好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇2章【波乱と温泉】

10節~『ひろくん』~ 6

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「えっ?」

ヒロトの短い声が、空気を裂くように響いた。

その瞬間――
宴会場の一角から、音がすっと抜け落ちた。

さっきまで耳の奥をくすぐっていたざわめきも、茶化し合う笑い声も、
箸が器を鳴らす細かな音さえも、急に遠くへ追いやられたように消えていく。

紗菜は、ぱちりと瞬きをした。
何が起きたのか理解するより早く、周囲の視線が一斉に自分へ集まっていることだけが分かる。

グラスを持つ手を途中で止めたまま、ぽかんと口を開けている同僚たち。
その輪の中心で――
驚きと戸惑いを同時に宿した目で、まっすぐこちらを見つめている『ひろくん』。

その視線に晒された瞬間、ようやく自覚が追いついた。

――……私、今……『ひろくん』って、呼んだ……?

ぐらり、と血の気が引く。
さっきまで頬をほんのり温めていたアルコールの熱が、一瞬で羞恥と後悔の火に変わって燃え上がった。

口にした瞬間には気づかなかった。
けれど今なら、はっきり分かる。

やってしまった――と。

心の奥で、かすかな悲鳴が上がる。
一拍遅れて、その静寂を破ったのは周囲のざわめきだった。

「ええ~っ! 高森さんと中町さんって、そういう感じなんですか……?」

女子社員たちが、わぁっと一斉に沸き立つ。
田沼は面白がるように目を細め、「そりゃあ後輩になびかないわけだ」と、勝手な納得までしてみせた。

「いやいや……違うから。変な勘違いは止めてくれ。ねぇ、高森さん?」

必死の火消しに似た助け舟。
ヒロトが紗菜のほうへと向き直る。

けれど――紗菜は、返事どころか、うまく息を吸うことさえできなかった。

喉が急に細くなったみたいで、声が出ない。
頬の熱は耳の奥にまで染み込み、視界の端まで赤く染めていくような感覚だけがじわじわと広がっていく。

情けない――と、自分で自分を責める。
そのたびに、さらに顔が熱くなった。

ヒロトは困ったように、それでもどこか柔らかな色を帯びた表情で口元を歪めた。
見限るでもなく、責めるでもなく、ただ状況に固まってしまった紗菜をそっと見守るように。

こんなはずじゃなかったのに――。

胸の奥で、ぽとりと重い感情が落ちていく。
紗菜は、本気でこの場から消えてしまいたい衝動に囚われていた。

椅子ごと床に沈んでしまえればいい。
あるいは、このまま布団にもぐり込んで、朝になってすべて夢だったことになってくれたら――。

しかし、身体は石のように固まったまま動かない。

燃えるように熱い頬にそっと手を添え、何とか呼吸を整えようとする。
それでも視線は落ち着かず、絞り出したように右へ左へ泳ぎ続けた。

「会社で名前で呼ばれることなんてないからなぁ、ビックリしたよ、あはは」

場を和ませようとしたヒロトの一言は、しかし酔いの回った場には別の火をつけてしまった。

「え~? じゃあ、プライベートではいつも名前で呼んでるんですかぁ?」

「……っ、ありえませんっ!」

反射のように言葉が飛び出す。
思わず強すぎる否定を叩きつけてしまい、その必死さが逆に疑いを深めてしまったと気づくのは、ほんの一呼吸遅れだった。

頬に熱がこもる。
耳の奥まで、じわじわと火が回っていく。

「え~? そんなに全力否定だと、疑っちゃうかも」

女子たちの笑い声が重なり、紗菜の視界が少しだけ揺れた。
酔いよりも、羞恥と焦りで足元が浮くような感覚。

助けを求める先を探すように、視線がふらふらとさまよう。
ふと向こうのテーブルに目を向けると、仲の良い同僚の女子と目が合った。
そこから伝わってくるのは、呆れと落胆が混ざったような、どこか冷たい光。

胸の奥が、きゅっと縮んだ。
息が詰まりそうになる。

本当に消えてしまいたい――。
紗菜は、そんな衝動を胸の内で必死に押し込めた。

その時だった。

「いやぁ、そもそも俺、彼女いますもん」

ヒロトの、何気ない口調の一言。
けれどその声は、天井からまっすぐ差し込む光のように、テーブルに渦巻いていた熱をさらりと変えていく。

「あれ、そうなんでしたっけ?」

「そういえば……今日も倉本さんが騒いでましたよね。彼女持ちのくせに~、って。あははっ」

「だったらさっきの恋愛トークに、もっと乗ってきてくださいよぉ」

軽口が飛ぶたびに、さっきまでの妙な緊張は少しずつ薄まり、代わりにいつもの賑やかさが戻ってくる。
ヒロトは苦笑しながら頭をかき、ふとした動きで紗菜のほうへ向き直った。

照明に縁取られた横顔。
真正面から向けられた視線。
触れた途端、紗菜の背筋は反射のようにぴんと伸びる。

「だから……ごめんなさい、高森さん」

落ち着いた、低めの声。
場を丸く収めようとする気遣いが、言葉の端々にそっと滲んでいた。

「あ、はい。全然大丈夫です」

条件反射みたいに笑みを作り、会釈を返す。
けれど、心のほうはまだ追いつかない。
焦りの方が先に手綱を握り、口が勝手に動いた。

「いや、勝手に振られたみたいにしないでください!」

自分でも意図しない反撃めいた一言だった。
だがそれが、驚くほどテーブルのツボを正確に突いたらしい。

「あはは、高森さん残念!」

「勝手に残念にしないでくださいってば!」

爆発したような笑い声が広がり、ほんの数秒前までの刺々しい空気は、跡形もなく薄れていく。

ヒロトは「やれやれ」と小さくため息をつきながらグラスを手に取り、その何気ない仕草に合わせるように、場はすっかり元の賑やかさを取り戻していった。

そんな中でただ一人。
笑い声のすぐそばで、紗菜の思考だけが、ゆっくりと静かな水底へ沈んでいく。

彼は今、「彼女がいる」と言った。
けれど――あれは明らかに、その場をやんわりと終わらせるための方便だ。

ヒカリのあとに、別の恋人ができたとは考えにくい。
だとすれば、恐らく彼は、ヒカリから届いた連絡には、もう応じていない。

そこまで考えて、紗菜はひとつの答えにたどり着く。

――もしかして、この人。ヒカリと別れたことを、周囲に言ってない……?

それはつまり。
まだ誰かに言葉として渡せないほど、心の中で整理しきれていないということかもしれない。

「彼女がいる」と口にしてまで守ろうとしたもの。
たとえそれが嘘でも、その影はきっと――ヒカリのものだ。

そっと、彼を見上げる。
ちょうどその瞬間、ヒロトも何気なくこちらに視線を向けた。
ぱちりと目が合う。

慌てて顔を逸らす。
火照りがぶり返し、胸の奥がざわつく。

グラスを口元へ運び、冷たい液体を喉へ流し込む。
ひと息で飲み干すと、さっきまで乱れていた呼吸が、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。

……とりあえず、聞きたいことは聞けた。

羞恥と後悔は、まだ全身にじんじんと焼け跡のような痛みを残している。
それでも、その奥で確かに得た「一歩前進」の手触りだけは、消えずに灯り続けていた。

紗菜はそれを胸の奥にそっとしまい込む。
自分で撒き散らした自爆の痛々しささえ、その瞬間だけは、不思議とどうでもよく思えた。
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