好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇2章【波乱と温泉】

11節~それぞれのテーブル~ 2

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「……スイマセンでした!」

どこか抜け殻みたいな声とともに、倉本がキリカの隣へ戻ってきた。
さっきまでの勢いはきれいさっぱり削げ落ち、肩も背中も半分しおれてしまったように見える。
その情けない横顔が、妙におかしくて、キリカは奥歯で笑いを噛み殺した。

「明坂ちゃん! またセクハラされそうになったらすぐ叫んでね!」

「はいっ!」

「だから、セクハラじゃねぇって!!」

遠慮のない声が飛び交い、テーブルの空気は再び賑やかさを取り戻す。
温泉旅館の大広間に満ちるざわめきと、あちこちの席から立ち上る笑い声。
いくつもの波が重なり合って、夜祭りの最中にいるように場全体が揺れていた。

倉本はうんざりしたように肩を落とし、無言のままグラスを呷る。
喉を通ったアルコールが効いてきたのか、ひと息ついたあと、ふいに声の調子を変えた。

「あいつ……あぁ、中町な。あいつ、ちょっと前まで、つまんなそうに仕事しててさぁ」

「……そうなんですか?」

その一言で、キリカの背筋が自然と伸びた。
彼の名前が出た瞬間、胸の奥のどこかが、ひそやかに音を立てる。

「うん。きっちりとはやってたけど、何ていうのかなぁ……まあ、とにかくちょっと様子が変だったわけよ」

「……はぁ」

その「ちょっと前」がいつ頃なのか。
その頃の彼が、どんな顔でデスクに向かっていたのか。
思い浮かべようとしても、輪郭のはっきりしたイメージは掴めない。
曖昧な返事しかできない自分が、少しだけもどかしかった。

倉本は手元の枝豆をつまみ、指先で器用に殻を割りながら続ける。

「でも、明坂ちゃんが来てから、また仕事に張り合いが出来たみたいでさ。つい嬉しくなっちまって、調子乗っちったんだよね」

「私が?」

驚きが、考えるより先に口をついて出た。
ぽん、と枝豆の殻を皿に落としながら、倉本は当然だと言わんばかりに頷く。

「そ。まあ、若いのが多い会社だし、みんな色恋沙汰好きだからなぁ……。あいつから久しぶりに浮ついた話が聞けると思ってさ。つい悪ノリしすぎちまった。ごめんな?」

「そ、それはもういいですけど……」

口ではそう返しながら、胸の奥がざわりと波打つ。
倉本の何気ない一言一言が、水紋みたいに静かに広がっていく。

「浮ついた話もなにも……彼女、いるじゃないですか。中町先輩」

「そうだよなぁ」

倉本は、あっさりとした調子で笑った。

キリカは膝の上で指を絡め、ぎゅっと握りしめる。
サウナで聞いた、ももの声が鮮やかによみがえった。

「彼女がいる人が、他の女の子となにかあったら……」

喉の奥が、ひりつくように乾く。
理由の分からない痛みが、胸の底でじくじくとくすぶった。

「……大変じゃないですか」

やっと絞り出した声は、小さく震えていた。

「ヒカリちゃんな。まあ、そうなんだけどさ」

倉本は懐かしむようにその名前を口にし、グラスを軽く傾ける。
普段より少しだけ静かな横顔に、キリカは息を詰めるように黙った。

「ヒカリちゃんの話も、ここんとこあんま聞かなくなったから、余計にな」

「でも……中町先輩、会社で彼女のこと惚気るタイプじゃなさそうですよね」

それは、日頃感じていた彼への印象そのままの言葉だった。
そんな言葉に、倉本は「いや?」と意外そうに声を上げ、あっけらかんと笑う。

「入社したての頃は、割といろいろ話してたぜ?」

「そうなのっ!?」

反射的に飛び出した声に、自分でも驚いて口を押さえる。
敬語も距離感も一瞬で吹き飛び、身体ごと前のめりになっていた。

今の、恋愛の話を避けているような彼からは、とても想像がつかない。
倉本は特に気にする様子もなく、飄々と続けた。

「うん。俺、ヒカリちゃんの誕生日プレゼントとか、デートの場所とか、よく勝手にアドバイスしてたもん」

「めっちゃウザそうに追い払われたけどな」と笑う倉本。
デート、プレゼント――そのたった二語が、キリカの胸の奥をきゅっと締め付けた。

「まあ、でも一年経つか経たないかくらいだったかな? そっから急にさ、ぜんっぜん教えてくれなくなって」

ぽろりとこぼれたぼやきに、キリカは小さく息を呑む。

何があったのだろう。
どうして、話せなくなってしまったのだろう。
胸の内に浮かびかけた問いを悟られないように、咄嗟に別の言葉を選ぶ。

「……しつこく聞きすぎたんじゃないですか?」

「それはある!」

あっさり認めて笑う倉本に、「もう」とキリカも小さく笑って返した。

笑い声とともに、話題はそのまま別の方向へ流れていく。
けれど、胸の奥だけは取り残されたままだった。
形を持たない疑問が、小さな影のように、そこにじっと居座り続ける。

もし――もしも、彼が話せなくなった理由があったのだとしたら。

それはきっと、自分の知らない場所で生まれて、自分の知らないところで積もっていった想いの形なのだろう。

氷の溶けかけたグラスの縁を、指先でそっとなぞる。
ガラス越しの冷たさがじわりと沁みて、胸の内側をざわつかせる感情だけが、妙にあたたかく残った。

そして、誰にも届かないほど小さく、息と一緒に言葉が零れる。

「……私に、聞かせてほしいな」

その声は、空気に溶け切る前に、自分の中で静かに消えていった。
届かなくていいはずなのに、届かないことがひどく寂しい。

そのとき、グラスの中で氷がひとつ崩れる。
カラン、と澄んだ音が跳ねて、夜のざわめきに紛れながら、まっすぐ胸の奥へ落ちていった。

まるで、言えなかった気持ちの欠片みたいに。
その小さな響きだけが、いつまでも消えずにそこに留まり続けた。
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