好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇2章【波乱と温泉】

9節~熱~ 2

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もう一方の脱衣所は、まるで小さな蒸気機関車のように、湯気と熱気が満ちていた。
湯上がりの男たちがわいわいと笑い、床に滴る水音が絶えない。
その真ん中で、ヒロトはぐったりと腰を下ろしていた。

腰に巻いたタオルが少しずり落ちかけているが、直す気力もない。
ぼさぼさの髪から滴る水が、肩を伝って床に落ちる。
それを拭うこともせず、ただぼんやりと虚空を見上げた。

「……あっちィ……」

乾いた喉から、ため息のような声が漏れる。
温泉で癒されるどころか、むしろ疲労が倍増した気がした。

ついさっきまで繰り広げられていたのは――『サウナバトル』。
男たちの無駄な闘争心が火を噴き、誰が一番長く灼熱の中にいられるかという、くだらなくも誇り高い戦いだった。
しかも敗者にはジュース奢りという、小学生のようなルール付きである。

「わっはっは、卓球王の座は逃したが、サウナキングの称号はゲットだぜ~!」

全身真っ赤に染まった倉本が、タオルを肩にかけて誇らしげに歩いてくる。
あの地獄の温度の中でタオルを振り回し、「ロウリュだ!」と叫んでいた男とは思えない元気さに、ヒロトは呆れを通り越して感心すらした。

「お前……なんでそんな元気なんだよ」

「ふっふっふ。俺の体力をナメてもらっちゃあ困るな。特に、とことん楽しむと決めたときの俺は」

「いい性格してるよ、ホント」

片手で顔を覆いながら、ヒロトはぐったりと呟く。
視界の端では、仲間たちがタオル片手に水を飲み干している。
その熱気と喧騒に包まれながら、ヒロトは小さく笑った。

「おいおい、大丈夫かよ。サウナ苦手なのに意地張るからだぞ~」

「……うるせぇ」

ぼやきながらも、声に力が入らない。
疲労回復どころか、確実に寿命を削っている気がする。まさに本末転倒だ。

「ま、宴会まではまだ時間あるしな。ゆっくり休め」

「そうさせてもらうよ……」

ひらひらと手を振って、倉本は「そろそろ行くぞ~」と声を上げる。
他の男性社員たちも気怠そうに身支度を始め、気が付いたころには脱衣所には人の気配がなくなっていた。

「……はぁ」

小さく息をつき、重い体をようやく引き上げる。
半乾きの髪をタオルで雑に拭きながら、このあと待っている時間のことを思う。

本日最後の全体イベント。
酒を飲み、浮かれてはしゃぐであろう社員たちの姿。
そして……キリカと交わした約束。

そのひとつひとつが、頭の中でゆっくりと結びついていく。
ヒロトは肩にタオルを掛け、湯気の残る空気を背に出口へ向かった。
足元の床板がぺたりと鳴る。
その音が、妙に遠く感じた。

浴衣を身にまとい、帯を締め直す。
久しぶりに袖を通す和装の感触が、少し気恥ずかしい。
胸の前で軽く結び目を整えると、自然に息がひとつ落ちた。

そして、脱衣所を出た瞬間……。

「――――あっ」

思わず、足が止まる。
目の前の廊下に、見覚えのある面々が、新鮮な浴衣姿で並んでいた。
視線が交わる。ほんの短い瞬間なのに、空気がふっと澄んだ気がした。

同じ柄の浴衣に、帯の色だけがそれぞれ違う。
薄緑や藤色、橙や白――光沢のある布地が柔らかく灯りを反射している。
湯上がりの頬に残る赤みが、どの顔にもほんのり映えていた。

「わっ、ヒロトせんぱいも浴衣だぁ」

声を弾ませながら駆け寄ってきたのは、やはりももだった。
裾を軽やかに揺らし、乾ききらない髪を肩に跳ねさせながら笑う。
昼間のワンピースより布が多いはずなのに、なぜか直視しづらい。
視線の置き場に困り、ヒロトは小さく咳払いした。

「せんぱい、せんぱい! 何か言うこと、ないんですかぁ?」

ももの期待に満ちた瞳が、まっすぐに見上げてくる。
その圧に、ヒロトは思わず顔を逸らして苦笑した。

「……はいはい、よくお似合いで」

渋々吐き出したその一言にも、ももは嬉しそうに「やったぁ!」と両手を広げて跳ねる。
そして、当然のように彼の隣に並んだ。
湯上がりの石鹸の香りが、ふっと鼻をかすめる。

「ちょうどいいタイミングだったんだな」

ヒロトがぐるりと彼女たちを見回して言う。

「いやぁ、露天風呂で語らい合っちゃいまして」

「集合時間まで何してようかって話してたんです」

笑いながら輪に加わるしおりとちひろ。
ヒロトは浴衣の裾を整えつつ、彼女たちを見回した。

「せんぱいは、何してる予定だったんですかぁ?」

「俺は……湯冷ましにゲームコーナーでも覗こうかと思ってたところだよ」

「わぁ、楽しそう! 私も一緒に行きたいです!」

その言葉に、しおりたちが顔を見合わせる。
時間を持て余していた彼女たちは、自然とその提案に頷いた。

ヒロトは肩を竦めて、苦笑を浮かべる。

「どうぞご自由に」

少しだけ照れを含んだその声に、また笑いが生まれた。
柔らかい灯りの下、湯気の残る廊下に、ほんのりと温かな空気が漂っていた。
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