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〇2章【波乱と温泉】
1節~淡い想い~ 1
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朝のオフィス。
窓の向こうに夏の光が滲み始めた頃、ヒロトはいつも通りの時間にデスクへと腰を下ろした。
もう半月ほどが経つ。あの夜、キリカと二人で徹夜した騒動も、社内ではすっかり過去の話題となり、空気は落ち着いた日常に戻っていた。
背もたれに身体を預けると、ディスプレイの右上でひとつ、未読の通知が点滅している。
カーソルを動かし、クリック。現れたメールのタイトルに、思わず眉が寄った。
『決起集会、および親睦会についてのお知らせ』
「……なんだ、これ」
小さく唸るように呟きながら、ヒロトはスクロールバーを下へ滑らせた。
どうやら社内の数名はすでに確認しているようで、斜め向かいの席の女子が笑いながら誰かと話している声が聞こえる。
送信元は総務部。
文面はやけにかしこまった調子で始まっていたが、読み進めるうちに、肩の力が抜けた。
「次のプロジェクトの顔合わせと親睦会を兼ねた、宿泊イベント……?」
『複数チームによる横断型プロジェクトの連携と理解を深めるため』
『業務負担を軽減するリフレッシュの場として』
『新たな人材交流を促進する目的で』――などともっともらしい文言が並ぶが、要するに、泊まりで温泉に行って、みんなでバーベキューやレクリエーションを楽しみましょうという話らしい。
「……いやいや、泊まりって」
思わず漏れたつぶやきに、隣の席から控えめな笑い声が飛んできた。
「おはよう。さっそくみんな、反応してるねぇ」
コーヒー片手に現れたのは麻衣だった。
ヒロトの背後からくるりと回り込むように視線を送り、そのまま隣の椅子に腰をかける。
「麻衣……なんだよこれ。ふざけてるのか?」
「ふざけてないふざけてない。至って真面目な社内企画ですよ? なんせ、私も半分くらい関わってるし」
「お前かよ……。これ社会人向けのイベントか? 宿泊の親睦会って……」
「温泉もあるし、バーベキューもするし、ちゃんとレクもある。ね、楽しそうでしょ? 日頃の疲れも取れるし、英気を養って、仕事にもいい影響が……って建前で、まあ本音は交流目的だね」
「にしても、出欠は後日、人事から確認がありますって……実質、強制じゃねぇか」
「そこが巧妙なのよ。任意参加ですって書いてあるけど、空気を読むことも大事ってやつ? お察しください、みたいな」
肩をすくめて言う彼女に、ヒロトは深く長いため息をついた。
「頼むから、お前がそういう空気に加担すんなよ……」
「加担させられた原因は私じゃなくて、中町くんが前回、私にでっかい貸しを作らせたせいでしょ? 責任とってよ、ちゃんと」
「……あー、そう来るか」
苦々しく呟くヒロトに、麻衣はいたずらっぽく笑いかける。
「ま、ちゃんと楽しみにしてる子もいるし。悪いイベントじゃないって、私は思ってるよ」
そう言って麻衣は、さりげなく隣のブロックへと視線を移した。
つられてヒロトもその先を追う。
そこには、離れたデスクに肘をつきながらスマホを持つキリカの姿。
真剣な面持ちで画面を見つめていたが、ふと何かの通知かメッセージに反応して、ぱっと表情が明るくなる。
口元に浮かんだ笑みは、小さく、けれど確かに、柔らかいものだった。
……あれは、楽しみにしてる様子だ。間違いなく。
「ね? ああいうの見てると、ちょっと安心するんだよね」
麻衣の声がそっと添えられる。
「……お前、見せたいだけじゃないのか」
「さあ? どうだろうね。ただ、寂しそうにしてるよりはよっぽどいいでしょ? 私、あの子には……ちょっと、思うところがあるからさ」
声色を曖昧にぼかす麻衣。
ヒロトはそれ以上何も言わず、再びメールへ視線を戻した。
温泉、親睦、レクリエーション、顔合わせ――
それに、新しいメンバーたち。
新しい空気。
……そして、今のキリカ。
頬に微かな笑みを浮かべてスマホを見つめる彼女が、この先も笑っていられるように。
そう思っている自分に、ヒロトは気づいていた。
口の中で、そっと言葉がこぼれる。
「……不参加っていう選択肢、最初からないんだろ?」
「正解~。理解が早くてよろしい」
すかさず返した麻衣の声に、ヒロトは肩をすくめた。
そして、彼女の笑顔の奥にあった少しだけ意地悪な色に――また手の平の上か、と苦笑いする。
窓の向こうに夏の光が滲み始めた頃、ヒロトはいつも通りの時間にデスクへと腰を下ろした。
もう半月ほどが経つ。あの夜、キリカと二人で徹夜した騒動も、社内ではすっかり過去の話題となり、空気は落ち着いた日常に戻っていた。
背もたれに身体を預けると、ディスプレイの右上でひとつ、未読の通知が点滅している。
カーソルを動かし、クリック。現れたメールのタイトルに、思わず眉が寄った。
『決起集会、および親睦会についてのお知らせ』
「……なんだ、これ」
小さく唸るように呟きながら、ヒロトはスクロールバーを下へ滑らせた。
どうやら社内の数名はすでに確認しているようで、斜め向かいの席の女子が笑いながら誰かと話している声が聞こえる。
送信元は総務部。
文面はやけにかしこまった調子で始まっていたが、読み進めるうちに、肩の力が抜けた。
「次のプロジェクトの顔合わせと親睦会を兼ねた、宿泊イベント……?」
『複数チームによる横断型プロジェクトの連携と理解を深めるため』
『業務負担を軽減するリフレッシュの場として』
『新たな人材交流を促進する目的で』――などともっともらしい文言が並ぶが、要するに、泊まりで温泉に行って、みんなでバーベキューやレクリエーションを楽しみましょうという話らしい。
「……いやいや、泊まりって」
思わず漏れたつぶやきに、隣の席から控えめな笑い声が飛んできた。
「おはよう。さっそくみんな、反応してるねぇ」
コーヒー片手に現れたのは麻衣だった。
ヒロトの背後からくるりと回り込むように視線を送り、そのまま隣の椅子に腰をかける。
「麻衣……なんだよこれ。ふざけてるのか?」
「ふざけてないふざけてない。至って真面目な社内企画ですよ? なんせ、私も半分くらい関わってるし」
「お前かよ……。これ社会人向けのイベントか? 宿泊の親睦会って……」
「温泉もあるし、バーベキューもするし、ちゃんとレクもある。ね、楽しそうでしょ? 日頃の疲れも取れるし、英気を養って、仕事にもいい影響が……って建前で、まあ本音は交流目的だね」
「にしても、出欠は後日、人事から確認がありますって……実質、強制じゃねぇか」
「そこが巧妙なのよ。任意参加ですって書いてあるけど、空気を読むことも大事ってやつ? お察しください、みたいな」
肩をすくめて言う彼女に、ヒロトは深く長いため息をついた。
「頼むから、お前がそういう空気に加担すんなよ……」
「加担させられた原因は私じゃなくて、中町くんが前回、私にでっかい貸しを作らせたせいでしょ? 責任とってよ、ちゃんと」
「……あー、そう来るか」
苦々しく呟くヒロトに、麻衣はいたずらっぽく笑いかける。
「ま、ちゃんと楽しみにしてる子もいるし。悪いイベントじゃないって、私は思ってるよ」
そう言って麻衣は、さりげなく隣のブロックへと視線を移した。
つられてヒロトもその先を追う。
そこには、離れたデスクに肘をつきながらスマホを持つキリカの姿。
真剣な面持ちで画面を見つめていたが、ふと何かの通知かメッセージに反応して、ぱっと表情が明るくなる。
口元に浮かんだ笑みは、小さく、けれど確かに、柔らかいものだった。
……あれは、楽しみにしてる様子だ。間違いなく。
「ね? ああいうの見てると、ちょっと安心するんだよね」
麻衣の声がそっと添えられる。
「……お前、見せたいだけじゃないのか」
「さあ? どうだろうね。ただ、寂しそうにしてるよりはよっぽどいいでしょ? 私、あの子には……ちょっと、思うところがあるからさ」
声色を曖昧にぼかす麻衣。
ヒロトはそれ以上何も言わず、再びメールへ視線を戻した。
温泉、親睦、レクリエーション、顔合わせ――
それに、新しいメンバーたち。
新しい空気。
……そして、今のキリカ。
頬に微かな笑みを浮かべてスマホを見つめる彼女が、この先も笑っていられるように。
そう思っている自分に、ヒロトは気づいていた。
口の中で、そっと言葉がこぼれる。
「……不参加っていう選択肢、最初からないんだろ?」
「正解~。理解が早くてよろしい」
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