好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇2章【波乱と温泉】

8節~また来たいですね~ 4

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「うわぁ、広っ!」

ちひろの弾けた声が、高い天井に跳ね返っていく。
大浴場は思っていた以上に広く、天井までゆるやかに立ちのぼる湯気が、柔らかな薄霧のように灯りをぼかしていた。
奥にはいくつもの湯舟が静かに湯を揺らし、照明の反射が金色の筋となって水面で揺れる。

脇の扉の先には露天風呂。ガラス越しに見える夜景は、街灯が宝石みたいに瞬き、遠くの空気までも澄んで見えた。
木材の香り、湯気の湿り気。
呼吸をするだけで肩の力がふわりと抜け、足先まで温まっていくようだった。

「見て見て、サウナもあるよっ!」

「はいはい、はしゃぐ前にちゃんと体洗いなさい」

姉と妹のようなしおりとちひろのやりとりに、キリカとももが笑う。

「明坂せんぱい、お背中流しますよっ!」

湯気のなか、ぱしゃりと小さな水音。
振り返るより早く、ももがタオルを掲げてぴょんと近づいてきた。
その気配に、キリカの肩がぴくりと震える。掌の中のシャンプー泡は、流しそびれて指にひやりと残った。

「い、いえ、そんなに気を遣わないでください……」

「遠慮しないでください! せっかくの裸の付き合いなんですからぁ」

にこにこと笑う声はまるで風鈴みたいに無邪気で、拒む言葉の行き場がふっと消える。

「いや、遠慮してるわけじゃ……ひぃぃ……」

ふわりと、泡のついたタオルが背中に触れた。
冷たくも温かくもない、湯気と指先の間くらいの温度。
くすぐったさがぞわぞわと肩から腰へ駆け降り、キリカは思わず背を丸めた。

「わっ、ほっそ~い! すべすべ~!」

そんな彼女の反応など全く意に介していないももは、好き放題いいながら撫でるように小さな背中に泡を広げていく。

「あぁ、天内ちゃん、さっきしおりさんの背中を洗った後だから、余計に――冷たい冷たいっ!!」

横から口を挟み余計なことを口走るちひろに、しおりから容赦のない冷水が飛んでくる。
ももはキリカの背中を撫でながら、「山崎せんぱいもスベスベでしたよぉ」と笑う。

「天内ちゃん。次のターゲットは明坂ちゃん?」

端でひとり黙々と体を洗うすみれが問いかけると、ももはにっこり嬉しそうに頷いた。

「はいっ! そういえば、あんまりお喋りできてなかったな~、って!」

一方のキリカは、彼女にロックオンされたことなど知る由もないまま、自らの背に走る指とタオルのこそばゆさに、右へ左へ身をよじっていたが……。
ももの手が、細い腰と小さな臀部に落ちた瞬間、とうとう声を上げた。

「――っ! あの! もう大丈夫ですからっ!」

勢いよく振り返り、両手でタオルを押さえたまま、瞳だけが怯えと羞恥とで潤む。
ももは少しだけ唇を尖らせ、残念そうに目を細めた。

「え~っ、仕方ないなぁ」

「天内ちゃん! 次、私ね!」

ちひろが勢いよく背筋を伸ばし、胸をぐっと張る。
その誇らしげなポーズに、ももはぱぁっと顔を明るくして「は~い!」と嬉しそうに跳ねるように移動していった。

「うわ、後輩に背中洗わせてる……」

「みんな洗ってもらってたじゃん!?」

ちひろの抗議が大浴場に反響し、湯気の中からくすくすと笑い声が立ちのぼる。
しおりが肩を揺らし、すみれが髪を絞りながら半目でちひろを見た。

「天内ちゃん、私の背中への感想は?」

「なに、その無茶ぶり……」

すみれが呆れたように言うが、ももは「う~ん……」と真剣めいた顔つきで首をかしげる。泡がぽたりと腕を伝う。
そして、「ご立派です!」と泡のついた手を叩いて言った。

「それ、褒めてるの……?」

「よかったじゃん、ご立派な背中で」

「先輩は背中で語るって言うもんね」

「絶対バカにしてるでしょ!」

温かい笑いが湯気に混ざり、しっとりした空気がさらに和らぐ。
そんな中、自分の洗い場に戻ったももが、そっとキリカを呼んだ。

「明坂せんぱい、明坂せんぱい」

「……何ですか?」

「私の背中もお願いしますっ」

くるりと背を向け、濡れた髪が肩に貼りつく。
白い背中が、湯気の中でほのかに光る。

「えぇ……」

眼前に静かに晒される、白く柔らかな背中。
湯気の中でほのかに光を帯び、肩甲骨がかすかに呼吸に合わせて上下する。
それはどこか無防備で、子どものようで、同時に触れることにためらいを覚えるほど綺麗だった。

正直に言えば、キリカは誰かに触れられるのも、触れるのも得意ではない。
異性に限らず、同性であっても、肌と肌の距離が近づくと胸の奥がそわつく。

でも――今は、逃げる方が恥ずかしい気がした。
修学旅行みたいな浮かれた空気。
隣で笑い転げる声。
それに、こうして無防備に背中を預けてきたももの姿を前に、気後れだけで離れるのは、なんだか自分の負けみたいで。

キリカは小さく息を吸い、腕を洗っていたタオルをそっとももの背に乗せた。
触れた瞬間、ぬるりとした泡越しに温度が伝わり、心臓がひとつだけ強く跳ねる。

「わっ、やった~!」

「……なにが『やったぁ』なんですか」

ぷいと視線を逸らしながらも、タオルを滑らせる手は止めない。
胸の内側では落ち着かない鼓動がうるさく主張を続けている。

「ん~……野良の猫ちゃんが、こっちに来てくれたときの感覚に似てますねっ」

「…………そうですか」

気の抜けた返事をしながら、軽く泡を広げていく。
結局、謎の敗北感を抱えつつも、どこかでその空気が嫌いではない自分に気づき、余計に照れくさくなった。

「で、どうですか? 私の背中っ!」

唐突に尋ねられ、言葉に困る。
気取るのも、媚びるのも違う。
一瞬だけ迷って――

「……若さが、溢れてますね」

静かにそう言ったキリカに、周囲から「セクハラおじさんじゃん!」という容赦ない野次が飛ぶ。

「や、やっぱり……やらなきゃよかった……!」

小声の嘆きは、湯気に溶けて誰にも拾われない。
だけど、胸の奥には確かにぽかりとした温かさが残っていた。
触れられた背中より、触れた自分の手のほうが、熱を残している気がしてならなかった。
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