浅い眠りに戻り、結局遅刻寸前、否、遅刻する様な時間に家を出た。家族や教員達も諦めて居るらしく、二年の半ば辺りから一時限目に間に合えば文句を言わなくなった。
夏の暑い日だったと思う。その日も僕が跨線橋から定刻に間に合う電車を見送った。慌てて乗り込んだ人が居た様に見えたが、今頃息を切らせ乍ら髪でも直しているのだろう。其れとも時計を睨んで居るか。足を止める。次の電車に乗れば一時限目には間に合うし、其れは十分後に来る。慌てる必要等無い。もし、僕を知る誰かが此の場に居たのならば窘める事も在るのだろうが、そんな奴らは今頃真面目な顔で安っぽい椅子に座って机にノートでも広げて居るだろう。
「ご苦労なこって。」
誰にと無く呟いた。何時からだろう。僕には人間と言う生き物が良く分からなく成っていた。産まれて、生きて、死ぬ。どんな偉業を残しても、どんな快楽に溺れても、どんなに立派な墓に詰め込まれても、結局は骨と灰に成るだけだ。せめて苦痛無く死ぬ事ができれば、其れで良いだろう。如何でも良いか。階段に足を掛けると下から高い声が飛んで来た。
「この時間じゃまた遅刻だよ?」
階段の中程、古びた木製の壁に軽く背を当てて、そいつは僕を見上げて居た。名前は、知って居る、気がする。
「お前もな。」
「はぁー、やっぱ君を待つのは大変だねぇ?」
盛大な溜め息を吐かれた。理由は知らない。僕は何も頼んで居ないし、そいつにも僕を待つ意味は無い。
「皆勤賞取れ無くて残念だったな。」
年の割に幼く見える眼が僕を睨んだ。その理由さえ、些末な物だと思えて仕舞った。
波風さえ立たなければ良い。渡り廊下から地上を見下ろし乍ら思う。其れなりに勉強して、其れなりの大学に入って、其れなりの知識を身に付ける。結果は勝手に付いて来た。必要な単位は揃い、卒業論文も殆ど出来上がって居る。就職先は、伯父が勝手に決めて呉れた。友人と呼べる物は無いが、有っても面倒が増えるだけだろう。二十歳の秋にあいつから結婚式の招待状が届いた。服を揃えるのも、喧騒に身を投じるのも面倒だから不参加の手紙を返信した。其れで良い。どんな感情も享楽も其の瞬間を満足させるだけで、残るのは面倒事だけ。深く踏み入れば大概其れは僕に降り掛かる。だから、此れで良い。
伯父に紹介された仕事は退屈でも忙しくも無かったが、相変わらず面倒事は僕に押し付けられた。其れを捌いて居る内に其れなりの地位と権限を与えられた。
「面倒だな。」
屋上からフェンス越しに街を見下ろして呟いた。煙草に火を灯す。煙が春風に乗って流れて行く。白く伸びる其れの中に終業迄の予定が書かれて居る。其の通りには成らないだろうが、幾らでも修正できる。波風さえ立たなければ良い。
「またここに居たんですか。」
振り返ると赤い縁の眼鏡、長い黒髪。大人びた顔をして居るが、装飾が質素な所為で地味だ。
「ここでしか煙草吸えないからな。」
「それ、そんなに美味しいんですか?」
確か去年事務で採用された奴だったと記憶して居る。其れしか知らないし、知る気も、必要も無い。
「別に? 只の惰性だよ。」
「そういうの、中毒って言うんですよ。」
だったら何だと云うのだろう。僕が煙に巻かれようが、芥子や大麻草に溺れようが波風さえ立てなければ問題無い。僕の代わりなど幾らでも居るし、死体の処理は誰もが最期に人に押し付ける面倒事だ。
「で?」
「で? とは?」
其れは顎に左の人差し指を当てた。
「また面倒事だろ? 今度は何だよ。」
「それがなきゃ話しかけちゃいけないんですか?」
嗚呼、其の言葉自体が面倒事だ。煙草を吸わない奴が此処へ来る理由が無い。溜め息を吐き乍ら視線をフェンスの向こうへ戻した。
「迷惑でしたか?」
「迷惑と思われる事が迷惑だ。」
つくづく人間が向いて居ないな。忙しく動き回る街を見下ろし乍らそう思った。
煙草を一本吸って、抜け殻を河の流れの中へ放った。空はもう殆ど黒く覆われて居る。
もし、振り返って僅かに残った蒼を見る事ができるなら。
少し笑った。最初から全て諦めて居た。怨嗟も後悔も無い。全ては成るべくして成り、終わるべくして終わる。ならばせめて、少しだけ其れに逆らってやろう、程度にしか思って居なかった。非業の死も、平凡な死も、穏やかな死も、人騒がせな死も、どれも結局最期に立てる波風だ。其れが出来るだけ小さく成る様に支度は済ませた。
そして僕は欄干に足を掛け、漆黒の水面へ向かって身を躍らせた。
(了)
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