好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇2章【波乱と温泉】

11節~それぞれのテーブル~ 1

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少し離れたテーブルの空気が、にわかにざわつき始めた。
どよめきの波がさざなみのように広がり、その一角だけが、温泉宿の大広間とは思えないほど妙に熱を帯びている。

「……?」

キリカは、持ち上げかけたグラスの縁に唇を触れたまま、そっと上半身だけをひねってそちらを振り返った。
そして——やっぱり、と胸の内で静かに呟く。

その中心にいるのは、いつだって同じ。
中町ヒロトだった。

「あ~……高森さん、飲んでるなぁ」

同じ方向を眺めていた倉本が、キリカの隣で苦笑混じりに言った。

「高森さん……?」

キリカは、ヒロトの隣で勢いよくグラスを空けている女性へ視線を向ける。
浴衣姿で、頬を朱に染めているのに、どこか冷静さを残した横顔。
けれど、グラスの傾け方や笑い方の端々に、危うさの匂いが漂っている。

「あれ、知らないか。俺のチームの数少ない女子社員なんだけどさ、酒飲むとダメなんだよなぁ、あの人」

「へぇ……」

相槌を打ちながらも、瞳はヒロトと高森紗菜のほうから離れなかった。
二人の距離は近く、視線が交わるたびに、紗菜の表情がかすかに揺れる。
それを見ているヒロトの横顔にも、どこか気遣うような陰りが差していた。

「……実際、どうなの? 中町と」

ぽつりと落とされた倉本の声に、キリカははっと我に返る。
酔いのせいか、普段よりも遠慮のない、真正面からの問いだった。

「ど、どうもこうも……ないですけど」

思わず声が裏返る。
自分でも驚くほど反射的で、照れ隠しが丸見えの返事だった。
倉本はそれがよほどツボにはまったのか、一拍置いてから、にやりと口角を持ち上げる。

「そっかぁ、残念」

「……残念って、なにがですか」

いつものふざけた調子に戻った倉本に、キリカは眉を寄せながら問い返す。
倉本はグラスを喉に流し込み、そのままにやにやと笑みを深めた。

「いやぁ、俺ら今日、風呂でサウナバトルしてたんだけどさ」

「あぁ……」

本当にやってたんだ、とキリカは内心でため息をついた。

「そのとき、聞いてみたんだよね。どっちが好み? って」

「…………何の話ですか」

口では素っ気なく返しながら、両手は無意識のうちにグラスを包み込むようにきつく握っていた。
倉本は、その仕草を面白がるように肩をすくめる。

「明坂ちゃんと天内ちゃん、どっち~? って」

「えっ」

胸の奥で、小さな音が跳ねた。
一瞬、息が上手く入ってこない。
その問いに、彼——ヒロトは、本当に答えたのだろうか。
答えたとしたら、一体、どこを比較したのだろう。
思考が勝手に走り出す。

キリカの揺らぎを見透かしたように、倉本はわざと間を溜めてから、ゆっくりと言葉を継いだ。

「でも、そっかー。興味がないなら別に言っても仕方ないよなぁ」

「は……? い、いえ、別に興味がないってわけじゃ……!」

慌てて否定すると、倉本が待ってましたと言わんばかりに口角を持ち上げる。

「じゃ、興味津々?」

「全然、津々じゃないですけど!?」

反射的に声が大きくなった。
「津々」という単語だけを拾って楽しそうに笑う倉本に、キリカは顔を真っ赤にして、ぐぬぬと奥歯を噛みしめる。

「こ、後学のために……気になるだけです……!」

苦し紛れにひねり出した言葉だった。
それでも、倉本は「はい出ました」というふうに満足げに頷き、ようやく種明かしのように口を開く。

「天内ちゃん派だってさ、」

その一言が落ちた瞬間、思考がぴたりと止まった。

何を言われたのか、すぐには飲み込めない。
「天内ちゃん派」という、聞き慣れない分類の意味を探そうとして、頭の中で言葉が空回りする。
それがヒロトの口から出た答えなのだと想像した途端、胸のあたりがずしりと重くなった。

二人で取ったぬいぐるみの場面が、ふいに脳裏によみがえる。
浮かんだ映像にまとわりつく感情は、形になり切る前に、ぐちゃりと崩れそうになる。

——いやだ。

その言葉が意識の表面まで浮かび上がるより早く、倉本の次の一言が、容赦なく被さった。

「…………宮里は」

「み、やざ、……誰っ!?」

あまりにも予想の斜め上すぎる名前に、頭の中で組み上がりかけていた思考が一気に吹き飛ぶ。
反射で飛び出した声があまりに素直で、自分でも驚くほどだった。
口を押さえるより早く、倉本は腹を抱えて笑い転げる。

「いやぁ、良いリアクションするなぁ、明坂ちゃん」

嬉々として笑う声が、混乱と羞恥でいっぱいになった胸の内に、これでもかと追い打ちをかける。

「いやぁ、悪い悪い。まさか、んな泣きそうな顔すると思わなくてさァ」

「……ぶん殴っていいですか?」

倉本はまるで悪びれない。
むしろ、完全に楽しんでいる顔だった。
キリカは拳をぎゅっと握りしめながら、「こんなのと同期で仲がいいなんて、あの先輩は本当にどうかしている」と、心の中で小さく毒づく。

そう思った、そのときだった。

「……あ~っ! 倉本が明坂ちゃん泣かしてる~!!」

向かいの席の女子社員が、場の空気を震わせるような声を上げた。
一瞬で視線が集まり、ざわめきが波紋のように広がっていく。

倉本が「えっ」と短く声を漏らしたときには、もう手遅れだった。
キリカの目元は、さっきの動揺の名残でほんの少し潤んで見え、その表情は、事情を知らない周囲からすれば「泣きそうな後輩」にしか見えない。

「は!? 倉本アンタ、何してるの!?」

「い、いや! 誤解だ! 誤解だって! なぁ、明坂ちゃん!?」

両手をぶんぶん振り回しながら必死に否定し、助けを求めるような視線をキリカに送ってくる倉本。
しかし、その期待を受け止める代わりに——キリカは一瞬だけ、いたずらを仕掛ける前の子どものように、薄く笑った。

そして、ゆっくりと浴衣の袖を持ち上げ、そっと目元に当てる。

「倉本先輩が……ひどくて……」

「ちょ、待っ……!」

倉本の悲鳴じみた声は、周囲から一斉に飛び交った非難と突っ込みの渦にあっという間に飲み込まれていった。

「あんたねぇ、女の子泣かすとか最低だから!」

「何……? もしかして、セクハラじゃないでしょうね……!?」

わっと響く声と笑いの波。
倉本は四方八方から責め立てられ、身動きの取れない状態に追い込まれていく。

そんな彼の窮地を横目で眺めながら、キリカは小さく舌を出し、「べぇ」と誰にも聞こえないくらいの声で笑った。
胸の奥でさっきまでぐちゃぐちゃに絡まっていた感情が、少しずつほぐれていく。

乙女の心を弄んだのだから、このくらいの報いは当然だ。
そう思いながら、彼女は静かにグラスを傾けた。

氷の溶ける音が、からん、と小さく震えて、喧騒のなかへ溶けていった。
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